市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第49講

53 イエス、死と復活を予告する(9章21〜27節)

苦しみを受ける人の子

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。(九・二一〜二二)

 このペトロの告白を、イエスは否定はしておられません。しかし、「そうだ、その通りだ」とそのまま認めることもしておられません。むしろ、ペトロの思いと理解を修正するような言葉を語り出されます。この部分は先の「イエスの問いとペトロの答え」(九・一八〜二〇)と一体として読まなければなりません。ペトロのメシア告白は、「ペトロの信仰告白」として独立に扱うべきではなく、ここのイエスの言葉を導入するための導入部です。多くの翻訳は、この新共同訳のように、別の段落に区切っていますが、これは正当な理解を妨げます。手元のギリシア語原典も一八節から二二節までを一段としていて、途中で段分けはしていません。わたしのマルコ福音書の私訳も、この部分(マルコ八・二七〜三三)を一つの段落とし、「苦しみを受ける人の子」という標題で扱っています。
 イエスが「弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じ」られたのは、イエスがメシアであるという事実ではなく、これから語り出そうとしておられる「受難する人の子」の奥義のことです。この奥義は、時が来るまで弟子たちの間だけに秘められていなければなりません。周囲のユダヤ人にはとうてい理解できないことですが、弟子たちにはそれが起こったときにその意義を悟ることができるように、あらかじめ奥義を語っておこうとされます。
 イエスは、これから向かうエルサレムでは「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」ことが避けられないことを覚悟しておられます。ここで《デイ》という語(英語のmustに相当するギリシア語)が用いられており、「必ず・・・・することになっている」と訳されています。これは黙示思想に特有の「神の必然」を指し示す用語です。黙示思想では、人間には隠されているが神には秘密の計画があり、その神の御計画は必ず実現するという確信が語られています。イエスは、ご自分をイザヤ書五三章が預言したあの「主の僕」として遣わされたとしておられたので、使命を全うして栄光に入る前にこのような受難が必然、すなわち神の定めであることを悟っておられます。そして、その神の定めに身を委ねてゆかれます。その苦しみを逃れる方法があっても、「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」と言って、その定めに身を委ねられます(マタイ二六・五四)。
 ここで、この受難予告の文の主語が「人の子」であることが重要です。イエスは、受難して復活するご自分のことを「人の子」という語で指しておられます。「人の子」というのは黙示思想の用語であって、今は隠されているが終わりの日に天から現れて神の審判を行い、神の民を救済し、世界に神の支配を実現して完成する超自然的な人物です。その典型的な用例は、ダニエル書七章一三〜一四節に見られます。黙示思想でこのような終末的審判者であり救済者を指す「人の子」という称号を、イエスがどのような意味で用いられたのかは、新約聖書学の難問で議論が続いています。しかし、ここでの用例から、イエスがこの「人の子」という称号をご自分を指すのに用いられたことは確実となります。
 本来終末的・超自然的な栄光の審判者・救済者の称号である「人の子」を、地上で民の指導者から排斥され殺されるご自身を指すのに用いられた事実は、十字架の意義を理解するためにもっとも重要な視点を提供します。その意義を語ることは全新約聖書神学の課題ですが、ここではイエスがご自分の受難を予告するときに「人の子」という称号を用いられたという事実の重要性を指摘し、以下でその経緯に触れるにとどめます。
 エルサレムに向かう旅の途上で、イエスがご自分の受難を予告された言葉が三回記録されています(ここと九・四四、一八・三一〜三三)。その二回目の予告の文は「人の子は人々の手に引き渡される」という簡潔で、謎めいた言葉です。これがイエスが語られたもともとの予告の言葉であったと考えられます。この予告の言葉が実際のイエスの受難の様子を知っている最初期の共同体で語り伝えられていく過程で、「人の子」を主語にしたまま、すでに知っている実際の殉難の経緯を説明する言葉を加えて、第一回目の予告、第三回目の予告と、よりいっそう具体的で詳しい予告の言葉になっていったと推察されます。とくに第三回目の予告は詳しく、事後に形成された受難史のまとめの様相を示しています。

