市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第19講

第八章 世の光イエス

       ―― ヨハネ福音書 八章 ――




第一節 世の光としての復活者イエス

25 イエスと姦通の女(7章53〜8章11節)

 [ 7・53 人々はおのおの自分の家に帰って行った。 8・1 イエスはオリーブ山に行かれた。 2 朝早く、再び神殿境内に来られると、民がみなイエスのもとにやって来たので、イエスは座って彼らを教えられた。 3 そこへ、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、 4 イエスに言う、「先生、この女は姦通行為をしている現場で捕らえられました。 5 モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました。そこで、あなたは何と言われますか」。 6 彼らはイエスを試みて、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスは低くかがんで、指で地面に何かを書いておられた。 7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こし、彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」。 8 そして、再びかがみこんで、地面に書き続けられた。 9 これを聞いた者たちは、年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエスひとりと、真ん中にいた女だけが残った。 10 イエスは身を起こして、女に言われた、「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。 11 彼女は言った、「主よ、誰もいません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう道を誤らないように」。]

七章五三節〜八章一一節の段落について
 底本では、この段落は[ ]に入れられています。すなわち、原本にはなくて後で挿入された可能性が高い部分として扱われています。最大の理由は、初期の有力な写本はほとんどこの部分を欠いているからです。とくに東方では、一二世紀までこの段落を扱ったギリシア教父はいません。また、この部分を入れた写本でも、ルカ二一・三八の後ろなど、様々な位置に置かれています。
 さらに、用語もヨハネが他では用いていない単語が多く出てきます。「オリーブ山」も、ヨハネ福音書に出てくるのはここだけです。「律法学者」は、共観福音書で用いられる回数はきわめて多いが、ヨハネ福音書ではここだけです。二節の「民」の原語は《ホ・ラオス》ですが、この語は普通神との契約関係にあるイスラエルを指すのに用いられます。共観福音書ではよく用いられていますが、ヨハネ福音書では「一人が民の代わりに死ぬ」ことを求めた大祭司カイアファの言葉(一一・五〇、一八・一四)以外では用いられていません。ヨハネはいつも「群衆」《オクロス》を用いています。ギリシア語の文体も、ヨハネとは異なり、むしろルカに近い文体です。内容も、罪人(とくに女性)の友としてのイエスの強調はルカ的であると言えます。この挿話が写本に現れるのは比較的後期になりますが、この伝承そのものは古いもので、二世紀初頭の教父にも知られていたとされています。

死を求める律法

 人々はおのおの自分の家に帰って行った。イエスはオリーブ山に行かれた。朝早く、再び神殿境内に来られると、民がみなイエスのもとにやって来たので、イエスは座って彼らを教えられた。(七・五三〜八・二)

 人々は皆おのおの自分の家に、すなわち日常の生活の場に帰って行きますが、イエスはひとり神との交わりの中で祈るためにオリーヴ山に行かれます。イエスは、エルサレム滞在中はオリーヴ山のどこかを祈りの場としておられたのでしょう(ゲッセマネの園はオリーヴ山の麓にあります)。
 その祈りの場で夜を過ごし、朝早く再び神殿境内に来て、イエスは神殿に集まる民に神の道を説かれます。イエスは、イスラエルの民の教師(ラビ)として神殿で活動されます。

 そこへ、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言う、「先生、この女は姦通行為をしている現場で捕らえられました」。(三〜四節)

 イエスが神殿境内で教えておられるとき、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、このような場合についてのイエスの意見を尋ねます。
 彼らはイエスを「先生《ラビ》」と呼んでいます。この呼びかけは、民に神の道を説く教師《ラビ》であるならば、このように姦通行為をしている現場で捕らえられた女に対する律法の裁きをはっきり語るべきであるという強要を含んでいます。これは、皇帝に税金を納めることについて意見を強要したとき、教師としてのイエスを持ち上げたのと同じです(ルカ二〇・二一)。

 「モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました。そこで、あなたは何と言われますか」。 (五節)

 モーセ律法は姦通に対して死刑を定めています(レビ記二〇・一〇)。とくに申命記二二章二二節の規定は、姦通の現場で捕らえられた者の処刑を求めています。死刑の方法は罪の種類によって異なっていました。《トーラー》に明文はありませんが、ラビたちの伝統では、姦通は石打の刑に処せられました。ファリサイ派では、口伝律法も成文律法と同じくモーセの命令とされていたので、律法学者たちは「モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました」と言っています。

 彼らはイエスを試みて、訴える口実を得るために、こう言ったのである。(六節前半)

 このようにモーセ律法の規定を引用した上で、「そこで、あなたは何と言われますか」と、イエスの意見を求めます。原文では「あなたは」が強調されています。普段罪人の友と称しているイエスが、この明白に死刑を求める律法にどう対処するか、モーセ律法に対するイエスの態度を試みているのです。もしイエスが女を処罰しないで赦してやるような発言をされたら、明白な律法違反を教唆する言動として訴えることができます。律法に背くように民を扇動する異端教師には死刑が科せられました。

