第二節 イエスを石打にしようとするユダヤ人
22 その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 23 イエスは、神殿の境内でソロモンの柱廊を歩いておられた。 24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちをじらすのか。あなたがメシアであるならば、はっきりとわたしたちに言ってほしい」。 25 イエスは彼らにお答えになった、「わたしはあなたたちに言ってきたが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によってしている業が、わたしについて証ししている。 26 ところが、あなたたちの方が信じないのである。あなたたちはわたしの羊たちに属さないからである。 27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分け、わたしもまた彼らを知っており、羊たちはわたしについて来る。 28 わたしは彼らに永遠のいのちを与え、彼らは永遠に滅びることはない。また、わたしの手から彼らを奪う者は誰もない。 29 わたしに与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、父の手から奪うことができる者は誰もない。 30 わたしと父は一つである」。
31 ユダヤ人たちは、イエスを石打にしようとして、再び石を取り上げた。 32 イエスは彼らにお答えになった、「わたしはあなたたちに父からの良い業を多く見せた。その中のどの業のために、わたしを石打にするのか」。 33 ユダヤ人たちはイエスに答えた、「良い業のために、お前を石打にするのではない。冒涜のためだ。お前は人間でありながら、自分を神にしているからだ」。 34 イエスは彼らにお答えになった、「あなたたちの律法に、『わたしは言った、あなたたちは神々だ』と書かれているのではないか。 35 もし聖書が神の言葉の臨んだ人たちを神々と言っているのであれば――聖書が廃棄されることはありえない――、 36 父が聖別して世に遣わされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからといって、あなたたちは『お前は冒涜している』と言うのか。 37 もしわたしが父の業をしていないのであれば、わたしを信じるな。 38 しかし、もしわたしがしているのであれば、わたしを信じなくても、業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることがわかり、悟るにいたるであろう」。 39 そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れて、去って行かれた。
40 イエスは、再びヨルダン川の向こう側、ヨハネが最初にバプテスマを授けていた場所に行き、そこに留まっておられた。 41 大勢の人たちがイエスのもとに来て、こう言った、「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、ヨハネがこの人について言ったことはすべて本当だった」。 42 こうして、そこでは多くの人がイエスを信じた。
神殿奉献記念祭
その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。(二二節)
神殿奉献記念祭とは、ヘブライ語で「ハヌカ」(聖別、奉献の意)と呼ばれる祭りを指しています。セレウコス朝のアンティオコス四世エピファネス(在位前175〜164年)は、ユダヤを徹底的にヘレニズム世界に組み込もうとして、ヤハウェ礼拝と割礼を初めとするモーセ律法の順守を禁止して、違反者を死刑で処罰し、エルサレム神殿にはゼウス・オリンピオスの祭壇を建てたりしました。これに対して、ユダヤ教に忠実な「敬虔な者たち」は、マカベヤ家のユダに率いられて反乱に立ち上がり、苦戦の末勝利しました(マカベヤ戦争)。前164年にはエルサレムのセレウコス側のエルサレム守備隊を撃ち破り、キスレウの月(現行暦では一一〜一二月)の二五日に神殿から異教の神像を除き、神殿を清めました(マカバイ記T四・三六〜五九)。それ以後ユダヤ教では、これを記念する「ハヌカ」の祭りが年ごとに祝われるようになります。この祭りは同時に、ソロモンの神殿と第二神殿の奉献を回顧する祭りとして、仮庵祭にならって八日間燈火をつけて祝われました(マカバイ記U一・一八以下)。協会訳・新改訳・岩波版では「宮清めの祭り」と訳していますが、新共同訳では「神殿奉献記念祭」と訳しています。「宮清め」という用語は、イエスの「宮清め」のような場合にも用いられるので、内容を正確に伝える新共同訳「神殿奉献記念祭」に従って、ここでもこの名称を用います。