エレミアスは、「人の子は人々の手に引き渡される」という言葉は、イエスが語られたアラム語では「神は人を人々の手に引き渡すであろう」という《マーシャール》(謎)であったとしています。アラム語では「人の子」という表現が「人」を指すので、「神は人の子を人の子らの手に引く渡すであろう」という形で表現されていたのを、初期の伝承が「人の子」という称号として語り伝えたことになります。詳しくは、J・エレミアス『イエスの宣教 ― 新約聖書神学T』(角田信三郎訳、新教出版社)514頁を参照してください。

イエスの叱責の省略

 このイエスの受難予告を聞いたペトロが、「イエスをわきへお連れしていさめ始め」、受難の道を歩まないように説得しようとしたとき、イエスがペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたというマルコ(八・三二〜三三)の記事を、ルカはすっかり省略しています。このマルコの記事は、ペトロの告白とイエスの受難予告の段落(九・一八〜二二)を理解する上で重要な意味を持っています。それだけに、これを省略したルカの理由とか意図を考えざるをえません。
 イエスが「サタンよ、引き下がれ」と激しくペトロを叱責された事実は、ペトロが「あなたは神のメシアです」と言ったときのメシア像が、イエスが使命とされている「主の僕」像とまったく違うことを示しています。この叱責の記事は、ペトロ自身の告白から来ているはずです。ペトロが三回イエスを知らないと言ったことと並んで、このような共同体を代表する使徒ペトロの恥となるような記事を共同体が創作することはありえません。ペトロ自身が深い悔悟の思いをもって告白したことが伝承されて、このような記事になったはずです。
 この時のペトロにとって、メシアとは神の力をもって異教の支配を打ち破り、イスラエルを異教の支配の抑圧から解放して、栄光の時代を来たらせる解放者でした。ペトロが、このような当時のユダヤ教の一般的なメシア理解とは別のメシア像を抱くことなど、どうしてできるでしょうか。イエスが語り出された「イスラエルの指導者たちに排斥されて殺される」メシアなどはとうてい理解できません。思わず「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ってしまうのも当然です(マタイ一六・二二)。
 ペトロに対するイエスの叱責は、この時のペトロの告白が当時のユダヤ教のメシア像によるメシア告白であることを証明しています。この理解に基づいて翻訳するときには、ペトロの告白は「あなたはキリストです」ではなく、「あなたはメシアです」が適切となります。「キリスト」という名は、新約聖書では復活者キリストの称号となっているからです。この時点でペトロがイエスを、民の罪のために死んで復活した「キリスト」と告白することはありえません。しかし、もしルカがこのイエスの叱責の記事を省略したのは、このような歴史的状況を捨象して、ここを復活後の共同体が告白している「イエスはキリストである」という告白をペトロが代表して行っていると読んでもらいたいという意図からであるとすれば、「あなたはキリストです」と翻訳するほうが適切となります。ルカがイエスの叱責の記事を省略したことで、そのように読む可能性が出てきます。
 イエスの叱責は、ペトロ本人が語った歴史的事実と見ることができますから、この叱責を伝えているマルコでは、「あなたはメシアです」と訳すのが適切です。ところが、マルコに基づいて福音書を書いたマタイは、この叱責の箇所をより詳しく伝えながら同時に、ペトロの告白の直後にペトロを賞賛する次のような言葉を続けています。
 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる・・・・」。(マタイ一六・一七〜一九)
 この言葉は明らかに、ペトロの告白を復活者キリストを告白するものとして扱っています。この場合は、ペトロの告白は「あなたはキリストです」と訳すべき場合となります。叱責と賞賛が同居するマタイの記事は、ペトロの告白が最初期の共同体で両方の意味で理解され伝承されていたことを垣間見させます。この同居は、イエス伝承を用いて復活者キリストを告知しようとする福音書の二重性から来ます。
 ルカは叱責の記事を省略することによって、異邦人読者が、ペトロの時の歴史的状況にとらわれず、「あなたはキリストです」という彼ら自身の告白として読むことができる道を開いたと言えます。その省略がペトロの告白に、一人の人間としてわたしたちの中に現れたナザレのイエスを復活者キリストとして告白する福音の基本告白を読む理解を可能にし、その段落(九・一八〜二〇)を独立の段落とし、「ペトロの信仰告白」という標題をつけ、「あなたは神のキリストです」という翻訳を生むことになります。

