市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第5講

第二章 新しい時代の到来

       ―― ヨハネ福音書 二章 ――




第一節 最初のしるし

4 カナの婚礼 (2章 1〜12節

 1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。 2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 3 ぶどう酒が切れたので、母はイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 4 イエスは母に言われた、「婦人よ、それがわたしとあなたに何の関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」。 5 母は召使いたちに言った、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。 6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二ないし三メトレテスまで入るものであった。 7 イエスは召使いたちに言われた、「水がめを水で満たしなさい」。すると、召使いたちは縁まで満たした。 8 イエスは彼らに言われた、「さあ、それを汲んで世話役のところに持って行きなさい」。そこで、召使いたちは運んだ。 9 世話役はぶどう酒に変わった水を味わって、それがどこから来たのか知らなかったので ― 水を汲んだ召使いたちは知っていたのだが ― 、花婿を呼んで 10 言った、「人はみな、はじめによいぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものです。あなたはよいぶどう酒を今まで取って置いたのですか」。 11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。12 その後、イエスと母、兄弟たち、弟子たちはカファルナウムに下って行き、そこにしばらく滞在した。

「わたしの時」

 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた(一〜二節)

 一章の後半(二九〜五一節)では、イエスは洗礼者ヨハネが活動したパレスチナ南部のユダヤの地におられました。しかし、三日後には舞台が「ガリラヤのカナ」に移ります。すでに、一章四三節で、イエスがフィリポを召された時、「イエスはガリラヤへ行こうとして」おられたことが語られていました。したがって、素直に読めば、この「三日目」は、ガリラヤに向かって出発しようとしてフィリポを召された時から「三日目」ということになり、ガリラヤのカナまでの旅の日数を示すことになります。
 このカナの婚礼の記事は、著者が「しるし資料」を用いていると見られるので、資料に何かの出来事から「三日目」とあったのをそのまま用いた可能性も否定できません。しかし、資料を自分独自の構想で統一的に構成する著者の姿勢からすれば、この「三日目」も、著者が独自の意味をこめて用いていると見るべきでしょう。
 すると、「三日目」という表現を聞いて、まず思い浮かぶのは、イエスの復活のケリュグマにある「三日目」との重なりです。「三日目に」はイエスの復活を告知するケリュグマに含まれており(コリントI一五・四)、著者は水がぶどう酒に変えられた出来事を復活の「しるし」としていることを示唆しています。「三日」が復活に関わる日数であることは、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」(二・一九)というイエスのお言葉にも現れています。

さらに、一章(二九、三五、四三節)に三回続く「その翌日」という表現(これで出来事は四日にわたることになります)とこの「三日目」を合わせて、一章一九節〜二章一二節を七日間に起こった一連の出来事を語るひとまとまりとし、それをイエスの登場を物語る七日間と見て、この世からの退場を物語る受難週の七日間(一二章一節以下)と対応させているとする見方もあります。しかし、ヨハネ福音書の受難物語には、共観福音書のようにエルサレムにおける最後の一週間という明確な期間を重視する傾向はないので、これを著者の構想とするにはやや無理があります。そのような構造を読み取ることは、読み方の一つとして意味のあることですが。

 カナは新約聖書ではヨハネ福音書だけに出てくる地名で、その所在は現在では確定できませんが、ガリラヤ湖から西へ約20キロほどのところにあったと見られています。ヨハネ福音書は、イエスの働きをエルサレム中心に描いているので、ガリラヤでの働きは、とくにそれがガリラヤでのことだと断り書きをつける傾向があります(四・四六参照)。ここもその一例であると見られます。ただ、フェニキヤのカナと区別するために「ガリラヤのカナ」と呼ばれているとする見方もあります。

ガリラヤでのイエスの働きを報告することが少ないヨハネ福音書において、カナで行われた「しるし」が二つ(ここと四・四六以下の王の役人の息子)も取り上げられているのは、「ガリラヤのカナ出身のナタナエル」(二一・二)というヨハネ福音書だけに登場する弟子と関係があるのではないかとも見られますが、確かなことは分かりません。