低くかがむイエス

 イエスは低くかがんで、指で地面に何かを書いておられた(六節後半)。

 イエスは彼らの質問に答えないで、低くかがんで、指で地面に何かを書き始められます。イエスが何を書いておられたのかは分かりません。イエスが何を書いておられたかについては、石を投げようとする人たちの罪を書き連ねておられたとか、幾百もの想像がなされましたが、それを詮索することは無益でしょう。その女の罪だけを見て、自分を見ようとしない人たちに、イエスは自分を見る時間を与えておられると見てよいでしょう。イエスの不思議な行動を見て驚き、人々はしばらく女から目を離し、イエスの背中を見つめたことでしょう。

 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こし、彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」。そして、再びかがみこんで、地面に書き続けられた。(七〜八節)

 自分の実相を見ることができず、他人の罪だけを咎める人間の執拗な問いかけに対して、イエスは身を起こし、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」と言われます。これが「低くかがんで指で地面に何かを書いておられた」イエスの行動の意味であったわけです。その行動の意味するところを明白な言葉で語りだされたのです。
 石打刑の場合、告発した者または証人が最初に石を投げることになっていました(申命記一七・七)。イエスの言葉はこの律法の規定を用いていますが、それを超えています。律法の規定では、律法違反の行為がない者は石を投げる資格がありました。それに対してイエスは、自分にはその資格があるとして石を投げようとする人々の良心に問いかけられます。「あなたたちの中で、自分には神の前に何の罪もないと言える者があるか」と問いかけられます。そして、再びかがみこんで地面に書き続け、人々に自分を見つめる時間を与えられます。

 これを聞いた者たちは、年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエスひとりと、真ん中にいた女だけが残った。(九節)

 イエスの問いかけを受けて、女に石を投げようとした人々は自分を見つめ直します。誰が罪のない者として、すなわち神の立場に立って女を断罪することができるでしょうか。イエスの問いは、石を投げようとした人々に、自分は神ではなく、この女と同じ立場の人間であることを自覚させます。イエスは低くかがんだままです。イエスは居丈高に彼らの高慢を叱責するのではなく、彼らの良心が彼らの内で語りかけるのに委ねられます。すると、彼らは「年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り」、イエスとその女だけが残ります。

 イエスは身を起こして、女に言われた、「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。彼女は言った、「主よ、誰もいません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。 これからはもう道を誤らないように」。(一〇〜一一節)

 イエスがおられなければ、姦通の現場で捕らえられた女は、ユダヤ教律法で有罪とされて石打刑で処刑されたことでしょう。しかし、イエスがおられるところでは恩恵が支配します。イエスがおられるところ、すなわち恩恵の場では、人間はみな等しく神の絶対恩恵によって赦されて存在しているものであることを自覚します。その場では、人が人を罪に定めることはありません。この恩恵の場を体現する方として、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われます。
 恩恵による赦しを宣言した上で、その恩恵の場に生きるように、「行きなさい」と女を送り出されます。そのさい、「これからはもう道を誤らないように」と諭されます。この語は「罪を犯さないように」と訳されることが多い語ですが、この動詞の原意は「的を外す」という意味ですから、個々の律法規定に違反するという意味の「罪を犯す」よりも、もっと根本的な「道を誤る」という意味に理解して訳しています。恩恵の場にしっかりと留まり、神の慈愛の道から外れないように歩みなさい、という勧めです。そうすれば、生活は人への愛と誠実に貫かれた堅実なものになり、誰からも石を投げられるようなことはないはずです。道を踏み誤ると自分が制裁を受けるだけでなく、家族や周囲の者に悲しい思いをさせることになります。イエスの言葉は、これからは律法違反をしないようにという要求ではなく、二度とこのような過ちをしないようにという優しい励ましです。

罪を覆う恩恵

 この挿話は感動的です。たしかに、この物語は(先に見たように)ヨハネ福音書に後から挿入された物語かもしれませんが、恩恵の支配を説かれたイエスの姿を実に感動的に伝えています。イエスはここでは恩恵の支配を言葉で説かれるのではなく、身をもって示しておられます。女の側にかがみ込んで地面に何かを書いておられるイエスは、その行動によって女を身をもってかばっておられるのです。群衆がその女に石を投げるならば、そばでかがみ込んでいるイエスに当たることは避けられないでしょう。女に石を投げることは、イエスに石を投げることになります。イエスは律法を守れない女と同じ立場に身を置き、その女と一つになって、違反者に対する律法の裁きを受ける場に留まられます。そして、この聖なる人イエスに石を投げることができず、群衆が一人また一人と立ち去った後、ただ一人裁くことができるイエス御自身が、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されます。ここには、父の恩恵が人間の罪を包み込み、乗り越えている現実が、見事に物語られています。

26 世の光イエス (8章 12〜20節)

