市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第26講

附論 

第一章 「イエスが愛された弟子」と長老ヨハネ

はじめに

 ヨハネ福音書には「イエスが愛された弟子」と呼ばれる弟子が登場します。この弟子は最後まで名前があげられず、「イエスが愛された弟子」とか「もう一人の弟子」と呼ばれるだけです。しかも、この福音書の終わりに、この弟子の最後を示唆する記事(二一・二〇〜二三)に続いて、「以上のことを証しした者、そしてそれを書いた者は、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」(二一・二四)という重要な一文があって、この福音書の内容を語り伝え、それをこのような福音書という文書にしたのはこの弟子であると明言されています。そうすると、この名前が伝えられていない謎に満ちた「イエスが愛された弟子」の姿を解明することが、この福音書の成立と、この福音書を生み出した共同体の実像を知るための重要な手がかりになることになります。
 この弟子の謎は深く、これまで山ほどの議論が積み重ねられてきましたが、決定的な解答はまだ出ていません。しかし、ヨハネ文書(ヨハネ福音書、三通のヨハネの手紙、およびヨハネ黙示録)の理解にはこの問題は避けて通ることはできませんので、できるかぎりの努力をして、この謎の弟子の姿に迫りたいと思います。



第一節 イエスが愛された弟子

「愛弟子」の登場場面

 「イエスが愛された弟子」という時の「愛した」の原語には、《アガパオー》が四回(一三・二三、一九・二六、二一・七、二一・二〇)、《フィレオー》が一回(二〇・二)用いられていますが、この場合二つの動詞は特に意味の違いはないと見られます。両方とも「イエスが特に親しくされた弟子」、「イエスが特に目をかけられた弟子」というような意味で用いられていると考えてよいでしょう。その意味は、最後の夜の食事の席で、「弟子のうちの一人で、イエスが愛しておられた者が、イエスの胸に寄りかかって食卓に着いていた」(一三・二三)姿がよく物語っています。なぜイエスがこの弟子に特に目にかけられたのか、この弟子の特殊な立場をこれから見ていく過程で説明していくことになります。ここでは最初に、本稿では(表現を簡潔にするため)この弟子をこのような意味で「愛弟子(まなでし)」と呼ぶことにすることをお断りして論述を進めます。
 まず、この「愛弟子」がどのような場面に登場するのかを見ておきます。この福音書で「愛弟子」が最初に登場するのは最後の夜の食事の席です(一三・二三)。先にも触れましたように、食事の席でこの弟子は「イエスの胸に寄りかかって」いました。当時の宴席では、客は卓を囲んで横腹を下にして席に着きました。ここでは、この弟子の顔がイエスの胸のあたりに来る位置になったことを指しています。この位置は主人(または主賓)にもっとも身近な者が着く位置で、この弟子が特にイエスの身近にいたことを示唆しています。
 次の場面は、大祭司の館におけるイエスの審問の場面です。イエスが逮捕されて大祭司の館に連行されたとき、ペトロと「もう一人の弟子」がついて行きます。この弟子は大祭司の知り合いだったので館の中に入りますが、入れないで外に立っているペトロを、門番の女に話をつけて入れてやります(一八・一五〜一六)。この弟子は「愛弟子」のことですが、彼が「大祭司の知り合い」であるという事実は、この「愛弟子」の出身を知る上で重要な手がかりとなります。
 次の場面は十字架のそばです(一九・二五〜二七)。他の弟子たちがみな逃げ去って、十字架のそばには数人の女性しかいなかったとき、この「愛弟子」は男性の弟子としてはただ一人十字架のそばにまで来て、イエスの最後を見届けます。その時、イエスは母マリアをこの「愛弟子」に委ねます。
 次も十字架の場面ですが、兵士が槍でイエスのわき腹を刺したとき血と水が流れ出たことを目撃して証言することになります(一九・三四〜三五)。
 次の場面は空の墓です。マグダラのマリアの報告を聞いて、ペトロとこの「愛弟子」が墓へ走ります。二人は一緒に走りますが、「もう一人の弟子」の方がペトロよりも速く走って、先に墓に着きます。そして、イエスの体を巻いていた亜麻布だけが残されているのを見て、「愛弟子」は信じたと伝えられています(二〇・一〜一〇)。
 さらに、補遺としてつけられた二一章で二回この「愛弟子」が登場します。第一の場面は、ガリラヤ湖畔で復活されたイエスが弟子たちに現れたとき、この「愛弟子」もそこに居合わせており、湖畔に現れて網を打つ場所を指示した人が主であることをペトロに教えています(二一・七)。
 第二の場面は、この復活して現れたイエスにペトロと一緒について行って、ペトロとこの「愛弟子」の最後についてイエスが語られる場面です(二一・二〇〜二三)。ここでこの「愛弟子」が死なない、すなわちイエスの来臨まで地上にとどまるという噂が否定され、この記事が書かれた時には「愛弟子」がすでに亡くなっていることが示唆されています。その後で、この福音書の内容を証言して文書にしたのはこの弟子であることが明記されています(二一・二四)。
 この七回が「愛弟子」が福音書に登場する場面です。この場面を見ますと、いくつかの事実が目立ちます。第一は、この登場場面は前半(一二章まで)にはなくて、すべて後半(一三章以下)の受難・復活の記事に集中していることです。第二は、十字架のそばの出来事は例外として、その他の場面ではすべてペトロと一緒に登場しています。そこでは、ペトロに対して「もう一人の弟子」と呼ばれています。第三は、福音書の著者がこの「愛弟子」をあくまで無名のままにとどまらせていることなどです。