神殿奉献記念祭はキスレウの月(現行暦では一一〜一二月)の二五日であるので、季節は冬になります。ヨハネ福音書では、イエスの最後のエルサレム(およびユダヤ地方)滞在は、秋の仮庵祭(七・二)、冬の神殿奉献記念祭(一〇・二二)、春の過越祭(一一・五五)と、三つの祭りにまたがり、半年近い長い期間になります。この点で、春の過越祭の直前にガリラヤからエルサレムに到着されて、一週間ほどの短い滞在であったとする共観福音書と大きく違っています。イエスは、神殿の境内でソロモンの柱廊を歩いておられた。(二三節)
「ソロモンの柱廊」は、神殿の前庭を取り囲む柱廊の東側の部分になります。ここには異邦人も近づくことができたので、説教などがよく行われました。イエスと使徒たちもここで活動したと伝えられています(ここの他では使徒言行録三・一一、五・一二を参照)。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちをじらすのか。あなたがメシアであるならば、はっきりとわたしたちに言ってほしい」。(二四節)
「メシア」の原語は《ホ・クリストス》です。これは「油を注がれた者」という意味のギリシア語であり、「メシア」のギリシア語訳として用いられています。イエスと当時のユダヤ人との間の対話では、イエスがメシアであるかどうかが問題になるはずですので、「メシア」と訳しています。「メシア」と「キリスト」という訳語の問題については、一章四一節への講解を参照してください。
イエスは彼らにお答えになった、「わたしはあなたたちに言ってきたが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によってしている業が、わたしについて証ししている」。(二五節)
地上のイエスが自分をメシアであると公言されたことはありません。「わたしはあなたたちに言ってきたが」という文は、ヨハネ共同体がユダヤ人に向かって、「イエスこそメシア・キリストである」と言い続けてきた歴史が重ねられています。ヨハネ共同体はこれまでずっとユダヤ人に向かって、イエスこそメシア・キリストであると言い続けて来ましたが、ユダヤ人たちはそれを信じませんでした。
また、ヨハネ共同体は、イエスがなされた奇跡の業を示して、その業がイエスが父から遣わされた方であることを示していると主張してきました。「父の名によってしている業」とは、イエスが父から遣わされた方としてなしておられる業を指しています。ヨハネ福音書は、イエスの奇跡の業を「しるし」と呼んできましたが、それはイエスの業が「父の名によって」なされたこと、すなわちイエスが父から遣わされた者であることを指し示す「しるし」であるという主張です。
イエスが行われた奇跡の中から代表的なものを集めて、その奇跡の業によってキリストであるイエスの救いを説く「しるし福音書」と呼ばれる文書があって、ヨハネ福音書はそれを資料として用いているという見方がありますが、その資料がどのようなものであれ、ヨハネ福音書は一貫して、イエスがなされた「力ある業」(奇跡)を、イエスが父から遣わされた方であることを指し示す「しるし」としてあげて重視しています。
このように、ヨハネ共同体は言葉によってはっきりとイエスこそメシア・キリストであると宣言し、イエスの力ある業をイエスが父から遣わされた方であることの「しるし」として示してきました。おそらくヨハネ共同体自身がイエスの名によって多くの力ある業(奇跡的な癒しなどの働き)をなして、その主張を裏付けてきたと考えられます。
「ところが、あなたたちの方が信じないのである。あなたたちはわたしの羊たちに属さないからである。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分け、わたしもまた彼らを知っており、羊たちはわたしについて来る」。(二六〜二七節)
