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第二節 ヨハネ福音書の成立とその特質

「福音書」の成立

 このヨハネ共同体が自分たちの信仰を証言するために生み出した文書が「ヨハネ福音書」です。これまでに見てきたように、ヨハネ共同体は長老ヨハネのキリスト証言によって形成された信仰の交わりですから、その信仰を証言する文書が長老ヨハネのキリスト証言を主要な内容とするのは当然です。しかし、「ヨハネ福音書」は長老ヨハネの個人的な著作というよりは、ヨハネ共同体が自分たちの信仰体験から生み出した産物という性格が強い作品です。そのことは、イエスが語っておられるとされる言葉の中に、いつの間にか共同体を指す「わたしたち」という複数形がしばしば現れることからも垣間見ることができます。
 また、福音書のテキストを厳密に検討しますと、この福音書が数次の編集過程を経て成立した文書であることが見えてきます。この編集過程を綿密に分析することは本書の目的ではなく、また講解の範囲を超えますので(とくに必要な場合の他は)触れませんが、編集過程を経て成立している事実は、この福音書が共同体の作品であることを指し示していることを指摘しておきます。
 最終的な形態においては共同体の作品であるとしても、このような文書を生み出す原動力になった人物、すなわち長老ヨハネの信仰と思想(神学)が福音書の内容をなしているのは明らかですから、このヨハネを福音書を書いた人物、すなわち著者とすることができます。全体としては、ヨハネ福音書は長老ヨハネの証言とか説教をまとめて一つの統一のある文書にしたものと見ることができます。しかし、どこまでが長老ヨハネ自身が書いた文章で、どこからが共同体の文章であるかを区別することは、しばしば困難な場合があります。
 このような成立事情は、先に見たように、福音書自身の著者に関する証言にも示唆されています。この福音書を長老ヨハネの没後に最終的に編集して世に出した共同体の代表者は、福音書の最後にこう書いています。
 「以上のことを証しした者、そしてそれを書いた者は、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」(二一・二四)。
 「以上のこと」すなわちこの福音書の内容を「証しした者、そしてそれを書いた者」は、「この弟子」すなわち本文中に「イエスが愛された弟子」として登場し、直前にその死が示唆された弟子であることが明言されているのですが、そのさい「書いた者」と言われないで、「証しして、そしてそれを書いた者」と言われています。すなわち、彼の証言ないしは説教がその内容をなしていることが示唆されています。彼の長年の証言活動がこの文書を生み出したという事情を漏らしていることになります。この場合、「書いた」という動詞は、自分が直接筆を執って書いたという意味だけでなく、文書として成立させたという広い意味も含んでいることになります(ギリシア語の「書く」には「書かせる」という使役の意味もあると言われています)。この文章を書いた彼の弟子は、彼の証しが真実であることを「わたしたち」は知っていると書いて、共同体の責任においてこの福音書を世に送り出します。

現代のヨハネ福音書研究は、福音書が現在の形を取るまでの編集過程を綿密に分析し、成果をあげています。しかし、本「ヨハネ福音書講解」は、この編集過程の学術的分析を目的とするものではなく、最終的に出来上がった現形のヨハネ福音書を講解して、できるだけ本文を正確に理解し、そこから霊的な使信を聴き取ろうとする試みですから、とくに必要な場合の他は編集過程について深入りすることは避けます。したがって、著者または編集者を区別することなく、この福音書を生み出した人たちのグループを「著者」とか「著者ヨハネ」と呼んで講解を進めています。

 長老ヨハネのキリスト証言を文書にするさい、それが「福音書」という形をとったことが注目されます。「福音書」というのは、復活者イエス・キリストの福音を人々に提示するのに、それを地上のイエスの言葉や働きを物語るという形でする文書です。長老ヨハネがキリストの福音を提示するのに、他の形式(たとえばパウロの「ローマ書」のような書簡形式とか「トマス福音書」のような語録集の形式)ではなく、地上のイエスの働きを物語るという福音書形式をとったのはなぜかという問いが出てきます。
 まず、ヨハネの時代にはすでに「福音書」が流布していたという事情が考えられます。ヨハネ福音書の著者またはその共同体が他の福音書(共観福音書)を知っていたかどうか、知っていたとするとそれをどの程度資料として用いているかは議論が続いています。しかし、70年前後に成立したマルコ福音書は知っていたと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書は、その成立年代や流布の状況から、ヨハネ共同体に知られていたかどうかは不明です。知られていなかった可能性が高いと見られます。知られていたとしても、著者ヨハネはマタイを無視しているように見えます。とにかく「福音書」という形式の文書の存在はヨハネ共同体に知られていたでしょう。長老ヨハネは、「福音書」という形式が復活者イエス・キリストの福音を提示する形式として広く認められるようになっていた時代に活動したことになります。