 「ガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた」(一節)とあります。ヨハネ福音書ではマリアという名は出てきません。ここと十字架の場面(一九・二五)で、すなわちイエスの公的活動の初めと終わりに、「イエスの母」として登場するだけです。なお、婚礼には夫婦二人で出席するのが原則ですから、ここで父親が言及されていないのは、この時にはヨセフは亡くなっていたことを示唆していることになります。
 「イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(二節)。イスラエルでは婚礼は重視され、ラビも婚礼に参加するために律法教授の義務から解放され、断食などの規定も適用されなかったほどです。婚礼には、地域の名士としてラビも招待されました。この婚礼がイエスの家の親族の婚礼であったので、母とイエスが招かれた可能性もありますが、弟子も招かれていることからすると、イエスはラビとして招かれたのでしょう。

 ぶどう酒が切れたので、母はイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた、「婦人よ、それがわたしとあなたに何の関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」。(三〜四節)

 婚礼の宴の最中に、用意したぶどう酒がなくなります。当時この地域の習慣では、婚礼の宴は数日、ときには七日にわたって続きました。宴の途中でぶどう酒が切れることは、客を招待した側にとっては恥となります。婚礼の家の苦境を察した母はイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と知らせます(三節)。母はイエスに、この苦境を救うための何らかの行動を期待したのでしょう。それに対してイエスは母に「婦人よ、それがわたしとあなたに何の関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」と言われます(四節)。

原文は「わたしとあなたとは何の関わりがあるのですか」と訳すことも可能です。多くの現代語訳はこの意味に理解して訳してきました。この言い方は、相手からの働きかけを拒否して、「そっとしておいてくれ」とか「かまわないでくれ」という気持ちを現す旧約聖書以来の表現です(列王記上一七・一八、マルコ一・二四など)。しかし、ここでは「ぶどう酒がなくなったことは、わたしとあなた(の二人)に何の関わりがあるのですか」と理解する方が自然であると見られます。NRSV,新共同訳、岩波版小林訳もこの線で理解しています。こう訳しても、断りの気持ちの表現であることに変わりはありません。

 「それ(ぶどう酒がなくなったこと)がわたしとあなたに何の関わりがあるのですか」という表現で、イエスは母の求めを断っておられます。そして、その理由として、「わたしの時はまだ来ていない」からだと言われます。イエスは初めから「わたしの時」を目指して歩んでおられることが、この最初のしるしの物語から明らかにされます。
 イエスは、ご自身が父から与えられた使命を果たすことになる決定的な出来事が起こる時を「わたしの時」と呼んでおられます(ここと七・六、八)。いよいよその時が迫った時には「この時」と呼んでおられます(一二・二七)。そして、福音書の著者はその時を「イエスの時」と呼んで、物語を進めます(七・三〇、八・二〇)。それは、イエスが十字架につけられ復活する出来事を指しています。この福音書では、十字架につけられて地上から上げられることと、復活によって栄光の座に上げられることが重なって、二重の意味で「上げられる」時と呼ばれています。

「わたしの時」という表現はマタイ二六・一八にも出てきます。この事実は、この句がヨハネ福音書の著者による創作ではなく、イエスの口から出た言葉の伝承であることを示しています。ヨハネ福音書は、この句を鍵としてイエスの物語を構成している点に特色があります。

 イエスは、父から与えられた時が来るまで、自分からは動こうとはされません。それがたとえ母親からの依頼でも、人からの指示で行動されることはありません。そのことは、「婦人よ」という呼びかけにも示されています。イエスが神の霊を受けて神の子としての立場で公の活動を始められた以上、すべての人間関係は神との関係に従属しなければなりません。そこでは母も、神の前に立つ一人の女です。神との関係があらゆる人間関係に優先することは、共観福音書では「わたしよりも父や母、息子や娘を愛する者はわたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)という語録で語られていますが、ヨハネ福音書では、母マリアに対するイエスご自身の態度で描かれていることになります。