ところが、ユダヤ人たちはそのヨハネ共同体の証言を信じませんでした。それはなぜか。その理由を著者は、羊飼いと羊の関係を比喩として用いて表現します。すなわち、ヨハネ共同体の証言を信じない(聞き入れない)のは、彼らはもともと真の羊飼いである復活者イエスに所属する羊ではないからだと断言します。「わたしは彼らに永遠のいのちを与え、彼らは永遠に滅びることはない。また、わたしの手から彼らを奪う者は誰もない」。(二八節)
良い羊飼いが羊たちを牧草地と水辺に導いて豊かに命を与えるように、イエスは御自分に属する者たちに永遠の命を与えてくださいます。また、良い羊飼いに導かれる羊たちは飢えて滅びることがないように、復活者イエスから命を受ける者は「永遠に滅びることはない」のです。「わたしに与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、父の手から奪うことができる者は誰もない。わたしと父は一つである」。(二九〜三〇節)
イエスに属する者を復活者イエスの手から奪うことができる者は誰もないことを保証する事実として、彼らをイエスに与えてくださった父がすべてのものより偉大であることがあげられます。「すべてのものより偉大な父の手から奪うことができる者は誰もない」のですから、イエスの手から奪うことができる者はないのです。「偉大である」の主語は、ほとんどの日本語訳で「わたしの父がわたしに与えてくださったもの」になっていますが、「わたしに(彼らを)与えてくださった父」を主語と読む方が、文脈から見て自然です。KJV、RSV、新改訳はこう読んでいます。
このように、ヨハネ福音書では復活者イエスと父の働きが一つに重なっています。そのことが「わたしと父は一つである」(三〇節)という一文で宣言されます。再度の石打の試み
ユダヤ人たちは、イエスを石打にしようとして、再び石を取り上げた。(三一節)
イエスが自分を父と一つであるとされる言葉を聞いて、ユダヤ人たちはイエスを石打にしようとして、石を取り上げます。「再び」とあるのは、すでに八章(五九節)で、ユダヤ人たちはイエスを石打にしようとしていたので、これは二度目になるからです。イエスは彼らにお答えになった、「わたしはあなたたちに父からの良い業を多く見せた。その中のどの業のために、わたしを石打にするのか」。(三二節)
以下のイエスとイエスを石打にしようとするユダヤ人たちとの問答は、イエスを律法違反者として(異邦人の手に引き渡すことによって)殺したユダヤ教勢力、今イエスを宣べ伝えるヨハネ共同体に対立して非難するユダヤ教会堂勢力に対するヨハネ共同体の反論です。ユダヤ人たちはイエスに答えた、「良い業のために、お前を石打にするのではない。冒涜のためだ。お前は人間でありながら、自分を神にしているからだ」。(三三節)
この節は、ヨハネ共同体とユダヤ教会堂との対立点がどこにあるのかを明確にしています。イエスご自身は自分を神とするような発言はされていません。イエスを神として宣べ伝えたのはヨハネ共同体です。ヨハネ共同体は復活者イエスを神として拝しました(二〇・二八)。その復活者イエスを地上のイエスと重ねて語るのがこのヨハネ福音書です。したがって、地上のイエスが神として宣言される場面が多くなります。ヨハネ福音書は、本来神の自己啓示の宣言句である《エゴー・エイミ》という重大な句を大胆に用い、イエスがそれを語られたとします。これは、「人間でありながら、自分を神とする」行為、ユダヤ教徒には見過ごせない冒涜になります。イエスは彼らにお答えになった、「あなたたちの律法に、『わたしは言った、あなたたちは神々だ』と書かれているのではないか。もし聖書が神の言葉の臨んだ人たちを神々と言っているのであれば――聖書が廃棄されることはありえない――、父が聖別して世に遣わされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからといって、あなたたちは『お前は冒涜している』と言うのか」。(三四〜三六節)
イエスが聖書を「あなたたちの律法」と言われたことは考えにくいことです。これは、すでにユダヤ教会堂と厳しく対立しているヨハネ共同体が、相手の聖典を根拠にして相手を論駁している姿勢を示唆していることになります。引用は詩編八二・六からですが、ここでは詩編もユダヤ教正典の一部として「聖書」に含まれているものと扱われています。「律法」(モーセ五書)と「預言者」(前の預言者と後の預言者、現在の歴史書と預言書)は、すでに紀元前二世紀にはユダヤ教の正典とされていましたが、詩篇を含む「諸書」が聖典に加えられて、現行の三部(律法、預言者、諸書)が正典として確立したのは一世紀末(おそらく90年代)とされています。ここで「聖書」《ヘ・グラフェー》という語をどの程度厳密に正典として扱っているのか問題がありますが、詩篇を「聖書」とするこの箇所は、ヨハネ福音書の成立が一世紀末であることを示唆していることになります。
