市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第2講

60 弟子の覚悟(9章56〜62節)

人の子には枕する所がない

 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。(九・五七〜五八)

 受難の地であるエルサレムに向かって道を進まれるイエスに、ある人が「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言います。この人は、イエスがエルサレムに入られたならば神の国はすぐにでも現れるものと思っていた人たち(一九・一一)の一人であったのでしょう。イエスから受難の予告を聞いていた弟子たちでさえ、イエスがエルサレムに入られたなら直ちにメシアの栄光が現れると考えていたのです(マルコ一〇・三五〜三七)。イエスの輝かしい奇跡を見ていた周囲の人がそう考えるのは無理もありません。その栄光にあずかるために、その人はイエスに従う決意を示します。
 その期待と決意に対してイエスは、イエスに従う道は栄光の道ではなく、この世から拒絶される道であることを指し示されます。ここで「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」という事実と対照的に、「だが、人の子には枕する所もない」と言われているのは、狐や鳥には眠る場所があるのに人間には安心して眠る所もないと、人の世の生き辛さを嘆いているのではなく、イエスご自身の苦難の道を指しています。イエスはすでにご自分の受難を「人の子」を主語にして語っておられます(九・二二)。イエスがご自分の受難を「人の子」という称号を用いて語られたとされる経緯は、その箇所で述べた通りです。ここでも、その称号を用いて、イエスがこのユダヤ教社会では排斥されて「枕する所もない」道を歩まなければならないことを語り、自分に従おうとする者も、同じように扱われることを覚悟する必要があるとされます。
 このイエスの言葉を聞いた人がどのような態度をとったかは触れられていません。福音書はイエスの言葉を伝えるだけで、その言葉への対応は今この言葉を聴く読者一人ひとりに委ねています。その人がどうしたかではなく、今わたしがこの御言葉により、世から排斥される生涯を覚悟してイエスに従うかどうかが問われています。これは後に続く二つの語録も同じです。

死んだ者に死んだ者を葬らせよ

 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」。(九・五九〜六〇)

 ペトロたち弟子の場合もそうでしたが、イエスはお選びになった人に「わたしに従いなさい」と言って、ご自分についてくるように召されました。ペトロとヤコブとヨハネは「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のでした(五・一一)。マルコ(一・二〇)では、ヤコブとヨハネについて「父ゼベダイを舟に残して」イエスに従ったとされています。このように召された人たちの中で、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った人の場合がここに伝えられています。
 当時のユダヤ教においては、亡くなった父親を葬って葬儀をすることは、息子の大切な宗教上の義務でした。それを果たすためには、「トーラー」に規定されている他のあらゆる宗教的義務が免除される重要な義務でした。この人が「まず父を葬りに行かせてください」と言ったのは、当時のユダヤ教徒としては当然の願いでした。この人はイエスに従うことを拒んだのではなく、宗教的義務を果たすことを第一とし、イエスに従うことを第二としたのです。
 この順序づけに対してイエスは、何よりもイエスに従うことを第一にするように求められます。死者を葬ることは「死んでいる者たち」に委せて、召されたあなたは行って、神の国を言い広めるように求められます。ここで「あなた」が強調されています。イエスの言葉は、わたしに召された弟子であるあなたがまず第一になすべきことは、わたしに従い、わたしと共に神の国を言い広めることである、死者を葬ることは「死んでいる者たち」に委せておけばよい、という意味になります。
 では、「死んでいる者たち」とは誰を指しているのでしょうか。文字通りの意味で身体的に死んだ者は葬儀を行うことはできないのですから、そういう意味ではありえません。では、霊的に死んでいる者たちを指しているのでしょうか。死者を葬ることは霊的に死んでいる者たちがすることであって、霊的な意味で生きている者は、実際の死者の埋葬とか葬儀を行わなくてもよい、あるいは行うべきではないのでしょうか。そうであれば、キリスト者の共同体では原則として埋葬とか葬儀はありえないことになり、奇妙な解釈になります。
 解釈が行き詰まるのは、ここの「死者を葬る」を実際の葬儀とすることから来ています。たしかにイエスは、実際に葬儀を出さなければならない人の願いをきっかけにして語っておられます。しかし、父親の葬儀をするという世間で最重要視されている営みを取り上げて、それよりもさらに重要で緊迫した義務があることを指し示しておられるのです。それは、イエスに従い、イエスと共に神の支配の到来を世界に告知する使命です。イエスに召された者には、これはあらゆる世間的な義務に優先します。
 わたしたちはこの世で生きている上で、なすべき仕事や果たさなければならない義務が多くあります。医師は病人を治療し、法律家は正義の実現のために法律の実務に携わります。事業家は生活に必要な物資の生産や流通を担当します。娯楽のために働く人々も必要です。このような仕事や義務は、それぞれの分野に秀でた人たちに委せておけばよいのです。そのような仕事や義務は、それぞれの分野の専門家に委せておけばよい、世間のことは世間の人に委せておけばよいということを、イエスはイエス独特の激しい表現ないし比喩、たとえば「らくだが針の穴を通る」とか「ぶよを漉してらくだを飲み込む」というのと同じく、実際にはありえない「死んでいる者たちに死者を葬らせる」という逆説的な表現で語られるのです。
 世間のことは世間の人たちに委せ、わたしに召されたあなたはもはや世間のことに煩わされることなく、出て行って専心に神の国を告げ知らせ、神の命を与える使命を果たすように求められます。しかし、イエスの言葉はみなそうですが、この言葉も誰がそうすべきであるのか、と第三者の立場で問うことは無意味です。あくまでわたしの問題です。イエスが「あなたは行って」と言っておられるように、イエスとわたしの関わりとして受け取らなければなりません。先にも述べましたが、ここに集められたイエスに従う覚悟を促す三つの語録に対して、それを聞いた人の対応は語られていません。イエスの言葉は、今この言葉を聴く一人ひとりに決断を迫っています。

鋤に手をかけてから後ろを顧みる者

 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(九・六一〜六二)

 この段落に集められた三つの語録のうち、初めの二つはマタイにもあり、「語録資料Q」から取られたと考えられますが、三つ目のこの語録はルカだけにあるものです。これは先の死者を葬ることについての語録と同じく、「神の国」告知の緊急性を語っています。
 イエスに従う決意をして「神の国」を告知する働きに乗り出した者で、「しかしまず」と言って、家族の絆や世間の義理などを先にし、「神の国」告知の働きを後回しにする者は、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」として、神の国の働き人としてふさわしくない、とイエスは言われます。
 この段落も聖書に親しんでいる者にはエリヤのことを思い起こさせます。エリヤが畑を耕しているエリシャに外套を投げかけて従うように召したとき、エリシャは父と母に別れを告げに行く許しを求めました。エリヤはそれを許しています(列王記上一九・一九〜二一)。それに対してイエスは、召された者が神の国を言い広めることを、家族にいとまごいをすることよりも、また父親の葬儀を出すよりも緊急のこととしておられます。イエスの「神の国」告知には、その到来が差し迫っているという終末的切迫の面があったことを忘れてはなりません。