一章三五〜四二節の記事で、洗礼者ヨハネの証言を聞いてイエスについて行った「二人の弟子」の中、アンデレでない方の弟子は名があげられていません。このアンデレでない「もう一人の弟子」がこの「愛弟子」である可能性がありますが、この点については議論があり、後で扱います。

ゼベダイの子ヨハネか

 古代教会以来最近まで、この「愛弟子」、すなわちこの福音書の著者は共観福音書(マルコ一・一九〜二〇など)に登場するゼベダイの子ヨハネであるとされてきました。この福音書が「ヨハネによる福音書」という呼び名で流布していたことは、二世紀の教父たちが証言していることから問題はありません。ただ、このヨハネがゼベダイの子ヨハネであるという明確な主張は、二世紀末のエイレナイオスから始まるとされています(それが誤解であることは後に詳しく論じることになります)。それ以来、近代に文献批判が起こるまで、この福音書は十二使徒の中の一人であるゼベダイの子ヨハネが書いた福音書として、正典の中で高い地位を占めてきました。
 ところが、一九世紀に起こった近代の文献批評は、このゼベダイの子ヨハネ説に重大な疑問を投げかけ、大勢としては否定するにいたっています。この福音書を書いたとされる「愛弟子」がゼベダイの子ヨハネであることを否定しなければならない理由は、詳しい議論はここでは紹介できませんが、大略つぎのようなものです。

 1 福音書全体の内容や書き方は、ガリラヤの漁師の筆になるものとは考えられない。

 2 出来事を象徴的な長い講話に結びつける著者の方法は、目撃証人の書き方ではない。

 3 ガリラヤ出身の目撃証人が、ガリラヤでの出来事をほとんど伝えず、エルサレムでのイエスの活動に集中するのは理解できない。

 4 共観福音書がゼベダイの子ヨハネが居合わせたとする重要な出来事(たとえばヤイロの娘の生き返り、山上の変容、ゲツセマネ)を伝えていない。

 一つひとつの理由は決定的なものでないかもしれませんが、全体として見るとやはりゼベダイの子ヨハネの作とすることは困難です。

象徴か実在の人物か

 古代教会以来の伝統的なゼベダイの子ヨハネ説を否定した近代の注解者たちの中には、この「愛弟子」が登場する場面の書き方から、これを実在の人物ではなく、ある信仰上の内容とか主張を象徴するために著者が創り上げた架空の人物であるとする説を唱える人もあります。この「愛弟子」を文学上の虚構とか象徴と見る説には、理想の弟子の姿を象徴するとか、ペトロが代表するユダヤ人キリスト教に対抗する異邦人キリスト教を象徴するとか、理想の証人を描いているとか、様々な説があります。
 たしかに、この「愛弟子」は、この福音書では理想化された姿であり、ある種の象徴的役割を果たしていることは事実です。しかし、だからと言って、文学上の虚構とか象徴にすぎないとして、実在の人物であることを否定することはできません。ヨハネ共同体は、実際にイエスの身近にいた人物の目撃証言にその信仰を依存しており(一九・三五、二一・二四)、その人物の最近の死を知っているのです(二一・二〇〜二三)。この「愛弟子」はペトロとかイエスの母というような実在の人物と一対で登場しています。
 このようなわけで、最近の学説はこの「愛弟子」を、福音書では象徴的な意味を担わされて描かれる実在の人物であるという見方に落ち着いてきているようです。では、その人物が誰かとなると、決定的な説はありません。たとえば、福音書の中でただ一人イエスが愛された者と描かれているラザロであるとか、エルサレムに住居があり最後の晩餐の場所を提供し、イエスの逮捕のさいに居合わせたヨハネ・マルコであるとか、イエスの血縁の兄弟であるとか、様々な人物が提案されていますが、それぞれ困難があり、説得に成功したものはなく議論が続いています。

