第三節 イエスを殺す計画
45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人たちの中の多くの者がイエスを信じた。 46 けれども、彼らの中に、ファリサイ派の人たちのところに行って、イエスがなさったことを告げた者たちがいた。 47 そこで、祭司長たちやファリサイ派の人たちは最高法院を招集して、こう言った、「この男は多くのしるしを行っているが、われわれはどうすればよいか。 48 彼をこのまま放置すれば、みな彼を信じるようになるだろう。そうすると、ローマ人たちがやって来て、われわれから土地も民族も取り上げてしまうことになる」。
49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った、「あなたがたは何もわかっていない。 50 一人の人間が民のために死んで、民族全体が滅びないですむのが、あなたがたにとって得策だと考えないのか」。 51 彼はこれを自分から言ったのではなく、その年の大祭司であったので、イエスが民族のために死ぬことになるのを預言したのである。 52 この民族のためだけではなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬことを預言したのである。 53 この日から、彼らはイエスを殺そうと協議を始めた。
54 そこで、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩き回ることはなさらず、そこから荒野に近い地方へ去って、エフライムという町へ行き、弟子たちとそこに滞在された。
55 さて、ユダヤ人たちの過越祭が近づいた。多くの人が、身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムに上って行った。 56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内に立って、互いに言った、「あなたたちはどう思うか。彼は祭りには来ないのであろうか」。 57 祭司長たちとファリサイ派の者たちは、イエスがどこにいるかを知る者があれば、届け出るように命令を出していた。イエスを逮捕するためである。
最高法院の議決
マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人たちの中の多くの者がイエスを信じた。けれども、彼らの中に、ファリサイ派の人たちのところに行って、イエスがなさったことを告げた者たちがいた。(四五〜四六節)
ここで、ラザロの葬儀のためにエルサレムから来ていたユダヤ人たちが、ドラマの舞台回しの役割を演じます。彼らの中の多くの者がイエスがなさったことを見てイエスを信じましたが、ある者たちがエルサレムに急いで戻り、神殿の指導層の人たちにこの出来事を報せます。彼らの行動により、舞台は回りエルサレム神殿内の最高法院に変わります。そこで、祭司長たちやファリサイ派の人たちは最高法院を招集して、こう言った、「この男は多くのしるしを行っているが、われわれはどうすればよいか」。(四七節)
この報告を受けて、「祭司長たちやファリサイ派の人たちは最高法院を招集して」議論を始めます。このエルサレムの最高法院での議論が、このドラマの第五の場面(第五場)になります。登場人物は、大祭司カイアファと議員たちです。「彼をこのまま放置すれば、みな彼を信じるようになるだろう。そうすると、ローマ人たちがやって来て、われわれから土地も民族も取り上げてしまうことになる」。(四八節)
「祭司長たち」ユダヤ教指導者が恐れているのは、先ず第一に、イエスがされる「しるし」を見てユダヤ人がみなイエスを信じるようになれば、ユダヤ教における自分たちの権威が失墜し、民衆を指導する立場が揺らぐからです。神殿での過激な行動が示しているように(二・一三〜一六)、イエスはすでに神殿体制に対して激しい批判の矛先を向けていた人物です。ユダヤの民衆がイエスに従うようになれば、民衆はもはや祭司長たちの指導には服さなくなるでしょう。「土地」と訳した語の原語は「場所」です。これを「土地」と理解する訳(協会訳)と「神殿」と理解する訳(新共同訳)があります (RSVは our holy place としています)。内容的には、どちらも成り立ちます。ここでは、神殿も含むことができる広い意味の「土地」と訳しておきます。 「民族」と訳した語の原語は《エスノス》です。この語は、新約聖書ではふつう複数形で用いられ、「異邦人」を指しますが、ヨハネ福音書では定冠詞つきの単数形で一八・三五とこの箇所(一一・四八〜五二)だけで用いられ、イスラエルの民を指しています。
彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った、「あなたがたは何もわかっていない。一人の人間が民のために死んで、民族全体が滅びないですむのが、あなたがたにとって得策だと考えないのか」。 (四九〜五〇節)
この時の大祭司はカイアファでした。大祭司は「祭司長たち」の中の一人が選ばれて、最高法院の議長を務め、全ユダヤ教団を代表し統率する最高の地位でした。このイエスの死による贖いの出来事がなされた重大な「その年」にユダヤ教を代表する大祭司職にあったのはカイアファでした。大祭司職は、ユダヤ教の規定では終身職でしたが、実際はローマの意向で任命されたり廃されたりしました。ユダヤが皇帝直轄のローマ属州になった6年からは長年アンナスが大祭司職にありましたが、18年に総督グラトスは、彼を退位させてカイアファを大祭司に任命しました。カイアファは36年に退位させられるまで、20年近くにわたって大祭司職にありました。この情勢の中でのこの長さは、彼がいかに狡猾な現実政治家であるかを物語っています。なお、「その年の大祭司であったカイアファ」という表現を、「一年ごとに交代する大祭司」制と理解して、著者はユダヤ教の大祭司制を知らなかったとする見方もありますが、これは違います。著者はユダヤ教大祭司職のことは熟知していて、ただこの決定的な「その年」の大祭司がカイアファであったことを強調しているだけです。
この人物が、民の安全のために、実は自分たちの権力の安全のために、イエスを抹殺することを提案します。イエスを取り除けば、危険なメシア運動の芽は未然に摘み取られ、圧倒的なローマの軍事力によってユダヤ教団としての「民族」が滅びるのが避けられるではないかと言って、イエスを殺すことを提案します。つい先にもガリラヤとペレアの領主ヘロデ・アンティパスが、多くの民衆の期待を集めていた洗礼者ヨハネを処刑して、彼の運動が反ローマのメシア運動となることを防いだことを、カイアファは十分承知していたはずです。彼は政治的損得を計算し、自分たちの権力維持のためだけを考える冷徹な現実政治家です。「民のために」の「民」の原語は《ラオス》です。この語は、八・二では「群衆」という意味で用いられていましたが、ここと一八・一四ではイスラエルの「民」という意味で用いられています。「民族」《エスノス》と同じ意味で用いられていますが、原語が違うので、別の語で訳しています。
彼はこれを自分から言ったのではなく、その年の大祭司であったので、イエスが民族のために死ぬことになるのを預言したのである。(五一節)
カイアファは支配者であるローマ総督を相手に術策を弄し、一九年間も大祭司の地位を保ち、ユダヤ教団の自治を守った老獪な政治家でした。この大祭司の政治術策的発言を、著者は彼の地位から、イエスについてのユダヤ教団の公式の預言とします。すなわち、イエスの死が「民のための死」であることは、福音が告知するだけでなく、ユダヤ教団も(動機はまったく異なるが、その意義は)公式に認めているという主張です。この民族のためだけではなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬことを預言したのである。(五二節)
「散らされている神の子たち」というのは、「この民族のためだけではなく」という句と対照されていることから、「全世界に散らされている神の子たち」、すなわち異邦諸民族の中にいる神の子たちを指すと理解できます。ヨハネ共同体は本来おもにユダヤ人信徒で形成されていたと考えられますが、異邦人も迎え入れる方向に進みつつあったと見られます。それで、ユダヤ人だけでなく「異邦人にも」という主張が、やや取って付けたように加えられることになります(一〇・一六参照)。この日から、彼らはイエスを殺そうと協議を始めた。(五三節)