十字架を負って従え ― 第一の語録

 先に九章一八〜二二節は一つの段落として読むべきことを述べました。段落を区切るとすれば、この二三節で新しい段落が始まると見るべきです。一八〜二二節は弟子たちだけとの対話ですが、二三節からは「皆に言われた」言葉が始まります。マルコ(八・三四)はここで明確に、「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」と記しています。この一段(二三〜二七節)は、イエスが様々な機会に語られた語録を一つにまとめて、イエスがご自身の受ける苦しみの秘密を語り出された受難予告の言葉の後に、そのような方に従う弟子に関わるものとして置いたものと考えられます。ここの語録集は、ほぼマルコ(八・三四〜九・一)を継承していますが、マルコにある二三の語句を省略したり、時には付け加えています。

この一段の五節にまとめられている五つの語録(各節が一つの語録)は、その中の三つ(二三節、二四節、二六節)が「語録資料Q」にあり、マタイとルカでは違った場所で用いられています。この事実から見て、これらの語録は、もともと独立の語録であったと見られます。これらの語録については、前著『マルコ福音書講解T』で講解していますが、本書だけを読まれる方のために、ほぼそれを再録する形でまとめておきます。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。(九・二三)

 イエスは弟子を召される時、いつも「わたしに従って来なさい」と言っておられました。今地上の歩みの最後の時期を迎えるにあたって、イエスご自身に関する秘密が明らかにされると同時に、弟子としてイエスに「従う」とはどういうことを意味するのか、初めてその内容が明白な言葉で語り出されます。
 弟子たちはいつもイエスと共にいて、その言葉の権威と力ある業に圧倒され、イエスをメシアであると信じるまでになっていました。彼らがイエスにどこまでもついて行こうとしたのは、メシアとしてのイエスがイスラエルを回復される事業に参加して、その栄光に与りたいと願ったからでした。弟子たちは最後まで、エルサレムにお入りになればイエスのメシア的支配がただちに実現するものと期待していたようです。ヤコブとヨハネが「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願った(マルコ一〇・三五〜三七)のは、このような期待の表現です。ルカにはこの箇所がありません。その代わりルカは、弟子たちは復活されたイエスに対して、イエスがイスラエルを回復される時のことを尋ねていることを報告して(使徒一・六)、弟子たちのメシア・イエスによるイスラエル回復の期待が最後まであったことを示しています。
 そのような理解と期待をもってイエスについて行こうと願っている弟子たちに対して、イエスは全く別の道を指し示されます。イエスはこの世を代表する支配者から投げ捨てられ殺されるのです。そのようなイエスについて行こうと願う者は、自分の理解や期待や願望を捨て、総じて自分自身を否定し、自分そのものを捨てなければ、イエスに従って行くことはできないのです。そして、「自分を捨て」とか「自分を否定して」という生き方が、「十字架を背負って」という句で表現されます。
 イエスがこの句を口にされたことを否定して、これをイエスの十字架の処刑を知っている最初期の共同体が「自分を捨てる」ことの説明として加えたのであるとする見方もあります。しかし、当時のパレスチナではローマ人による十字架刑は決してめずらしくなかったのですから、イエスがこの表現を用いられたことを否定する必要はありません。この句は、「十字架につけられる」ではなくて、「自分の十字架を背負う」という表現が用いられていることが示しているように、十字架上の殉教死を指しているのではなく、むしろ死刑囚が自分がつけられる十字架の木を担って、同胞の敵意と侮蔑の中を歩んでいく姿を指しているのです。ルカがこの句にマルコにはない「日々」という句を加えているのも、このような理解からでしょう。「イエスに従う」とは、イエスと同じく、このような「自分の十字架を背負う」生涯に入ることです。このような生涯を受け入れる覚悟のない者は、イエスについて行くことはできません。そのことをイエスは「塔を完成できなかった人」のたとえと「遠くの敵と和睦する王」のたとえで語っておられます(一四・二五〜三三)。

わたしのために命を失う者 ― 第二の語録

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」。(九・二四)