水がぶどう酒に変わる

 母は召使いたちに言った、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。 (五節)

 共観福音書では、助けてくださいという切なる願いに対して、イエスが拒否の態度を示されても、なおイエスへの信頼を貫いて、その信仰をほめられたという物語があります。ヨハネ福音書では、同じ信仰の姿が、一人の女性としての母マリアの態度で語られていることになります。

共観福音書では僕を癒してもらった百人隊長(マタイ八・五〜一三)と娘を癒してもらったカナンの女(マタイ一五・二一〜二八)が典型的な例です。前者の場合も、イエスは最初百人隊長の願いを断っておられると理解すべきことについては、当該箇所の講解(拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』121頁)を参照してください。

 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二ないし三メトレテスまで入るものであった。(六節)

一メトレテスは約39リットルですから、二ないし三メトレテス入る水がめは、一〇〇リットル前後の大きな水がめになります。そのような大きな水がめが六つも置いてあったのです。これは当時の家庭では異様に大きな貯水量です。著者はそれを「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」と説明します。これは、宗教的な清めの習慣がない異邦人の読者を念頭に置いた説明です。当時の「ユダヤ人」(ユダヤ教徒)は、ハラカ(口伝伝承による細則)によって、食事の前には手を、市場から帰宅した時には全身を、またその他の器具などを、水で清めることが求められていました。異邦人との接触から受ける汚れを恐れて、手や身体、食器や寝台まで水で洗って清めたので、多量の水が要ったのです。この点について、やはり異邦人を対象にして書かれたマルコ福音書(七・三〜四)は、この習慣を丁寧に説明しています(ユダヤ人向けの福音書であるマタイ福音書は、分かりきったこととしてマルコの説明を省略しています)。

 イエスは召使いたちに言われた、「水がめを水で満たしなさい」。すると、召使いたちは縁まで満たした。 8 イエスは彼らに言われた、「さあ、それを汲んで世話役のところに持って行きなさい」。そこで、召使いたちは運んだ。(七〜八節)

 イエスは召使いたちに、「水がめを水で満たしなさい」と言われます。すると、召使いたちは、母マリアが言った通りに、この不思議なイエスの命令に黙って従い、水がめの縁まで水を満たします(七節)。 イエスは彼らに言われます、「さあ、それを汲んで世話役のところに持って行きなさい」。そこで、イエスの言いつけ通りに召使いたちは運びます(八節)。ここで奇跡が起こります。水がめから汲んで運んだ水が宴席ではぶどう酒に変わっていたのです。しかも、それまでのぶどう酒よりもさらに美味なよいぶどう酒に変わっていたのです。

 世話役はぶどう酒に変わった水を味わって、それがどこから来たのか知らなかったので ― 水を汲んだ召使いたちは知っていたのだが ― 、花婿を呼んで言います、「人はみな、はじめによいぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものです。あなたはよいぶどう酒を今まで取って置いたのですか」(九〜一〇節)。

世話役の言葉の最後の部分は、底本では「取って置いた」という平叙文になっています。ギリシャ語では疑問文も同形なので、疑問文と理解することも可能です。ここでは驚きを表現するために疑問文に訳しています。主語の「あなた」は強調されているので、「あなたという人は、よいぶどう酒を今まで取って置いたのですか」と驚き呆れていることになります。

 物語はここまでです。福音書はどのようにして水がぶどう酒に変わったのかは説明しません。水がめの中で水が全部ぶどう酒に変わっていたのか、それとも、水がめの中は水のままだが、運んだ分だけが変わったのか説明しません。それは、この物語を信仰によって受け取るわたしたちの理解に委ねられています。この点について、またこの物語の「最初のしるし」としての象徴的意義については、すぐに以下の諸項で詳しく述べることになりますので、先にカナの婚宴の物語が終った「その後」の物語の進行に触れておきます。