パウロの活動(50年代)はそれ以前の時期になりますし、パウロは地上のイエスの弟子ではなかったこともあって、パウロは「福音書」を書きませんでした。パウロがしなかったことを、パウロと神学的に同じ線上にあるヨハネがしたのが「ヨハネ福音書」であると見ることもできるでしょう。

 その上、長老ヨハネはイエスの出来事の目撃証人です。ペトロの証言を基にして書かれたとされるマルコ福音書が、イエスの働きをガリラヤだけに限定したり、エルサレム上京を最後の過越祭だけにしているのを見て、(ヨハネから見て)この偏った書き方を訂正するとか補完するために、自分が直接見聞したエルサレムでのイエスの働きを中心にした福音書を書こうとしたとも想像されます。実際、著者は十字架の日付などの重要な点で、共観福音書の伝承を訂正しています。
 そのさい、その証言が確かであることを保証するために、自分を「愛弟子」としていつもペトロと一緒に登場させ、この無名の「もう一人の弟子」の方が、今や広くイエスの弟子の代表のように見られているペトロよりもなお確実な証人であることを暗示するような記事を入れたのではないかと見られます。

もっとも「愛弟子」の記事は、本人が入れたとするよりは、編集者が入れたとする方が理解しやすいのは事実です。福音書を最終的に編集して世に送り出した編集者が、この作品の内容が目撃証人である「主の弟子」から出ていることを保証するために、この弟子を「イエスが愛された弟子」と呼んで、その証言内容を記事にした可能性は否定できません。しかし、長老が若い時に直接イエスに接したことや、イエスから特別に目をかけられた事実は、本人が語っていたはずです。そうでなければ、60年代以降の小アジアにある共同体がその事実を知ることはできません。したがって、「愛弟子」の記事を入れたのが誰であるにせよ、この福音書がイエスに直接弟子として接した人物によるものであるという事実は変わりません。