長老ヨハネとヨハネ共同体

 福音書本体が二〇章三〇〜三一節の結びの言葉で閉じられた後に、二一章を補遺として加えた編集者は、「愛弟子」の最近の死を示唆する文(二一・二〇〜二三)を置いた後に、この「愛弟子」について「以上のことを証しした者、そしてそれを書いた者は、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」と書いています(二一・二四)。この文から、福音書の内容となる事柄を証言して、この福音書を成立させたのは、イエスの身近な弟子であったこの「愛弟子」であり、「わたしたち」、すなわちこの弟子の証言によって信仰に入り、信仰共同体を形成してきた者たちは、この弟子の証言が真実であることを知っており、その証言に依存してきたことが分かります。

二一章二四節の「書いた」という動詞は「書かせた」とか「文書として成立させた」という意味に理解できます。ギリシア語の「書く」という動詞には使役の意味もあるようです。後で見るように、ヨハネ福音書は一人の人の著述というよりは、ある信仰共同体の歩みの中で、多くの編集の過程を経て成立した文書であると見られますので、二四節の文はこの「愛弟子」こそ、その証言によってこの共同体を形成し、それによって福音書を成立させた指導者であることを指し示していると理解できます。

 そうしますと、この「愛弟子」が誰であるのか、また、ヨハネ福音書がどのようにして成立したのかを知るためには、この信仰共同体との関係を追求することが重要な課題になります。
 ヨハネ福音書が成立直後の二世紀初頭から「ヨハネによる福音書」という呼び方で流布していたことは、その時代の教父たちの証言もあり、広く認められています。その事実は、この福音書を生み出した共同体を指導して形成した人物がヨハネという名であったことを意味しています。したがって、このヨハネが誰(どのヨハネ)であったのかは別として、とにかくこの人物によって指導され形成された信仰者の交わりを「ヨハネ共同体」と呼ぶことにします。
 このヨハネは、先に見たように、福音書の中ではいっさい名があげられず、「イエスが愛された弟子」とか「もう一人の弟子」という呼び名で登場しています。その理由は後で考察しますが、実際の共同体ではどう呼ばれていたのでしょうか。この問いに答える資料は「ヨハネの手紙」です。
 新約聖書に収められている三つの「ヨハネの手紙」は、パウロの手紙のように、発信人の名が書かれているものはありません。発信人は「長老のわたし」と名乗るだけです(ヨハネU一節とヨハネV一節)。ヨハネ第一書簡には「長老のわたしから」という形で差出人は特定されていませんが、(第四章で見ることになりますが)この手紙も「長老」からのものであると見なければなりません。ヨハネの手紙もヨハネ福音書と同じく、「ヨハネの手紙」という呼び名で古くから流布していたことは、広く認められています。従って、この「長老」の名はヨハネであったことになります。福音書と手紙の著者が同じであるか、三通の手紙の著者が同じかどうか、また、どういう順序で書かれたのかなどについて一致した結論は出ていませんが、信仰内容と用語や文体からして、三通の手紙が「ヨハネによる福音書」と同じ共同体から出たものであることは明らかであり、この点については意見が一致しています。
 そうすると、この共同体では指導者であるヨハネが「長老」と呼ばれていたことが分かります。手紙の発信人は、「長老のわたし」と言えば、受取人はどのような立場の人物からの手紙であるかを十分理解するはずだと考えていることになります。実際の共同体では「長老ヨハネ」と呼ばれている指導的人物と、福音書では名をあげられることなく、イエスの身近にいる弟子として「イエスが愛された弟子」という姿で登場している人物(先に見たように、そのイエス証言によってこの共同体を形成し指導した人物)とは同一人物であるとしなければなりません。
 「長老」という呼称は、ユダヤ人の社会では共同体の指導者に与えられる敬称であって、共同体の意志を最終的に決める重要な地位です。ヨハネが「長老」と呼ばれている事実は、ヨハネが長年にわたってこの共同体の形成に指導的な役割を果たしてきたために、今や共同体から敬愛と信頼をこめて、指導者としての権威を認められていることを意味しています。

「長老」という称号は、70年以前のユダヤ教において、ヒレルやシャンマイやガマリエルなどの偉大な指導者が実際に高齢になった時に与えられていた尊称でした。現代の教会、とくにプロテスタント系の教会では、牧師の下にあって教会の運営に携わる信徒の代表格の人たちを「長老」と呼んでいますが、この「長老」と混同しないように注意してください。