 その後、イエスと母、兄弟たち、弟子たちはカファルナウムに下って行き、そこにしばらく滞在した。(一二節)。

 ガリラヤ湖畔のカファルナウムは海抜下二〇〇メートルにあり、ガリラヤ中央の山地にあるカナからは(坂道を)「下って行く」ことになります。共観福音書によると、イエスの家はカファルナウムにありました(マタイ四・一三)。ヨハネ福音書も、イエスの一行が「カファルナウムに下って行き、そこにしばらく滞在した」と書くことで、イエスのガリラヤでの活動の拠点がカファルナウムにあったことを示唆しています。しかし、この福音書はガリラヤでのイエスの住居とか活動の範囲や順序には興味を示していません。あくまでエルサレムからの視点でイエスの活動を描いています。

最初の「しるし」

 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(一一節)

 カナの婚宴の物語の最後に、著者はこの出来事の意義を示すまとめの文をつけています(一一節)。この文は、イエスが水をぶどう酒に変えられた出来事を、著者が「しるし」と意義づけ、イエスが「彼の栄光を現された」出来事としていることを示しています。では、「しるし」とは何でしょうか。
 たとえば、交通信号の赤色は「止まれ」という社会規範を指す記号です。社会規範(命令)そのものは目に見えませんが、赤という色がその規範を目に見える形で指し示しているのです。世の中にはそのような記号が満ちています。ヨハネ福音書は、そのような記号として行われる奇跡を「しるし」と呼びます。イエスが行われる奇跡は、目に見えないイエスの本質を指し示す記号であるという主張です。
 そのことはすぐに「イエスは(このしるしを行って)彼の栄光を現された」という文で説明されます。イエスとは誰か、どのような方か、イエスの本質はこの福音書がその全体で繰り返し主張する主題です。すなわち、イエスは神と共にいます永遠のロゴスが受肉した方であり、父から世に遣わされた方、神の子、他に同質の者はない神の独り子であるというのが、この福音書が主張するイエスの本質です。そのイエスの神的本質は「栄光」と呼ばれます。目に見えないその栄光、われわれと同じ人間の姿の中に隠されているイエスの神的本質を現す出来事が「しるし」なのです。
 交通信号の赤を無視して止まらない運転者は処罰されます。一方、路上に赤い物体があるのに止まらないからといって処罰されることはありません。路上の赤い物体は記号ではないからです。しかし、交通信号の赤は記号です。その記号が指す社会規範を無視したことが処罰されるのです。そのように、世の中には多くの奇跡があり、人々は奇跡に驚き、自分の利益になる奇跡を追い求めますが、その中で、イエスが行われる奇跡はたんに人を驚かせ利益を与える不思議な出来事ではなく、イエスの神的本質(栄光)を指し示す「しるし」(記号)であると、この福音書は主張するのです。したがって、この「しるし」を無視して、イエスをそのような神的本質の方と信じないことは神に対する不信仰とされ、「いのち」から切り離される結果を招きます。この「しるし」を見て、イエスをそのような神の子と信じる者が「いのち」を受けるのです(二〇・三〇〜三一)。
 イエスの奇跡にこのような「しるし」としての意義を認めるか、認めないでたんに利益を与える不思議な現象として受け取るかの違いは、後で六章のパンの奇跡のところに出てきます。イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人に食べ物をお与えになった後、湖の対岸に立ち去られます。イエスを探し求めて来た群衆に、イエスは言われます。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(六・二六)。群衆は「パンを食べて満腹し」、このような不思議な力で自分たちの願いを満たしてくださるイエスを慕い求めて探しに来ます。彼らは、その出来事を「しるし」として受け止め、その出来事が指し示すイエスの神的本質を信じたから、イエスのもとに馳せ参じたのではないのです。
 それに対して、この「しるし」を見て、「弟子たちはイエスを信じた」のです。すなわち、弟子たちはイエスの神的本質を受け入れ、イエスをそのような方と信じたのです。弟子たちはすでにイエスを聖書の預言を成就する方であると信じています(一・三五〜五一)。この「しるし」を見て、さらにイエスをこの福音書が主張するような神的本質の方であると信じるようになります。この福音書は、このような信仰を求めているのです。
 ところで、イエスの神的本質とか栄光というのは、復活されたキリストとしての栄光です。地上の人間イエスが、永遠の神の御子の受肉であるというのは、イエスが復活してキリストとなられたという使信を逆方向に言い表したものに他なりません。受肉信仰は逆方向の復活信仰です。したがって、イエスの奇跡がイエスの神的本質を指し示す「しるし」であるということは、それが復活者キリストを指す「しるし」であると言っていることになります。このように理解すると、「しるし」という言い方は、「福音書の二重性」のヨハネ福音書独自の表現であることが見えてきます。
 「福音書の二重性」というのは、地上の人間イエスを語るという仕方で、復活者キリストを告知しようとする福音書の性格から、そこで語られるイエスの姿に人間イエスと復活者キリストが重なって語られているという語りの性格です。ヨハネ福音書において、「わたしは」と語られるイエスの言葉は、すでに復活者キリストの言葉と区別しがたく重なっていますが、イエスの奇跡のわざについては、「しるし」という仕方で地上のイエスが復活者キリストに他ならないことが指し示されることになります。