 イエスご自身が自分の命を失うことを通して真実の命にいたる道を歩んでおられます。イエスはご自分の身に成就すべきこの命の秘義を語り出されたばかりです。「失うことによってそれを保つ」という命の世界の逆説ないし秘義は、ルカ一七・三三やヨハネ一二・二五(一粒の麦)で一般的な形で伝えられていますが、ここでは「わたしのため」、すなわちイエスの弟子として、苦しみを受け殺される「人の子」イエスに従うことによって自分の命を失うという関連で取り上げられています。
 自分の力で獲得できるものによって自分の命を保ち豊かにしようとする者は、結局はその命を失うことになります。人間が自分で獲得できるものは、死を超えて人を生かすことはできないからです。命とは自分自身です。自分で自分を救おうとする者は、自分で自分を持ち上げようとするのと同じく、不可能なことを無益に試みているのです。それに対して、イエスに従う者として「自分の命を失う」者、すなわちイエスのために自分を捨て、自分を否定する者は、イエスがそうであったように、自分を神に投げ出しているのです。そのように神に自分を投げ入れる者は、神から真実の命を受ける、あるいは神に真実の命を見いだすことになるのです。神は命そのもの、また永遠の命であるからです。このように、イエスはご自身が歩んでおられる命の道の逆説を弟子たちに語り、その道を共に歩むように招かれます。
 ところが、この御言葉は迫害を受けている最初期共同体の状況においては、緊迫した具体的な問題となり先鋭化します。すなわち、イエスの名を告白する信仰のゆえに受ける迫害の中で、イエスの名を否定して自分の安全を図り、自分の命を救おうとする者は、一時的に命を永らえても、結局神なき絶望の中に滅びることになる。それに対して、イエスを主またキリストと告白し、その信仰のゆえに苦しみを受け、命を失うことがあっても、その人は神から永遠の生命をもって報われる、という内容の御言葉として、迫害の中で信仰の決断を迫る言葉となります。イエスはご自身が苦しみを受けるように、弟子たちにもこの世からの迫害が来ることは避けられないと予見し、くりかえし警告し覚悟を促しておられました。そのような予測の中で語られた言葉として、この御言葉は、迫害の中での信仰告白を求める意味をも担うことになります。
 マルコはこのような状況で聞く言葉として、「また福音のために」という句を加えたのですが、ルカはこの句を加えていません。イエスの弟子たちが受けたユダヤ教側からの迫害も過去のことであり、現在の共同体がローマ社会で認知されることを理念とするルカは、この句を加える必要を感じなかったのでしょう。

たとえ全世界を手に入れても ― 第三の語録

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。(九・二五)

 これは本来一つの諺とか格言であったのかもしれません。たしかにこの言葉は、信仰とは無関係に用いても、どこでも通用する内容です。しかし、現在の連関の中に置かれることによって、この言葉は新しい意味を担うことになります。万人が認める格言が、ここでイエスが用いられると、前節と次節で語られる福音の真理、すなわち自分の命を失うことによって真実の命にいたるという信仰の道を励ます力強い言葉となります。
 人はこの世で自分の命を保ち拡張し栄えようとし、そのためにできるだけ多くのものを自分に獲得しようとします。それに成功して全世界を獲得したとしても、それを所有する自分自身がなくなれば、何の意味があろうか。その時、失われた自分の命を買い戻すために、どんな代価を支払いえようか(マルコにあるこの部分をルカは省略しています)。全世界を差し出しても、命を買い戻すことはできないのです。このように、一般に理解されている格言としては、ここでの「自分の命」というのはこの世の命のことです。けれども、イエスがここで語られている命とは、人がイエスのために失うことによって、神から与えられる真実の命のことです。それを得ることができないのであれば、たとえ全世界を獲得するほどこの世での命が栄えたとしても、何の意味があるでしょうか。この方向で自分を追求するかぎり、その命はやがて必ず朽ち果て滅んでしまいます。
 「人は自分の命を失うことによってその命を救う」というイエスの言葉は、その二つの命が同じ命であるかぎり、解きがたい矛盾です。けれども、イエス復活後、信じる者たちはキリストから賜る聖霊によって新しい命の世界を体験し、自分を失うことによって神から与えられる命は、地上の生まれながらの命とは別種の命であることを知っています。ヨハネ福音書(一二・二五)はその命を「ゾーエー」と呼んで、生まれながらの命である「プシュケー」と区別しました。その新しい命が生まれながらの古い命と決定的に違う点は、それが復活に至る命であることです。このような復活にいたる命に生きる場で聞くとき、「全世界をもうけても」の御言葉はさらに強く終末的な声を響かせます。「人は全世界を獲得しても、自分が死者の中からの復活に達しなければ、その人生に何の意味があろうか。何がなくても、何を失っても、最後に命を失っても、死者からの復活に達するならば、その人生は勝利の人生ではないか」。