 12 さて、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしが世の光である。わたしに従ってくる者は闇の中を歩むことなく、命の光を持つであろう」。 13 するとファリサイ派の者たちがイエスに言った、「お前は自分自身のことを証ししている。お前の証しは真実ではない」。 14 イエスは答えて彼らに言われた、「たとえわたしが自分自身について証しをしているとしても、わたしの証しは真実である。わたしは自分がどこから来たか、またどこへ行くのかを知っているからである。あなたたちはわたしがどこから来たのか、またどこへ行くのかを知らない。 15 あなたたちは肉によって判断しているが、わたしはだれをも判断しない。 16 しかし、もしわたしが判断するとすれば、わたしの判断は真実である。わたしは一人いるのではなく、わたしとわたしを遣わした父とがいるのだからである。 17 あなたたちの律法にも、二人の人間の証しは真実であると書かれている。 18 わたしがわたし自身について証しをする者であり、わたしを遣わされた父もわたしについて証しをされるのである」。19 そこで彼らはイエスに言った、「お前の父はどこにいるのか」。イエスはお答えになった、「あなたたちはわたしを知らず、またわたしの父をも知らない。もしあなたたちがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知ったであろうに」。 20 イエスはこれらの言葉を、神殿の境内で教えておられたとき、さいせん箱の傍で語られた。しかし、だれもイエスを捕らえる者はなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

世の光

 さて、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしが世の光である。わたしに従ってくる者は闇の中を歩むことなく、命の光を持つであろう」。(一二節)

 前の姦淫の女の段落(七・五三〜八・一一)を挿入として飛ばして読むと、この節は七章五二節に続くことになります。ただし、七章四五〜五二節はイエスがおられない別場面(議員たちの相談)であるので、イエスの行動としては、七章三七〜四四節の「祭りの最終日である大祭の日」の出来事の続きとなります。したがって、「再び彼らに」は七章三七節の呼びかけに続いて、さらに「再び群衆に」呼びかけられたことになります。この水と光という象徴を用いた二つの呼びかけ(七・三七と八・一二)は、「水と光の祭り」と呼ばれる仮庵祭(七・三七の注を参照)にふさわしい光景となります。
 この光の祭りを背景として、イエスは「わたしが世の光である」と宣言されます。他の誰でもなく、他のどのような事柄でもなく、復活者イエスこそが「世の光」であるという宣言です。これはヨハネ福音書が、ひいてはヨハネ共同体が世界に向かって発する福音の一つの表現です。原文は、《エゴー・エイミ》(わたしはある)の後に「世の光」という説明の補語が来る形の文です。復活者イエスは、神が御自身を啓示されるときに名乗られる《エゴー・エイミ》(わたしはある)をもって世界に現れる方です。その方が、ここでは「世の光」としての働きで顕われておられるのです。

この形の自己啓示の文については、319頁の特注「ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」の項を参照してください。

 ヨハネ福音書は、光と命の領域と闇と死の領域という、まったく別の原理によって構成される二つの領域を前提にして救済を語っています(これがヨハネの「二元論」と呼ばれる語り方です)。「世」《コスモス》は闇と死の領域に属し、自分の中に光も命も持たない領域です。光の領域から来た方(イエス)だけが、この闇に属する《コスモス》に光をもたらすのです。他の誰でもなく、またどの事柄(悟りなど)でもなく、イエス(復活者であるイエス)だけが《コスモス》にとっての光です。光の象徴は序詩(一・一〜一八)以来繰り返し用いられてきましたが(三・一九〜二一など)、ここでイエスご自身の自己啓示の宣言として明確に語り出されることになります。

光と闇の二元論はクムランの死海文書にも強く表れています。ヨハネ福音書の光と闇の二元論は(洗礼者ヨハネを通して)クムランのエッセネ派共同体の影響が推定されます。

 「わたしが〜である」というイエスの自己啓示には、それを信じる者に対する救済の約束が続くのが普通です(たとえば六・三五)。その「わたしを信じる者」が、ここでは「わたしに従ってくる者」という表現で語られ、その人は「闇の中を歩むことなく、命の光を持つであろう」と救済が約束されます。
 その人はもはや「闇の中を歩む」ことはなくなります。ヨハネ福音書においては、生まれながらの人間が所属している「世」《コスモス》は闇であり、人間は真理(人間を含む《コスモス》の実相)を見ることなく歩んでいるとされます。そのために人間は苦悩と不安の中に生きなければならないのです。暗闇の中を歩く者はものにつまずいて倒れたりします。光であるイエスに従う者は、もはやそのような闇の中をさまようことはありません。ここでは、光は真理を照らし出す働きの面で見られています。
 ヨハネ福音書では、光は実相を照らし出して見えるようにする働きだけでなく、命を与える働きをもつとされています。光とは復活者イエスの象徴だからです。そのように命を与える光が「命の光」と呼ばれるのです。逆に命が人の光とも言われます(一・四)。光と命は一体として、闇と死の領域に対立します。「光を持つであろう」という未来形は、七・三七〜三九の場合と同じく、イエスが栄光をお受けになった(復活された)後の現実であることを示しています。