これまではイエスを殺そうとする動きは個々のファリサイ派律法学者の敵意からでした。この動きは、「この日から」最高法院の公式の動きとなります。後に逮捕されたイエスに対して裁判が行われますが、それは形を整えるだけの手続きで、大祭司を議長とする最高法院は「この日から」イエスを処刑しようという意図で行動しています。そこで、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩き回ることはなさらず、そこから荒野に近い地方へ去って、エフライムという町へ行き、弟子たちとそこに滞在された。(五四節)
イエスがラザロを生き返らせた大いなるドラマは、第五場のエルサレムでの最高法院の場面で終わりますが、その後に主役のイエスの消息を伝える短い語りが付け加えられます。「エフライムという町」は、歴代誌下一三・一九の「エフライン」と考えられ、現代のエツ・タイーベと推定されています。この村はベテル(エルサレムの北17キロ)から山腹を迂回して北東に10キロほど行った山深いところにあり、道はさらに「荒野」を通ってエリコに通じていました。この荒野に通じる山間の隠れ村のような所にもイエスの支持者がいたようです。
過越祭前のエルサレム
さて、ユダヤ人たちの過越祭が近づいた。多くの人が、身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムに上って行った。(五五節)
過越祭前のエルサレムの様子を記述する五五〜五七節は、最後の過越祭にイエスがエルサレムに入られることを主題とする一二章の内容に属します。したがってこの段落は本来一二章の一部として扱うべきですが、五七節がイエスを殺すことを決意した最高法院の行動に触れていることから、伝統的にこの最高法院の場面の段落に入れられて、一一章の締め括りとされています。それで、一応伝統的な章区分に従い、ここで扱っておきます。彼らはイエスを捜し、神殿の境内に立って、互いに言った、「あなたたちはどう思うか。彼は祭りには来ないのであろうか」。 (五六節)
過越祭のためにエルサレムに上り、身を清める儀式にあずかるために神殿に集まっていたユダヤ人たちは、イエスがこの過越祭に来られるかどうかに大きな関心を持ち、互いに予想を語り合っていました。それは、ラザロを生き返らすなど、イエスがなされた数々の力ある業を知っていたので、イエスがエルサレムに入れば何か大変なことがおこるのではないかという期待もあったことでしょう。祭司長たちとファリサイ派の者たちは、イエスがどこにいるかを知る者があれば、届け出るように命令を出していた。イエスを逮捕するためである。(五七節)
ラザロのことで、もはやイエスの活動を黙認することはできないとし、イエスを抹殺することを決意した最高法院は、このような命令を出してイエスを逮捕するための行動を始めていました。その年の過越祭前のエルサレムは、最高法院は行動を開始し、神殿に集まる群衆は興奮し、イエスをめぐる問題で緊迫した状況でした。イエスはそのようなエルサレムにお入りになるのです。その最後のエルサレム入りが次章(一二章)の主題となります。ヨハネ福音書は、次章で共観福音書とは違う視点でイエスの最後のエルサレム入りを描きます。生き返りと復活
この講解では、ラザロが墓から出て来た出来事を語る段落(二八〜四四節)の標題は、「ラザロの復活」としないで「ラザロが生き返る」としました。この出来事はラザロの「復活」ではないからです。新約聖書において「復活」《アナスタシス》とは、死者が現在の朽ちるべき体を脱ぎ捨て、もはや朽ちることのない「霊の体」をもって生きるようになる、終末的な出来事を指しています(コリントT一五章)。ここのラザロのように、いったんは死んだが、息を吹き返して元の体で生きるようになった出来事は「復活」《アナスタシス》ではありません。このような事例は、ラザロの他に会堂司ヤイロの娘(マルコ五・三五〜四三と並行箇所)とナインの寡婦の息子(ルカ七・一一〜一七)の場合が伝えられています。このような事例は、病気のいやしや悪霊を追い出す業の延長上にあります。それで、イエスが行われた力ある業を「しるし」として列挙するリストの中で、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ」と列挙された最後に、「死者は生き返り」という業が最大の「しるし」として置かれることになります(マタイ一一・五)。ただし、動詞は、《アナスタシス》の動詞形の《アニステーミ》(起き上がらせる、起き上がる)と、《エゲイロー》(目覚めさせる、起こす、起きる)という動詞が、あまり厳密に区別されずに、地上の生き返りと終末的復活の両方の場合に、そしてキリストの復活について用いられています。これは、どういう体に至るのかという結果には注目しないで、神が死んだ者を起き上がらせる行為だけに注目したからでしょう。《アニステーミ》の名詞形《アナスタシス》はもっぱら終末的な復活を指すのに多数用いられていますが、《エゲイロー》の名詞形はほとんど用いられていません(イエスの復活を指すマタイ二七・五三だけ)。地上の生き返りを指す名詞は見当たりません。
