市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第51講

55 悪霊に取りつかれた子をいやす(9章37〜43節a)

癲癇(てんかん)の子

 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。(九・三七)

 ここからエルサレムに向かう決意をされるところ(九・五一)まで、ルカはマルコに従って物語を進めていきます。山を下りられたところで悪霊に取りつかれた子をいやされた出来事が置かれていることも同じですが、マルコの記事と較べると、ルカは大幅に簡略化しています。

 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」。(九・三八〜四〇)

 この子の症状は癲癇(てんかん)と呼ばれる病気の典型的な症例です。癲癇(てんかん)は、反復性の発作をおもな症例とする慢性の脳疾患で、青春期とか幼少期に発病する場合が多い病気です。発作は一、二分の短いものから、数時間、数週間に及ぶ場合もあり、発作が起こると、痙攣(けいれん)だけでなく、意識や感情、感覚や運動など精神と身体の全般にわたる症状が発作として現れます。現在ではそのような発作が脳の障害から来るものであることが分かっていますが、古代の人々は他の病気の場合と同じくそれを悪霊の仕業としていました。

信仰のない時代

 イエスが山におられる間に、この癲癇(てんかん)の子をもつ父親が麓に残っている弟子たちに、悪霊を追い出すように頼みましたが、弟子たちはそれができませんでした。それで、山から下りてこられたイエスを見た父親がイエスに頼むことになります。この状況をごらんになったイエスは嘆かれます。

 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい」。(九・四一)

 この言葉は、父親だけでなく弟子たちをも含め、イエスを取り巻いている群衆に向けられています。イエスは、この終わりの時に神から遣わされた者を迎えるイスラエルの不信仰を嘆かれます。この決定的な時を迎えるこの時代のイスラエルは、信仰によって、すなわち神から来られたイエスを受け入れ、神に立ち返ることによって、悪霊から完全に解放されて栄光の姿になっていなければならないのに、イエスを信じることなく、いつまでも神に背を向けたままで、悪霊の支配から解放されないでいる現状を嘆かれます。
 イスラエルがそのような状態であるので、神の力を宿すイエスが、民の苦しみを救うために日夜働かなければならい状況が続きます。そのことをイエスは、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と嘆かれるのです。そして、「あなたの子供をここに連れて来なさい」と言われます。ここまでは、その子の状態についての父親の説明だけでした。ここでイエスは、悪霊に取りつかれて苦しんでいる本人自身をみもとに来させます。

神の大いなる力

 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。(九・四二a)

 その子が連れてこられる途中でも、癲癇(てんかん)の発作は続きます。その子が連れてこられると、イエスは悪霊を叱り、その子をいやされるのですが、その前に、その発作を起こしている子を前にしてイエスと父親との間に交わされた重要な対話をルカは省略しています。
 マルコ(九・二〇〜二四)によると、イエスが父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになると、父親は「幼い時からです」と答え、「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」とこれまでの惨状を訴えます。そして、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願います。それに対してイエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と断言されます。その子の父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びます。
 ルカが伝えていないこの一段は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という父親の叫びに「絶信の信」の消息が示されており、わたしたちの信仰理解にとって重要な箇所ですが、なぜかルカはそれを省略しています。これを省略と見るかどうかは問題ですが、ルカが示している簡略化の一例であるとすると、その簡略化によってわたしたちは信仰についての大切な示唆を失うことになり、福音書が四つあることの重要性を改めて痛感します。

「絶信の信」の消息については、拙著『マルコ福音書講解T』372頁の「絶信の信」の項を参照してください。

 イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになります。(九・四二b)

 ルカは、イエスがなされた驚くべき大いなる業を、きわめて簡潔な筆致で描きます。ナインのやもめの息子の場合も、「イエスは『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」と、きわめて簡潔に語られています(七・一四〜一五)。ここでも「汚れた霊を叱り」と、一言葉で誰もいやせなかった難病の子供をいやされたことが簡潔に語られます。いやされた子を親に「返された」というのも、ルカ独自の表現です。そして、その結果も簡潔に表現されます。

 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。(九・四三a)