二人の証し

 するとファリサイ派の者たちがイエスに言った、「お前は自分自身のことを証ししている。お前の証しは真実ではない」(一三節)

 イエスに敵対する勢力が、ここでは「ユダヤ人」よりも具体的に、「ファリサイ派の者たち」と名を上げられています。彼らは、人が自分自身について立てる証言は信用できないというユダヤ教の原則によって、イエスの自己啓示の宣言を、信用できない自己証言として退けます。

 イエスは答えて彼らに言われた、「たとえわたしが自分自身について証しをしているとしても、わたしの証しは真実である。わたしは自分がどこから来たか、またどこへ行くのかを知っているからである。あなたたちはわたしがどこから来たのか、またどこへ行くのかを知らない」。(一四節)

 五章三一節では、自己証言は信用できないとするユダヤ教の原則を認めて、(ヨハネ共同体は)別の証人(洗礼者ヨハネ、父、聖書)の証言を指し示しました(五・三二〜四〇)。しかし、ここではもはやユダヤ教の原則を顧みることなく、イエスが自分の出てきた所と行き先を知っているという別の根拠に立って、イエスの自己啓示が真実であることを主張します。
 イエスの自己証言が真実であるのは、イエスが自分の出てきた所と行き先を知っている、すなわち父から遣わされた者としての自己の本質を明確に自覚しているからだとされます。啓示は必然的に自己証言とならざるをえないのです。他者の証言に依存する啓示は、もはや絶対的啓示、最終的啓示ではありえません。
 イエスの自己証言を批判する者たちは、イエスの父から遣わされた者としての本質が理解できません。あくまでイエスを人間の目で判断しているのです。そこで続いて次節以下で、彼らの判断とイエスの判断の原理が違うことが語られます。

 「あなたたちは肉によって判断しているが、わたしはだれをも判断しない」。(一五節)

 ここに用いられている動詞《クリノー》は、「分ける、判断する、裁く」などの意味をもつ動詞です。ここでは法廷での判決を問題にしているのではなく、証言にたいする態度を問題にしているので、「判断する」と訳しています。
 ユダヤ人は、イエスの霊的次元での本質を理解できず、イエスの証言を「肉によって」、すなわち人間的な次元で(たとえば証言についての法律規定で)判断して退けています。それに対してイエスは、誰をもそのような人間的な基準で判断しないと言って、彼らの判断の仕方が誤っていることを示されます。これは、御霊を持たない人間の生まれながらの判断力(肉による判断)では、イエスが自分について証言される言葉を理解することはできないのだ、とヨハネ共同体が世に向かって宣言しているのです。

なお、この箇所が、「わたしは誰をも裁かない(罪に定めない)」と理解されて、姦通の女のエピソードがこの段落の前に入れられた可能性があります。

 「しかし、もしわたしが判断するとすれば、わたしの判断は真実である。わたしは一人いるのではなく、わたしとわたしを遣わした父とがいるのだからである」。(一六節)

 ファリサイ派の人たちは、イエスが自分について証言しているので、その証言は真実でないと批判しました(一三節)。それは「肉によって判断している」からだと、彼らの批判の基準を反駁(一五節)した上で、改めてイエスが自分についてなされる証言が真実であることが、「わたしは一人いるのではなく、わたしとわたしを遣わした父とがいるのだから」という理由を根拠にして主張されます。

 「あなたたちの律法にも、二人の人間の証しは真実であると書かれている。わたしがわたし自身について証しをする者であり、わたしを遣わされた父もわたしについて証しをされるのである」。(一七〜一八節)

 そのさい、「二人の人間の証しは真実である」という原則は、「あなたたちの律法にも書かれている」ように、相手も認めざるをえない原則です。それは、申命記一九章一五節を指していますが、聖書の箇所が「あなたたちの」律法と表現されていることが注目されます。ヨハネ共同体はファリサイ派に指導されるユダヤ教会堂と対峙しており、自分たちの主張が相手の立場から見ても正しいことを論証しようとしているのです。
 イエスが父から遣わされた父と等しい子であるという主張は、自分がどこから来たかを知っておられるイエスが証言されるだけでなく、イエスを遣わされた父も一緒に証言しておられると、ヨハネ共同体はユダヤ教会堂に向かって主張するのです。

 そこで彼らはイエスに言った、「お前の父はどこにいるのか」。イエスはお答えになった、「あなたたちはわたしを知らず、またわたしの父をも知らない。もしあなたたちがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知ったであろうに」。(一九節)