ヨハネ福音書の資料と伝承

 ヨハネがその福音書を書くにさいして、どのような資料を用いたかが議論されています。ヨハネがイエスの出来事の目撃証人であるとしても、イエスと一緒にいたのはエルサレムに限られており、その他の地域でなされた多くの重要な働きについては、教団に語り伝えられた伝承に頼ることになります。事実、福音書には著者が伝承を用いていることを示唆する文言もあります。たとえば、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えられた奇跡を「最初のしるし」(二・一一)とし、その後でエルサレムで多くの奇跡をなされたことを報告していながら、再びカナで王の役人の息子を癒された奇跡を「二回目のしるし」(四・五四)と数えているのは、そのような順序に置かれているイエスの奇跡集を資料として用いていることをうかがわせます。
 この例からも分かるように、著者がイエスの奇跡物語を集めた資料を用いていることは十分推定できます。ヨハネはこの資料から代表的な七つを選んで、自分の福音書に用いたと見られます。ヨハネは奇跡を「しるし」と呼んでいることから、彼が用いた資料は「しるし資料」と呼ばれ、それが受難伝承と合わせられて、一つの福音書として流布していたとして、「しるし福音書」の存在を議論する有力な学説もあります(フォルトナ)。
 ヨハネ福音書の受難物語は、マルコ福音書のそれと概要においても内容においても多くの点で並行しています。しかし、最後の食事の意義づけや十字架の日付が違うなど、重要な相違点もあります。おそらく両者の背後に共通の「受難物語」伝承があって、両者はそれぞれの立場でその伝承を用いたと見る研究者が多くいます。
 著者が他の福音書(共観福音書)を知っていて、それを資料として用いたかどうかについては、先に触れました。著者は少なくともマルコ福音書を知っており、「福音書」という形式が広く認められている時代に著作しました。しかし、著者は「福音」という用語を一度も使っていません。もともと「福音」という用語はパウロ系の宣教活動のキーワードですが、それがペトロ系のイエス伝承を用いた福音書であるマルコとマタイに用いられ、パウロの同労者とされるルカ文書にも当然よく用いられているのと対照的に、ヨハネ文書には(黙示録一四・六を唯一の例外として)全然出てこないのが注目されます。この事実は、ヨハネが神学的にはパウロと同じ線上にいながら、パウロの継承者ではなく、パウロとは別の独創的な思想世界に生きた人物であることを示唆しています。しかし、共同体が彼の著作を世に出すときには、すでに流布していた福音書の形式に倣い、「ヨハネによる福音書」という標題をつけています。二世紀のパピルス写本や教父たちの証言は、本書が「ヨハネによる福音書」という名で流布していたことを示しています。
 それ以外にも、この福音書に見られる特異な「説話」には、よく似た「説話集」のようなものがあって、著者はそれを資料として用いたのではないかという説が、最近よく提出されてきました。しかし、そういう種類の文書が存在して、著者がそれを資料として用いたということは確証がなく、分からないという他はありません。それよりもむしろ、著者がどのような宗教的伝統を身につけ、どのような伝承を受け継いでいるのかが重要です。
 その問題も、結局ヨハネ福音書の内容や用語から推測する他はないのですが、この福音書からは著者が実に様々な種類の伝承を受け継ぎ、それを見事に融合させているのが見えてきます。個々の場合は講解に委ねなければなりませんが、全体として見ますと、やはり著者が受け継いでいる伝承は(広い意味での)ユダヤ教の伝承です。
 著者が祭司の家柄の出身であることから、当然彼はユダヤ教の祭儀や律法に詳しく通じていたはずです。聖書も「律法」(モーセ五書)と「預言者」だけでなく、「諸書」に含まれる知恵文学の書やダニエル書のような黙示文書にいたるまでよく読んでいたようです。ヨセフスの例からも推察できるように、探求心旺盛の若き日のヨハネは、ファリサイ派をはじめ当時のユダヤ教各派の教えにも関心をもち、よく学んでいたと思われます。とくに彼の思想の特色をなす光と闇の二元論に代表される二元論的終末思想には、エッセネ派の影響が色濃く出ています。エッセネ派の影響は、若き日に師事した洗礼者ヨハネを通しての影響とか、エッセネ派をモデルにして形成されたと見られる原始エルサレム教団の影響である可能性があります。

H・ケスターは「ヨハネ福音書はシリアに位置づけられるべき特殊な伝承の所産である」と言っています。これは近代の聖書学、とくにドイツ語圏の研究者たちの常識になっていますが、ヨハネが壮年期までパレスチナにいたとすると、彼の思想形成にシリアの宗教的伝承の影響があったことは当然であり、それは彼がその生涯の後半をエフェソを中心に活動し、ヨハネ共同体が小アジアにあったことと矛盾しません。ヨハネ福音書にシリア系の伝承があるからといって、それを理由にヨハネ共同体をシリアに位置づけることはできません。なお、シリアの宗教的伝承にはグノーシス主義的傾向のものが多いのですが、ユダヤ教周辺に成立したとされる初期のグノーシス主義とヨハネ福音書の関係という問題は、本稿の範囲を超えますので、必要に応じて講解で扱うことにします。

 当時のユダヤ教は、ディアスポラのユダヤ教だけでなくパレスチナのユダヤ教も、十分にヘレニズム化された「ヘレニズム・ユダヤ教」でした。すなわち、ギリシア語を用いる文化圏で、ギリシア的概念や思考によって表現されたユダヤ教でした。パレスチナ・ユダヤ人である著者は、ギリシア語を使うこともできましたが、彼がとくにギリシア思想やギリシア文学に深い造詣があったとは見られません。彼のギリシア語は、ルカやヘブライ書の著者などに比べると、稚拙であると言えます。ヨハネ福音書に見られるギリシア的要素は、彼のユダヤ教そのものが十分にヘレニズム化したユダヤ教であったからだと見られます。エフェソというヘレニズム世界の大都市で活動した長老が、その期間にギリシア文化をある程度身につけたことは推察できますが、どの程度であったかは分かりません。晩年に書かれたと見られる福音書と手紙からは、長老は最後までユダヤ教の世界に呼吸していたと見てよいと考えられます。