ヨハネ福音書の象徴言語

 イエスが行われた奇跡は、悪霊を追い出し病人を癒される働きが大多数であって、水をぶどう酒に変えるという奇跡は特異な奇跡であると言わなければなりません。このような特異な奇跡を「最初のしるし」としてイエスの地上の働きの最初に置いたところに、この福音書の特殊な性格がよく出ています。
 水をぶどう酒に変えるという出来事を物語ることによって、この福音書はイエスによって到来した霊的な次元の出来事を語ろうとしています。ここでは、水もぶどう酒もその霊的次元の出来事を語るための象徴です。だいたい、霊の世界のことは直接に言語で語ることはできないので、比喩とか象徴を用いて語らざるをえません。共観福音書において、イエスは「神の国」という霊的・終末的現実を多くの比喩を用いて語られましたが、ヨハネ福音書は著者の多様な宗教的伝統を背景にもつ独自の仕方で、象徴を用いて自分の使信を語ります。水とぶどう酒だけでなく、光と闇、羊飼いと羊、パンを食べる、誕生と死、目が見えないと目が見えるなど、この福音書に出てくる多くの用語は、霊的な事柄を語るための象徴言語なのです。このような象徴言語をもって霊的真理を語り出そうとするにあたって、著者は最初に典型的な象徴言語による物語を置くのです。
 では、水をぶどう酒に変えるという象徴言語をもって著者は何を語ろうとしているのでしょうか。象徴言語で語られる物語を理解するためには、用語である象徴について語る側と聴く側にある程度の共通の理解がなければなりません。まず、この福音書が異邦人環境の中で成立したことを考えますと、水をぶどう酒に変えたディオニュソスの神話が背景になっていることが考えられます。当時のヘレニズム世界では、ギリシア神話は諸民族の間に広く浸透し、有名なディオニュソス神話は誰もがよく知っていたと考えられます。誰でも水がぶどう酒に変わった物語を聴くと、この神話を思い起こしたことでしょう。

ディオニュソス神話については、エリアーデ『世界宗教史』T巻第十五章「ディオニュソス、あるいは再び見いだされし至福」を参照してください。日本にも水が酒に変わったという養老の瀧伝説があり、神話の伝播という視点からも興味深い事実です。