 その主張に対して彼らは「お前と一緒に証言するという、お前の父はどこにいるのか」と反論します。イエスの敵対者たちは、イエスの言葉を「肉によって(人間的な次元で)判断して」、イエスの傍に肉親の父親がいないことを問題にしています。ここにも、イエスの言葉の霊的な次元と、それを理解できない相手の地上的次元の行き違いという、この福音書の対話の特徴が出ています。
 一九節のイエスの答えは、人間の論理としては循環論法です。あなたたちはわたしを知らないから、わたしを遣わした父を知ることがない。また、わたしを遣わした父を知らないから、わたしが分からない。わたしが分かったなら、わたしを遣わした父も分かる、という循環論法になっています。この論法は、イエスを知ることと、父を知ることは一つであることを主張していることになります。これは、この福音書全体の主張に他なりません。

ヨハネ共同体がユダヤ人に向かって、「あなたたちは父を知らない」と断定する激しい批判については、五章三七節についての講解(本書201頁)を参照。

 イエスを知らない(理解できない)から父を知らないし、父を知らないからイエスを理解できないという循環と、イエスを知ることによって父を知り、父を知るゆえにイエスを理解するという循環の間には、人間の論理では越えることができない淵が横たわっています。その淵を越えるのは信仰の飛躍だけです。その飛躍は、聖霊の働きとして信じる者の内に起こる出来事です。

 イエスはこれらの言葉を、神殿の境内で教えておられたとき、さいせん箱の傍で語られた。しかし、だれもイエスを捕らえる者はなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。(二〇節)

 著者ヨハネは、長い対話の最後に場所を特定して、その対話が実際に行われたという印象を強める傾向があります(六・五九参照)。ここでは「さいせん箱の傍で語られた」と、場所が特定されます。

新共同訳と岩波版は「宝物殿」と訳していますが、原語はマルコ一二章四一と四三節の「さいせん箱」と同じ語であるので、協会訳のように「さいせん箱」と訳しておきます。前置詞は《エン》が用いられていますが、この場合はさいせん箱が置いてある区域を指すと理解します。

 「これらの言葉」、すなわちイエスが仮庵祭で群衆に向かって語られた言葉と、批判者たちにお答えになった言葉は、イエスが自分を神と等しい者としているという訴えをするのに十分でしたが(五・一八参照)、この仮庵祭の時には誰もイエスを捕らえる者はありませんでした。著者はそれを「イエスの時がまだ来ていなかったからである」と説明します。この福音書では、イエスの生涯は、イエスが父から与えられた使命を果たすことになる決定的な出来事が起こる時、すなわち十字架と復活の出来事が起こる「イエスの時」に向かって進んでいきます。父が定められたその時が来るまでは、人間は誰も手を出すことができません。

27 わたしは去って行く(8章 21〜29節)

 21 さて、イエスは再び彼らに言われた、「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すが、自分の罪の中に死ぬことになる。わたしが行くところにあなたたちは来ることができないのである」。 22 そこでユダヤ人たちは言った、「『わたしが行くところに、あなたたちは来ることができない』と彼は言っているが、自殺するのであろうか」。 23 イエスは彼らに言われた、「あなたたちは下からの者であるが、わたしは上からの者である。あなたたちはこの世からの者であるが、わたしはこの世からの者ではない。 24 それで、わたしはあなたたちに、あなたたちは自分の罪の中に死ぬであろうと言ったのだ。『わたしはある』を信じないならば、あなたたちは自分の罪の中に死ぬことになる」。 25 彼らが「いったいお前は誰か」と言ったので、イエスは彼らに言われた、「それは初めからあなたたちに話している。 26 わたしには、あなたたちについて言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしを遣わされた方は真実であり、わたしもまたその方から聞いたことを世に語るのである」。 27 彼らは、イエスが父のことを語っておられるのが分からなかった。 28 そこで、イエスは言われた、「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう。すなわち、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられた通りに語っていることが分かるであろう。 29 わたしを遣わされた方は、わたしと一緒にいてくださる。わたしをひとりにはされない。わたしはいつもその方の御旨に適うことを行っているからである」。

帰って行くイエス

 さて、イエスは再び彼らに言われた、「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すが、自分の罪の中に死ぬことになる。わたしが行くところにあなたたちは来ることができないのである」。(二一節)

 イエスはすでに七・三三で「わたしは去っていく」と述べておられます(ここと同じ動詞が用いられています)。七章と八章は仮庵祭を舞台としたひとまとまりの論争ですが、そこではイエスが「去っていく」という主題が予告の形で取り上げられています。このように繰り返される予告は、共観福音書で三回繰り返されている「受難予告」に相当します。共観福音書では、イエスの受難は「引き渡される」など「〜される」という受動態で語られますが、ヨハネ福音書では、イエスの死は「わたしは去って行く」という能動態で語られます。イエスの十字架上の死は、ヨハネ福音書ではいつもイエスが進んで御自分の命を与えられる行為として描かれます。
 この福音書は闇と死の領域と光と命の領域を峻別する二元論の枠組みで福音を提示し、イエスはつねに「上から」、すなわち光と命の領域から来て、再びその領域に帰っていく方として描かれます。上の領域に帰ることができるのは、本来その領域に属する方だけであり、「下からの者」、「この世からの者」はその領域に入ることができないので、その領域に帰られたイエスを捜しても見つけることはできません(七・三四参照)。
 イエスを批判し訴えるユダヤ人たちが、イエスと共に光と命の領域に上ることはできないことが「自分の罪の中に死ぬことになる」と表現されます。彼らは不信の罪の中に放置されて、闇と死の領域に留まることになります。著者は、復活者イエスを信じようとしないユダヤ人たちに対して、「自分の罪の中に死ぬ」という預言者的な言葉(申命記二四・一六、エゼキエル三・一九、一八・二四)で警告するのです。