当時のユダヤ教がギリシア化したユダヤ教であることについてはヘンゲルが大著『ユダヤ教とヘレニズム』(1966)で明らかにしたことですが、とくに一世紀のパレスチナのユダヤ教がディアスポラ・ユダヤ教と同じようにヘレニズム化していたことを、改めて次の近著で論証しています。
  Martin Hengel, The 'Hellenization' of Judea in the First Century After Christ, 1989 SCM Press

対話編としての福音書

 著者ヨハネがどのような資料を用いたにせよ、またどのような宗教的伝承を受け継いでいるにせよ、彼の作品の独創性は見誤ることはできません。著者は、若き日に接して目撃したイエスの出来事も、受け継いでいる伝統も、手元にある(であろう)資料も、すべてを現在自分が聖霊によって体験している復活者キリストの現実を語るために、その体験の中で一つに融合してしまっています。そのような復活者イエス・キリストとの交わりの現実をヨハネは「真理」と呼んでいますが、その「真理」に人を導き入れるのは聖霊の働きですので、ヨハネは聖霊を「真理の御霊」と呼びます。同時に、聖霊はイエスが去って行かれた後、信じる者たちに寄り添って助けてくださる「同伴者」として《パラクレートス》とも呼ばれます。ヨハネの独創性はこの《パラクレートス》である「真理の御霊」によるものです。著者は《パラクレートス》によって与えられている復活者イエス・キリストとの交わりの現実によって、資料とか伝承を大胆に再構成します。
 彼は「真理」の提示において独創性を発揮していますが、その独創性は用語にも内容にも十分発揮されています。しかし、それを詳しく見ることは本稿の範囲を超えますので、講解において触れることにし、ここでは様式の問題に限定します。

ヨハネ福音書の用語と神学思想の特色については、拙著『キリスト信仰の諸相』59頁「受肉した神イエス―ヨハネのキリスト証言」を参照してください。

 ヨハネは「真理」を提示するのに、先に見たように、マルコ福音書以来広く認められるようになっていた「福音書」という形式を採りました。しかし、その書き方はかなり違っています。マルコをはじめ共観福音書は、(著者独自の視点からする編集はありますが)イエスの働きと言葉をできるだけそのまま伝えることを原則としているのに比べて、ヨハネ福音書はイエスの働きと言葉を手がかりにして、かなり大胆に自分の言葉で「対話」の形に再構成しています。
 ヨハネ福音書の内容はほとんど、イエスと弟子たち、またはイエスと批判者たちとの対話から成っています。ヨハネは、イエスと弟子たち、またはイエスと批判者たちとの対話に、イエスのかなり長いまとまった説話を入れて、長大な対話編を書き上げています。そのさい、イエスの言葉は、著者が共同体に語りかける言葉と重なり、また著者と共同体が対立するユダヤ教会堂やこの世に語る言葉と深く重なっていて、どこまでがイエスの言葉で、どこからが著者または共同体の証言か区別することが難しい場合が多くあります。
 たとえば、三章のイエスとニコデモとの対話において、イエスがニコデモに語っておられる言葉の中に、「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししている」(一一節)と共同体の証言を指す複数形が現れています。また、一〇節から始まるイエスの言葉は一五節で終わっているのか、二一節まで続いているのか決定できません。すなわち、「神は世を愛して、そのひとり子を与えてくださった」で始まる一六〜二一節の言葉は、イエスのニコデモに対する言葉であるのか、著者または共同体が世に向かって語りかける言葉か、決定できません。このようなイエスの言葉と著者または共同体の証言との「縫い目のない」重なりを示す「対話編」に、著者の「独創性」が遺憾なく発揮されています。
 この対話編の主題が「永遠のいのち」であることも、ヨハネ福音書の重要な特質です。共観福音書において、イエスが宣べ伝えられた福音の主題は「神の国」でした。ところがヨハネ福音書では、「神の国」が出てくるのは伝承の表現がそのまま用いられたと見られる二箇所(三・三と五)だけです。それに対して、共観福音書では「永遠の命」が出てくるのは、イエスに「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」と尋ねた青年の場合だけですが、ヨハネ福音書では全編に一七回分布し、同じ意味で用いられている「いのち」《ゾーエー》だけの表現を加えると、この主題は全編を貫く主題であることが強く印象づけられます。ヨハネ福音書は、「永遠のいのち」を主題とする対話編であると言えます。