パウロの復活信仰とヨハネの復活信仰
新約聖書の信仰の基本は復活信仰です。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ一〇・九)のです。これが、福音が宣言する「信仰の言葉」です。もっとも、この復活だけの(最初期の)信仰告白には、直ちに「十字架の言葉」が加えられなければなりません。十字架につけられたイエスが復活して、「主またキリストとして立てられた」のです。復活者キリストは十字架につけられた姿でわたしたちに現れ、その救いの働きをなしてくださるのです。パウロが「十字架につけられたキリスト」を福音の核心として語るとき、それは「十字架につけられたままの姿で現れる復活者キリスト」のことです。そして、そのキリストの十字架は「わたしたちのため」、「わたしたちの罪のため」の死であるのです。パウロの復活信仰については、拙著『パウロによるキリストの福音 U』の第六章「死者の復活」を参照してください。
ところがヨハネ福音書になると、これまでの講解で見てきたように、終末時の「死者の復活」はほとんど語られなくなり、イエスを信じる者は現在すでに「永遠の命」を持っているという事実に関心が集中しています。六章だけに集中して四回、終わりの日の復活を約束する言葉が出て来ますが、いかにも取って付けたような印象は否定できません。ラザロの記事でも、終わりの日の復活を言い表したマルタの信仰を訂正するような書き方がされています(一一・二三〜二六)。このような事実から、ヨハネの復活信仰はパウロの復活信仰とは違ってきているというような議論がされますが、はたしてそうでしょうか。コロサイ・エフェソ書のキリスト理解と復活理解については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』第一章と第二章のコロサイ書とエフェソ書の要約・講解を参照してください。とくに18頁の「コロサイ書におけるキリスト」と、75頁の「復活信仰の現在化」の項をお読みください。
ヨハネ福音書は、救済史的・黙示思想的枠組みがなくなっているという点ではコロサイ・エフェソ書と同じ線上にあります。しかし、復活の命という光が投影されるスクリーンは、《コスモス》という霊的空間ではなく、信じる個々の人間の内面になってきます。もちろん、パウロにおいてもその面は強くありました。しかし、ヨハネではそれだけに集中している点に特色があります。そして、個人の内面というスクリーンに集中して映し出される復活の命は、この福音書では「永遠の命」と呼ばれて、福音書全体を貫く主題となります。ヨハネ福音書における一一章の意義
このように永遠の命を主題として、イエスと周囲の人たちとの対話という形で劇的に構成されるこの福音書において、イエスがラザロを生き返らされたことを描く一一章はどのような位置を占め、どのような意義をもっているのでしょうか。「わたしの父の意志は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を持ち、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」。(六・四〇)
この福音書では「永遠の命」と「復活」は一つです。そのことは端的に「わたしが復活であり、いのち《ゾーエー》である」と宣言されています(一一・二五)。そして、「復活」を指し示すしるしとしての一一章がこの福音書の本質的な構成要素として存在している事実が、この福音書が主題とする「永遠の命(ゾーエー)」とは「復活の命」であることを確認させます。この復活者イエスに結ばれて生きる命は、地上の生と死を相対化し、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は誰でも、いつまでも死ぬことはない」と言わせる命です。ヨハネ福音書における「永遠の命」と「復活」の関係については、本書271頁の「補論―永遠の命と死者の復活」を参照してください。