 そこでユダヤ人たちは言った、「『わたしが行くところに、あなたたちは来ることができない』と彼は言っているが、自殺するのであろうか」。(二二節)

 最初の「去っていく」の予告の時も、ユダヤ人たちはその意味が理解できず、「離散のユダヤ人のところに行くのか」などと考えましたが(七・三三〜三六)、ここではその無理解はさらに進んで「自殺するのか」という疑問になっています。

 イエスは彼らに言われた、「あなたたちは下からの者であるが、わたしは上からの者である。あなたたちはこの世からの者であるが、わたしはこの世からの者ではない。それで、わたしはあなたたちに、あなたたちは自分の罪の中に死ぬであろうと言ったのだ。『わたしはある』を信じないならば、あなたたちは自分の罪の中に死ぬことになる」。(二三〜二四節)

 この福音書は繰り返し、イエスを光と命の領域に属し、そこから来た者として、「上からの者」と呼びます(三・三一など)。それに対して、イエスを信じないユダヤ人たちは、この闇と死の領域であるこの世に属する者として「下からの者」と呼ばれます。本節では同じことが「この世からの者」と「この世からでない者」の対比で繰り返されます。イエスは「上からの者」であり、ユダヤ人たちは「下からの者」であるので、イエスが行かれる所に行くことができないという前節の事実を受けて、「それで」と、二一節の「あなたたちは自分の罪の中に死ぬであろう」という宣言を改めて繰り返します。

二一節の「罪」は単数形でしたが、二四節の「罪」は(二回とも)複数形です。パウロの場合は、複数形を用いず単数形で用いることに重要な意味がありましたが、ここ(二一節と二四節)ではヨハネが意味の上の区別をしているとは思われません。ヨハネの場合も、単数形が10回、複数形が4回(ここの2回と九・三四、二〇・二三)と、単数形の用例が多いようです。ヨハネは、神が遣わされた方を信じないことを「罪」として、単数形で語ります(一五・二二〜二四、一六・八〜九)。複数形を用いている二四節でも後半の文で、イエスを信じないことが罪であるとされていることが分かります。

 ここで自分の罪の中に死ぬのは、『わたしはある』を信じないからだと、その理由が明示されます。すでにイエスを信じないことが様々な表現で語られていましたが、ここで「『わたしはある』を信じない」という、この福音書にきわめて特徴的な表現で語られます。この福音書でイエスは「上からの者」とか「神から遣わされた者」と呼ばれてきましたが、ここでは神秘的な《エゴー・エイミ》という称号で呼ばれることになります。

原文では《エゴー・エイミ》の前に「〜ということ」という名詞節をまとめる接続詞《ホティ》があるので、ここの《エゴー・エイミ》 (I AM )は補語が略された場合として、「わたしがそれであること」と訳されることが多いようです。しかしここでは、《エゴー・エイミ》という主語と動詞からなる文を称号としてまとめていると理解します。ここや二八節の《ホティ・エゴー・エイミ》と同じ用例が、七十人訳ギリシア語聖書のイザヤ書四三・一〇などに見られます。《エゴー・エイミ》については、後述の特注「ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」の項を見てください。

イエスとは誰か

 彼らが「いったいお前は誰か」と言ったので、イエスは彼らに言われた、「それは初めからあなたたちに話している」。(二五節)

 共観福音書のイエスは「神の国」を宣べ伝えておられますが、ヨハネ福音書のイエスは「神の国」のことはほとんど語らず、もっぱら自分は誰であるかだけを語っておられます。これはイエスについてのヨハネ共同体の証言です。ヨハネ共同体は、繰り返し繰り返し、世界に向かって、とくに対立するユダヤ教団に向かって、用いることができる限りの表現を駆使して、イエスが神から遣わされた方であることを語るのです。しかもそれをイエス御自身の言葉として語ります。

 「わたしには、あなたたちについて言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしを遣わされた方は真実であり、わたしもまたその方から聞いたことを世に語るのである」。(二六節)

 著者ヨハネとその共同体は、対立するユダヤ教団に対して反論すべきこと、その不信と誤りを指弾すべきことを多く持っています。それを、「わたしにはたくさんある」と、イエスの言葉として突きつけます。イエスを信じないユダヤ人たちは、ヨハネ共同体側からの反論と糾弾を受け付けないでしょうが、「しかし」、イエスを遣わされた方は真実であり、イエスはその方から聞いたことを世に語っておられるのですから、この反論と糾弾は真実である、と続きます。