 しかし、著者はこのディオニュソス神話を下敷きにして何かを語ろうとしたのではありません。ディオニュソスは豊穣の神です。著者は、水をぶどう酒に変えたイエスの奇跡によって、イエスを何らかの意味で、人生に豊かな実りをもたらす神として異邦世界に示そうとしたのではありません。たしかに、結果としてキリスト信仰は不安や悲しみを喜びに変える力がありますから、このような理解を排除する必要はありません。しかし、著者の強いユダヤ教的背景を考えると、著者がまず直接この物語で語ろうとしたことは別の所にあるとしなければなりません。
 旧約聖書では、ぶどう酒は人の心を喜ばせる神からの賜物であり(詩編一〇四・一五)、とくに終わりの日の救いを祝う祝宴において無償で賜る賜物です(イザヤ二五・六、五五・一)。クムラン教団でも、メシアの到来を祝う食卓でパンとぶどう酒が用いられていました。著者は、律法支配の時代が終わって、イエスと共にこのような終末的な救済の日が来ていることを、水がぶどう酒に変わるという象徴で表現しようとしたと考えられます。
 水は実に様々な意義を担った象徴です。しかし、ここでぶどう酒と対比して用いられるときは、結婚の祝宴では用いることができない無意味な存在として扱われています。いくら水があっても、婚宴の席でなくなったぶどう酒の代わりにはなりません。これは、ユダヤ教がもはや到来した新しい時代の要求に応えることができなくなっている事実を象徴しています。その水がユダヤ教のきよめの儀礼のためのものであったという説明も、この水がユダヤ教を象徴しているという理解を助けます。水が水がめの縁までいっぱいに満たされたことも、律法主義が行き着くところまで行き着いた当時のユダヤ教の姿を象徴しています。
 そのようなユダヤ教の到達点にイエスが現れて、終末時に実現されると預言されていた救いの祝宴を、その十字架と復活によって聖霊を与えることにより開いてくださるのです。ぶどう酒は、イザヤ(二五・六)が預言したように、終わりの日に実現する聖霊による神との交わりの喜びを象徴しています。イエスは婚宴の席で水をぶどう酒に変えることによって、結婚を祝福されるだけでなく、神の救済史において終末時の喜びの婚宴が実現していることを指し示しておられるのです。共観福音書では、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるであろうか」(マルコ二・一九)と語られたことを、ヨハネ福音書はこの象徴物語で指し示しています。「今は恵みの時、救いの日」(コリントU六・二)という喜びの告知が、この象徴物語に鳴り響いています。
 この奇跡物語の本体はイエスが水をぶどう酒に変えられたことにありますが、他にも様々な象徴語を読み取る試みがなされています。たとえば、この物語に登場する「イエスの母」と「召使いたち」の意義と役割をどう理解するかが問題とされます。ヨハネ福音書で「イエスの母」が登場するのは、ここと十字架の下(一九・二五)だけです。しかも両方で「マリア」という名は伝えられていません。イエスが「婦人よ」と呼びかけておられることからも、ここで「母」はイエスの母という特別の関係にある者としてではなく、女性一般を代表する者として登場しています。その母がイエスの神的本質を理解して、召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っているのは、「母」が教会を象徴していることを示唆しています。また、「ぶどう酒がなくなりました」と、世界の困窮を訴えて執り成しをするのも教会の姿を象徴します。
 「母」なる教会はイエスの神的本質を教えて、その僕たちにイエスの命令に従うように求めます。僕がイエスの言葉に従って、水を汲んで宴席に運ぶと、その水がぶどう酒に変わるのです。すなわち、福音のために働く僕たちは、人間の通常の言葉を用いて語りますが、聖霊が働く終末の場では、それが神との命の交わりを創造する神の言葉になるのです。わたしは個人的には、この奇跡物語においては、水がめの水がみなぶどう酒に変わっていて召使いたちはそれを運んだのではなく、水がめの中は水のままであるが、それをイエスの言葉に従って宴席に運ぶときにぶどう酒に変わったのだと理解しています。そう理解する方が、神の言葉の動的性格にふさわしいと感じるからです。神の言葉は、教義として固定できるものではなく、それに従う人間の行動の中で創造的な働きをするのです。
 その他、たとえばこの物語の「母」は創世記のエバと対応していて、エバがその不従順で失ったものを、「母」が従順によって回復していると読むことができるかもしれません。象徴は様々な意味を含むことができます。象徴物語は、読む者にその信仰に従って理解するように、説明なしで象徴語で語るままの姿で与えられています。しかし、このヨハネ福音書では、すべての象徴は最終的には復活者イエス・キリストと、そのキリストによって成った終末的・霊的現実(この福音書はそれを「真理」と呼んでいます)を指し示す象徴であることを忘れてはなりません。