ヨハネ福音書が「神の国」ではなく「永遠の命」を主題としていることの意義、およびヨハネ福音書における「永遠の命」の意味内容については、「講解」で扱うことにします。

 対話編といえば、プラトンの有名な対話編がすぐに思い浮かびます。プラトンは紀元前四世紀に活躍した哲学者ですから、ヨハネがプラトンの著作を知っていた可能性はあります。しかし、先にも触れたように、ヨハネ福音書に見られるギリシア的要素は(ロゴスという用語の使用にしても)十分にヘレニズム化した当時のユダヤ教の範囲内で理解できることで、ヨハネが特にギリシア哲学に通じていたことを指す指標はありません。ヨハネがその福音書で対話編という様式で「真理」を提示したのは、プラトンの影響というより、その生涯を貫く証言活動が、長老とその弟子たちとの間の対話、また敵対者(ユダヤ教会堂)との激しい討論という形でなされてきたことの結果であると考えられます。長老は「真理」を提示しようとするさい、身に付いた対話の形式をおのずから採らざるをえなかったものと見られます。

ヨハネ福音書の読者

 長老ヨハネは誰に向かってこの福音書を書いたのでしょうか。ヨハネ福音書が語りかける対象は誰であるかについて、以前(二〇世紀前半)はおもに異邦人(ギリシア人)であると見る傾向がありました。それは、共観福音書が「神の国」とか「人の子」というような用語でパレスチナ・ユダヤ教の終末的な使信を伝えているのに対して、ヨハネ福音書は「永遠の命」とか「真理」とか「天と地」の空間的二元論とか、ギリシア的な思考の世界で語っていると理解されたからでした。ところが、二〇世紀後半には死海文書の発見などで当時のユダヤ教の状況がさらに正確に分かるようになり、ヨハネ福音書も極めて強く当時のユダヤ教の思想圏にあることが再認識されるようになります。その結果、ヨハネ福音書は、ユダヤ教会堂との対立が激しくなり危機的な状況にあるユダヤ人の信徒共同体に、イエスが神の子であることを再確認させるために書かれたと見る見方が強くなってきました。それに伴って、ヨハネ共同体の地理上の位置(したがってヨハネ福音書の成立の地)も、ヘレニズム世界の大都市から、シリア・パレスチナのユダヤ教の辺境地域に求められるようになりました。
 たしかにヨハネ福音書の著者は極めて強く一世紀のユダヤ教の世界に組み込まれています。「人の子」とか「わたしはある」というようなユダヤ教だけの用語を当然のように使用し、「光と闇」、「命と死」などエッセネ派に見られるような終末的二元論を思考の枠組みとしていることなど、ヨハネ福音書はユダヤ人がユダヤ人のために書いた福音書だと見ざるをえない一面があります。これは、本稿で見たような長老ヨハネの経歴からすれば当然のことであり、驚くことではありません。
 しかし、福音書と手紙を子細に観察すると、ヨハネ共同体が異邦人世界にあり、ヨハネ福音書が異邦人世界に向けられていることを指し示す指標も多くあります。まず、この福音書では「ユダヤ人」という総称が第三者として扱われていることが注目されます。この福音書のイエスは、自らユダヤ人でありながら、ユダヤ人の律法を「あなたたちの律法」とか「彼らの律法」と呼び、著者は祭りを繰り返し「ユダヤ人の祭り」と解説しています。さらに、「メシア」などヘブライ語の宗教用語をギリシア語に訳したり説明したりしています。これは聴衆が異邦人であることを指し示しています。