 彼らは、イエスが父のことを語っておられるのが分からなかった。そこで、イエスは言われた、「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう。すなわち、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられた通りに語っていることが分かるであろう」。(二七〜二八節)

 ヨハネ共同体のユダヤ教団に対する批判が続きます。彼らユダヤ人たちは、イエスが霊なる神を父として語っておられることが分からなかったので、「お前と一緒に証言するという(肉親の)父親はどこにいるのか」などと尋ねるのです。そのような無理解なユダヤ人に対して、イエスは「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう」と言われます。
 初期の教団はイエスを、ユダヤ教黙示思想において待望されていた終末的な審判を行う「人の子」であると告知しました。共観福音書は、復活して天に昇ったイエスが地上に来臨されるという形で黙示思想的な面を残しています。ヨハネ福音書もこの「人の子」思想を継承して用いていますが、「人の子」の到来を未来に待望するのではなく、徹底的に現在化して、地上のイエスが「人の子」であるとしています(三・一三、五・二七の講解を参照)。したがって、イエスの十字架上の死は「人の子が上げられる」と表現されます(三・一四)。
 この福音書は、イエスが十字架につけられたことを、地上から「上げられる」という独自の表現で語ります。それは、イエスが復活して神の右にまで「上げられた」ことと重ねるためです。イエスの十字架は復活者キリストの身に起こった出来事であることを「上げられる」の一語で表現しているのです。地上のイエスを「上げた」のはユダヤ人たちでしたが、神はそのイエスを「上げて」、主《キュリオス》とされたのです。このことが起こったときユダヤ人たちも、イエスが《エゴー・エイミ》であること、すなわち神の啓示者であり神の顕現であることが「分かるであろう」と言われます。動詞が未来形であるのは、このイエスとユダヤ人たちの対話をあくまで地上での対話としているからです。
 そして、イエスが《エゴー・エイミ》であることの意味を説明するための同格の文が続きます。イエスが《エゴー・エイミ》であるというのは、イエスが自分からは何もせず、父が教えられた通りに語っている方であることを意味しています。イエスは自分からは何もせず、ただ自分を遣わされた父の言葉を語り、父の業をなしておられるのです。イエスは完全な意味で、父の啓示者であり、父の地上での顕現、すなわち《エゴー・エイミ》なのです。

 「わたしを遣わされた方は、わたしと一緒にいてくださる。わたしをひとりにはされない。わたしはいつもその方の御旨に適うことを行っているからである」。(二九節)

 イエスとは誰であるか、すなわち《エゴー・エイミ》とはどういう存在かが、この節でさらに説明されます。本節ではイエスが父と一体であり、父がいつもイエスと一緒におられることと、イエスがいつも父の御旨を行っておられることが語られます。

特注 ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》

「わたしはある」

 この仮庵祭でユダヤ人と論争されるイエスは、しばしば「わたしはある」という不思議な称号を用いて御自分を指しておられます。この表現はわたしたちには分かりにくいものですので、ここで簡単な解説をつけておきます。
 「わたしはある」は、ギリシア語の《エゴー・エイミ》の直訳です。《エゴー・エイミ》は、英語の I AM に相当する語法です。これは、本来旧約聖書で神の自己啓示の言葉です。すでにモーセが燃える柴の中に現れた方にその名を尋ねた時、こう答えられています。

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。(出エジプト記三・一四 新共同訳)


