75 恐るべき者(12章4〜7節)
「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。(一二・四)
イエスは親しみをこめて、弟子たちに友人として、また仲間として語りかけられます。イエスが弟子を自分の仲間とされていることは、後に出てくる「自分をわたしの仲間と言い表す者」という表現(八節)の伏線になっています。「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。(一二・五)
では、誰をも恐れることはないのか。そうではない。恐れるべき者がある。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども」を恐れることはないが、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」をこそ恐れるべきである、とイエスは言われます。この言葉は、体の生死の問題以上に重大な問題があることを指し示しています。それは、死んだ後に神の栄光にあずかるようになるのか、神から永遠に切り離された絶望と暗闇の世界、すなわち「地獄」に墜ちるのかの問題です。それを決める権威のある方をこそ恐れ、その方の意に反して地獄に墜ちることなく、その方の意に従って栄光に入るために、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども」を恐れてはならないのです。ここでも、神が裁かれる終わりの日の視点から、現在の迫害が見られています。ルカ福音書で「地獄」という語が出てくるのはここだけです。「地獄」およびその原語である《ゲヘナ》については、拙著『マルコ福音書講解T』392頁以下、および拙著『キリスト信仰の諸相』228頁以下を参照してください。
新共同訳は「地獄に投げ込む権威を持っている者」を神と解釈して訳していますが(それは正当な解釈です)、それでは神が殺す者となり、受け容れがたいとして、サタンとか別の解釈も出てきます。しかし、旧約聖書では、神は「殺し、また生かす」神です(申命記三二・三九、サムエル上二・六など)。イエスは、「地獄」とか「殺し生かす神」という当時のユダヤ人の宗教用語を用いて、迫害を乗りこえる原理を語っておられるわけです。真に恐れるべき方を恐れることによって、恐れる必要のない者を恐れる恐れから解放して、神に従う勇気を持ちうるための原理です。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀より もはるかにまさっている」。(一二・六〜七)
アサリオン(銅貨)はローマの通貨で、一デナリオン(ほぼ労働者一日の賃金)の一六分の一に相当します。五羽で二アサリオン(マタイでは二羽で一アサリオン)で売られている雀は、貧しい者たちにとって手軽に買えるご馳走の代表格でした。そのように安い雀さえも、神の配慮から漏れることはない、とイエスは言われます。マタイは「その一羽さえ、父の許しがなければ地に落ちることはない」と表現しています。