イエスを恥じる者 ― 第四の語録

 「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」。(九・二六)

 マルコには最初に「神に背いたこの罪深い時代に」という句がありますが、ルカはそれを省略しています。この語録は、「人の子が父の栄光の中に聖なる御使いと共に来る時」のことを語っています。この時のことについては、さらに黙示的な終末予言(二一・五〜三六)において明白に語られることになります。終りの日に人の子が栄光の中に到来あるいは顕現するという発言は、イエスの「人の子」に関する発言の中で最も重要なグループを形成します。
 イエスの時代のユダヤ教には、神が最終的な救いの業を成し遂げてくださる時が近いという終末的な期待が熱く燃えていました。そのような期待の一つの形として、イスラエルを再びダビデ王国のような栄光に回復する「ダビデの子」としてのメシアが待望されていましたが、同時にもう一つ別の形の終末待望がありました。それは、ダニエル書をはじめ第四エズラ書やエノク書というような、当時広く流布していた黙示文書に表されているもので、そこでは天から現われる「人の子」ないし「人」によって最終的な神の支配が顕現するとされていました。イエスはご自分が「ダビデの子」としてのメシアであることは厳しく拒まれましたが、この「人の子」が現われる時のことについては、当時の人々の待望を当然の前提として、黙示文書的な用語で語っておられます(一七・二二〜三七)。
 ところで、イエスが終りの日における神の支配の顕現について語られる時、「わたしが来る時」というように一人称で語られることはなく、いつも「人の子が来る時」というように、誰か別の第三者が来るような形で語っておられます。それで、イエスはご自分とは別の「人の子」の到来を期待しておられたのだという見方が出てくることになります。けれども、ここのイエスの言葉は、来るべき「人の子」とイエスご自身との深い結びつきを示唆しています。たしかに、イエスはまだ「わたしがその人の子である」と明白な言葉では語っておられません。しかし、今地上のイエスとその言葉に対してどのような態度を取るかによって、終りの日に「人の子」とどのような関わりに入るのかが決められるというのです。そうであれば、イエスと「人の子」は別の人格ではありえません。この言葉を語られたイエスは、地上では投げ捨てられ殺されるご自分を、栄光の中に顕れるべき「人の子」と同一視しておられたことになります。これは「人の子の奥義」に属することであって、この言葉は弟子たちにとってはまだ謎であったことでしょう。
 イエスとその言葉を「恥じる」という表現については、同じ事柄について伝承されている別の語録がその意味を明らかにします。

 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。(一二・八〜九に)

 「恥じる」とは、《ホモロゲオー》すなわち「(仲間であると)言い表す」とか「告白する」の反対で、「(知っている者を)知らないと言う」とか「否認する」ことです。「恥じて拒む」です。まさにペテロがイエスの裁判の時に取った態度です(二二・五四〜六二)。今この地上でイエスとの関わりを否定する者は、「人の子」が栄光の中に顕れる時、「人の子」と何の関わりも持ち得ない者です。そして、地上のイエスを告白する者は、「人の子」が栄光の中に顕れる時、「人の子」に属する者として受け入れられ、その栄光に与るのです。
 これは、イエスの人格とわたしたちの終末信仰について、きわめて重要な意義をもつ言葉です。わたしたちにとって、終末が将来どのような形で到来するのかを議論したり知ることではなく、今イエスとその言葉に対してどのような態度を取るか、すなわちこの地上の生涯においてどれだけ忠実にイエスに従うかが、決定的な意義を持つことになります。
 今は「神に背いた罪深い時代」です。神がイエスによって最終的な業を成し遂げようとされているこの時に、そのイエスを殺そうとする態度に、この時代の神への反逆と根源的な罪があらわになっています。このようなイエスへの憎しみと迫害の中にある最初期の共同体にとって、この御言葉は文字どおり自分の命をかける言葉でした。イエスを憎み罵倒する群衆の面前や、神の支配を認めようとしない人間の法廷で、今イエスを告白するか否認するかが来るべき栄光に与るか否かを決めることになります。多くの信者が文字どおり命をかけてこの御言葉に従ったのでした。彼らにとって、終末信仰とは現在の命をかけた事柄でした。そしてこの事は、「この時代」だけでなく、イエスに反抗する「この世」に生きるすべての者にとって同じです。