 「これこそ、とこしえにわたしの名」とされたことに応えて、イスラエルはこの名を自分たちの神の名として告白し賛美してきました。それは様々な形で詩篇の中で証言されています。そしてこの名は、捕囚期の大預言者第二イザヤにおいて神の啓示の中心に据えられて重要な役割を果たすようになります。
 たとえば、イザヤ書四三章(一〜一五節)で主がイスラエルに語りかけてご自身を啓示される時、「アニー」(強調の「わたしは」)が、「わたしはヤハウェである」、「わたしは神である」、「わたしはそれである」というような形で繰り返し用いられています。その中で「アニー・フー(わたしはそれである)」の定式は(ヘブライ語では「フー(彼)」が繋辞「である」の意味でも用いられることから)ギリシア語訳では「エゴー・エイミ(わたしはある)」と訳されることになります(一〇節など)。捕囚後のユダヤ教団では、この「アニー」とか「アニー・フー」という定式が神の自己啓示の定式として確立し、イエスの時代にはとくに過越と仮庵の大巡礼祭によく唱えられたのでした。
 この旧約聖書およびユダヤ教の背景から、新約聖書では復活者イエスがその神的臨在を現されるときの定式として用いられるようになります。共観福音書では最高法院での裁判(マルコ一四・六二)とか、また湖上に顕現された時(マルコ六・五〇)など、イエスがご自分の栄光の本質を啓示される特別の場合に出てきます。決定的な場面は最高法院でのイエスの宣言です。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という大祭司の質問に対して、イエスはこの宣言をもって答えておられます。「『エゴー・エイミ』。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ一四・六二)。大祭司はこれを聞いて、衣を引き裂きながら言います、「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒?の言葉を聞いた」。当時のユダヤ教における「アニー・フー」定式の使用の背景からすれば、「人の子」宣言の句がなくても、この「エゴー・エイミ」の宣言だけで大祭司が衣を引き裂くに十分です。
 イエスが最も決定的な瞬間に口にされたとされるこの一語が、湖上での顕現のようなイエスが御自身の神的栄光を啓示されるときの言葉として用いられるようになります。あるいは逆かもしれません。すなわち、復活者イエスの顕現にさいして、神的な臨在に圧倒された弟子たちが、その臨在を「アニー・フー」という言葉で聞き(普段その神的臨在の定式を唱えているユダヤ教徒には自然なことです)、それを最高法院での裁判でのイエスの宣言に用いたのかもしれません。いずれにせよ、最初期の教団はイエスを神の臨在として告白するときにこの「エゴー・エイミ」の定式を用いるようになります。
 イエスが用いられる「エゴー・エイミ(わたしはある)」という宣言の重大性を最もよく理解したのはヨハネ福音書です。この宣言は最初にサマリアの女に向かって発せられています(四・二六)。次に、仮庵の祭でエルサレムに上られたイエスに対して疑問や批判を投げかけたユダヤ人との論戦(ヨハネ福音書七〜八章)で、イエスは「『わたしはある』を信じないならば、あなたたちは自分の罪の中に死ぬことになる」(八・二四)と語り、さらに「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう」(八・二八)と言っておられます。そして、最後に「アブラハムが生まれるまえから、わたしはある」と宣言されます(八・五八)。ユダヤ人たちはこの宣言の重大さをよく理解しました。それは自分を神とすることです。「ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」(八・五九)。このように自分を神として神を汚す者を生かしておくことはできないとしたのです。しかし弟子たちには最後の食事の席で、イエスは自分が弟子の一人に裏切られて十字架されることがつまずきにならないように語られるところでこの宣言が用いられています。「事が起こる前に、今言っておく。それは、事が起こったときに、『わたしはある』をあなたたちが信じるようになるためである」(一三・一九)。

「わたしが〜である」

 ところでヨハネ福音書には、「わたしが命のパンである」とか「わたしが世の光である」というような、「わたしが〜である」というイエスの自己啓示の宣言の後に、「わたしを信じる者(またはそれに相当する句)は〜するであろう」という、この啓示を受け入れる者に救済を約束する文が続く形で福音を提示する形が多く出てきます。この形で福音を提示することが、ヨハネ福音書の特色です。
 「わたしが〜である」という部分のギリシア語原文は、《エゴー・エイミ》の後に補語として「光」、「復活・命」、「道・真理・命」などの著者特有の語句が置かれ、とくに「パン」、「門」、「羊飼い」、「ぶどうの木」というような象徴的語句が置かれることが多いようです。
 著者ヨハネはこの句の後に補語として象徴語句(パン、羊飼い、ぶどうの木などだけでなく、光、道、真理、復活、命なども著者にとって深い意味で象徴です)を置いて、「わたしが〜である」というキリスト論的宣言文を形成していますが、この文の理解には次の二点を注意しなければなりません。

 1 ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ+補語》の形の文は、たんに「わたしは田中である」とか「わたしは教師である」というように、自分を特定したり、自分の状態などを記述する文ではなく、イエスの神的自己啓示の宣言《エゴー・エイミ》に説明的な補語が加えられたものです。復活者イエスは、《エゴー・エイミ》という神の自己顕現の定式をもって自らを現されますが、著者ヨハネはその後に象徴語句を加えて、復活者イエスがどのような働きをもって現れるのかを世に提示するのです。たとえば、「わたしが命のパンである」(六・三五)という文は、《エゴー・エイミ》という句で自己を啓示しておられる復活者イエスが、「命のパンとして」現れておられるのです。すなわち、自分を信じる者に永遠の命を与える者として現れておられるのです。このような意味で補語が加えられているので、「わたしが〜である」という宣言には、必然的に「わたしを信じる者は〜するであろう」という救済の約束が伴うことになります。この文における神的自己啓示の宣言《エゴー・エイミ》の重大性を見落としてはなりません。

 2 「わたしが〜である」の文は、「わたし」が強調されており、他の誰でもなく、また他のどのような事柄でもなく、この復活者であるわたしこそが、またわたしだけが、その象徴語句が指し示す本体であることを宣言しています。それは、基本的には象徴に対する本体(ぶどうの木の場合)ですが、期待や約束に対して成就(パンの場合)、偽物に対して本物(羊飼いの場合)など、様々な意味合いを含んでいます。ヨハネ福音書における「わたし」は、復活者イエスの「わたし」であることを見落としてはなりません。