引用されている詩篇八二・六は、七十人訳ギリシア語聖書からです。詩篇の文脈から、これを新共同訳のように「あなたたちは神々なのか」と(否定の答えを予期する)疑問文に訳す近代訳もありますが、文脈から切り離して聖書証明として用いるのは、ラビの通常の仕方です。ヨハネは七十人訳ギリシア語聖書の文言をそのまま引用して、自分の主張の根拠とします。「もしわたしが父の業をしていないのであれば、わたしを信じるな。しかし、もしわたしがしているのであれば、わたしを信じなくても、業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることがわかり、悟るにいたるであろう」。(三七〜三八節)
称号や言葉の上だけの論争は水掛け論に終わります。ヨハネ共同体は、イエスがなされた業を指し示して、事実によって決着をつけようとします。この福音書が集めて伝えているイエスの働きだけでも十分分かりますが、イエスがなされる力ある業は、人間がなしうることではなく、神だけがなしうる業、すなわち「父の業」です。イエスの言葉はあまりにも人間の思いを超えているので、はじめはイエスが語られる言葉を信じることができなくても、イエスがなされる働きが人から出たものではなく、神から出たものであることを信じるならば、イエスの内に父(神)が働いておられ、イエスが父(神)の内におられる方であることが分かるようになるはずだ、とユダヤ人に向かって呼びかけます。そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れて、去って行かれた。(三九節)
「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」というような言葉を聞いて、ユダヤ人たちはやはりイエスは神を汚しているとして、イエスを捕らえようとします。しかし、イエスの時はまだ来ていないので、イエスは彼らの手から逃れて、去って行かれます。仮庵祭の時も、石を投げようとしたユダヤ人たちから身を隠して、神殿から出て行かれました(八・五九)。この神殿奉献記念祭でも同じように、イエスは彼らの手を逃れて、神殿から去って行かれます。ヨルダン川の向こう側で
イエスは、再びヨルダン川の向こう側、ヨハネが最初にバプテスマを授けていた場所に行き、そこに留まっておられた。(四〇節)
ここまでは神殿奉献記念祭のとき、神殿境内のソロモンの柱廊での出来事でした。石打にしようとしたユダヤ人たちの手を逃れて去って行かれたイエスは、「ヨルダン川の向こう側、ヨハネが最初にバプテスマを授けていた場所」に行かれます。この「場所」については、一・二八にベタニアという地名が上げられていますが、それがどこを指すのかは不明です。イエスが最後の週に泊まられたエルサレム近くのベタニアとは違います。大勢の人たちがイエスのもとに来て、こう言った、「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、ヨハネがこの人について言ったことはすべて本当だった」。こうして、そこでは多くの人がイエスを信じた。(四一〜四二節)
マルコやマタイによると、この期間にもイエスは活動を続けられたことが報告され、多くの出来事や問答が記録されています(マタイでは一九〜二〇章)。ヨハネ福音書も、この期間にこの地域で「多くの人がイエスを信じた」ことを報告しています。彼らが言った「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、ヨハネがこの人について言ったことはすべて本当だった」という言葉から、この時期にもイエスが多くの「しるし」を行われたことが推察できます。「ヨルダン川の向こう側(東側)」は、当時のユダヤ人から辺境扱いされていましたが、初期にはそこにかなりの数の信徒がいたことを、この記事は示唆しています。 イエスについての洗礼者ヨハネの証言が、最初の証言(一・一九〜二八)に呼応して、同じ場所で想起され、イエスの宣教活動全体が囲い込まれることになります。