第三の手紙で見ることになりますが、この手紙に出てくる三人の個人名はみな非ユダヤ人の名前です。この事実は、ヨハネ共同体にはユダヤ人もいたでしょうが、おもに異邦人で構成されていたことを示唆しています。

 また、ヨハネ福音書には異邦人伝道への意欲とか姿勢が見られます。ヨハネ福音書がサマリア伝道に大きな関心をもっていることは、(共観福音書に比べて)顕著な事実です。ヨハネ福音書はイエスのサマリアでの宣教活動に大きなスペースを割いています(四章全体)。当時のユダヤ教徒から見ればサマリア人(サマリア教徒)は異教徒と同じでした。イエスは異教徒のサマリアの女にご自身をメシアであると示し、この女からイエスに導かれたサマリア教徒たちはイエスを「世界の救い主」と告白しています。サマリアでイエスは「この山(サマリア教の聖地ゲリジム山)でもエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る」と言って、世界のどこででも「御霊と真理をもって父を礼拝する」時が来ていることを宣言しておられます。これはヨハネ福音書が完全にユダヤ教の枠を乗り越えていることの宣言です。
 さらに、律法の扱い方もこの福音書が異邦人伝道の場で書かれていることを示しています。救われるためにはモーセ律法を順守しなければならないかどうかの問題(パウロが死闘したあの問題)はすでに解決済みの問題であり、遠い過去になっています。律法(聖書)はイエスの神性を証言する預言としてのみ登場します。もしヨハネ福音書がおもにユダヤ人から成る共同体に向かって書かれているのであれば、たとえ70年以後の状況でも(マタイがしたように)信仰の立場からする律法の意義づけを積極的に議論しなければならないでしょう。それが全然ないことは、この福音書が異邦人伝道の場で成立したことを示しています。
 福音書が描く出来事の舞台は地上のイエスの活動です。したがって、イエスを信じる者はユダヤ人だけです。しかし、著者は異邦人の信徒を視野に入れて語らないではおれませんから、将来のこととして「この囲い(ユダヤ教)に入っていないほかの羊(すなわち異邦人)」も「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことを予告することになります(一〇・一六)。また、最後の夜の祈りで、イエスは「すべての人が一つになるように」祈られます(一七・二一)。
 このような異邦人伝道への関心は、本稿で見たように、長老ヨハネがヘレニズム世界の大都市エフェソに移住した後に伝道活動をして共同体を形成したとすると、よく理解できます。そして、この福音書に見られる「ユダヤ人」との厳しい対立と激しい論争は、共同体の場所をパレスチナ・シリアのユダヤ教辺境地域に求めなくても、エフェソでも十分理解できます。エフェソには(他のヘレニズム大都市と同じく)強力なユダヤ人の共同体がありました。その会堂勢力はパウロの伝道に激しく反対しています(使徒一九・九)。数十年後にパウロと同じく信仰による救済を説いたヨハネの活動に対しても激しく敵対したことは、十分に推察できます。長老は、共同体の弟子たちに「真理」を説くと同時に、敵対するユダヤ教会堂勢力と激しく論争しなければなりませんでした。その状況が、若い時から受けたユダヤ教側からの迫害による「トラウマ」と重なって、この福音書の「ユダヤ人」に対する厳しい断罪になったと考えられます。この福音書のように「ユダヤ人」を一括して不信仰の民と断罪する書き方は、福音書がユダヤ人の共同体に向かって書かれたとするよりも、異邦人伝道の場で成立したとする方が理解しやすくなります。
 このように見ると、福音書の対象を示す振り子は、異邦人からユダヤ人へ、そしてユダヤ人から再び異邦人へと戻ったことになりますが、それはたんに昔の説に戻ったのではなく、この福音書を生み出した背景として強いユダヤ教の伝統が確認された上での戻りです。この福音書は、一世紀のユダヤ教の伝統と伝承を深く身にしみこませたユダヤ人の著者が、異邦人伝道という環境で、聖霊の強い働きによる独創性を発揮して生み出した作品ということになります。