神の国を見るまでは死なない者がいる ― 第五の語録

 「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」。(九・二七)

 この御言葉も他の関連で語られたものを、イエスのために苦しみを受ける弟子に関わるものとして、ここに加えられたと考えられます。ここでは、栄光の時の到来が、「人の子」の到来としてではなく、「神の国が力をもって来る」と表現されています。この御言葉の直接の意味は、今ここに一緒にいる弟子たちの中には、迫害の中で殉教の死を味わう者も多くいるであろうが、ある者はその生存中に「神の国」が栄光の中に現れるのを見ることになる、それほど「神の国」の到来は切迫している、ということであり、弟子たちがイスラエルの町々を回り終わらないうちに「人の子」が来ると言われた御言葉(マタイ一〇・二三 これも迫害に関連した言葉です)とほぼ同じことを意味しています。
 ところで、イエスが「人の子が栄光の中に現れる」とか「神の国が力をもって来る」とか言われる時、それはご自分の受難の後に続いて到来するはずの将来の栄光の事態を一つのものと見て語っておられるのです。後の共同体が復活、昇天、再臨と呼んだ事態が、区別されることなく一つのものとして語られています。たしかに、イエスが復活された時、「神の支配」は死にも打ち勝つものであることが現れ、弟子たちは地上のイエスの中に隠されていた「神の国」が「力にあふれて現れるのを見た」のでした。復活されたイエスに出会った弟子たちは、イエスが主またキリストとして立てられ、神の右に座す方となられたことを知りました。しかし共同体は現実には迫害の中にいます。主イエスの主権はまだ世界に確立されていません。それが確立される時、すなわち主イエスがその栄光と権威をもって世界に臨まれる時はまだ将来です。その時のことを、共同体はあらためて「来臨(パルーシア)」とか「顕現(アポカリュプシス)」の時と呼んで(「再臨」は後の時代の呼び方です)、その到来を熱く待ち望みました。このように、イエスにおいては一つの事態と見られていた将来の栄光の顕現は、復活後の共同体においては、すでに起こった「復活・昇天」と将来起こるべき「来臨・顕現」とに分かれることになります。そして共同体は迫害の中で、聖霊の力強い働きと、「死なない者がいる」というこの御言葉に励まされて、自分たちが生きているあいだに主の「来臨」があるという熱烈な待望に生きることになります。
 初代の信者たちがこのような信仰に生きていたことは使徒の書簡にも証言されています。パウロは、「主の来臨」の前に「眠りについた(死んだ)人たち」が出たことを意外なこととして驚き嘆いている信者たちを励ますために手紙を書いており(テサロニケT四・一三〜一八)、その中で「主が来られる日まで生き残るわたしたち」(一五節)と言っています。また他の所で、「わたしたちは皆が眠りにつく(死ぬ)わけではありません。…最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、(地上に生存している)わたしたちは変えられます」とも言っています(コリントT一五・五一〜五二)。このように、聖霊の力強い働きによって復活の主イエスとの生き生きとした交わりに生きる者にとっては、自分が死ぬという事実よりも主が来られるという事実の方がより差し迫ったものになっているのです。その時に自分が「覚めているか眠っているか」はどちらでもよいことになります。主が来られるという事実の前で、自分の生と死は相対化されてしまっています。「死なない者がいる」と言われたイエスの御言葉は、このような形で信じる者たちの中に生き続けたのです。