第四章 来臨待望と黙示思想
―― ヨハネ黙示録における終末待望 ――
( 本章で書名のない引用箇所はすべてヨハネ黙示録の章節をさします。)
はじめに
前章(第三章「来臨待望の変遷」)で、エルサレム原始教団からパウロを経て、パウロ以後の時期に来臨待望がどのように変遷していったのかを概観しました。そこで見たように、パウロ以後の時期においては、コロサイ書・エフェソ書やヨハネ福音書のような、来臨待望にほとんど触れることなく、現在の霊的現実に集中する流れが表面に出てきますが、キリスト来臨への待望も底流として続いていたことが、テサロニケ第二書簡やヨハネ黙示録の存在によって確認されます。前章ではテサロニケ第二書簡によってこの底流の姿を見ましたが、今回はパウロ以後の来臨待望では代表的なヨハネ黙示録を取り上げます。第一節 ヨハネ黙示録の成立
成立場所
ヨハネ黙示録の成立事情で確実に分かっていることは、その成立地域です。本書は、著者ヨハネから「アジア州にある七つの集会」に宛てられた手紙の形を取っています(一・四)。事実、本書の前半部(二〜三章)には、アジア州の州都エフェソを筆頭に、アジア州の七つの都市の名があげられ、それぞれの都市にある集会の実情に即した勧告が、手紙の形式で書き送られています。 パトモス島は、ミレトス(エフェソから南へ40キロほどの都市)の西方50キロほどの沖合にある周囲約95キロの小島です。ローマ帝国はこのあたりの小島を政治犯の流刑地としていたとされています。
なお、ローマ属州の名称としては、正式には「アシア州」ですが、新共同訳もそうしているように、慣用に従い「アジア州」と表記します。
アジア州のパウロ系諸集会の成立については、拙著『パウロによるキリストの福音V』第一章第二節「エフェソでの活動」の中の「周辺地域への宣教活動」(44頁以下)を参照してください。この地域ではミレトスやコロサイにもパウロ系の集会があったことが知られています。ヨハネ黙示録がこの七つの集会に限定した理由は、推測の域を出ませんが、七という数字に完全数という象徴的な意義を担わせている著者が、七にこだわったからだと見ることができます。そのさい他の都市ではなくこの七都市が選ばれたのは、これらの都市が裁判所の所在地であって、ローマ帝国官憲の皇帝礼拝の圧力が強かったからだとする見方もあります(NTD)。あるいは小集会を格上げして独立集会として数えて七としたとか、著者が実際に関わりのあった集会が選ばれたと見ることもできます。
エフェソには、イエスの年若い弟子であったヨハネが晩年に移住してきて活動し、ヨハネ福音書を生み出すなど、この弟子を中心に「ヨハネ共同体」が形成されていたと考えられます。それで、ヨハネ黙示録がパウロ系諸集会とヨハネ共同体の両方にどのように関わるのかが問題になってきますが、「ヨハネ共同体」についてはその性格やパウロ系諸集会との関係が明確には分かりませんので、答えることが難しい問題です。この問題は後の「ヨハネ黙示録とヨハネ共同体」の項で取り扱いますが、いずれにせよヨハネ黙示録の存在は、ここに名をあげられたパウロ系諸集会があった地域に、熱い来臨待望があったことを証言しています。成立年代
ヨハネ黙示録の成立年代について最も古くて重要な証言は、一八〇年頃に書かれたエイレナイオスの『異端論駁』です。その中でエイレナイオスは、ヨハネがドミティアヌス帝(在位81〜96年)の終わりの頃、すなわち95年前後にパトモスで幻を見たと伝えています。他の時代だとする伝承もありますが、このエイレナイオスの証言が古代教父たちの一般的見解となり、エウセビオスも『教会史』でこの証言に従っています。著者ヨハネ
著者は自ら「ヨハネ」と名乗っています(一章一、四、九節)。ところが、「ヨハネ」という名はユダヤ人男性の間ではごく普通にある名前で、新約聖書にも多くの「ヨハネ」が登場します。洗礼者もヨハネですし、十二使徒の中にも「ゼベダイの子ヨハネ」がいます。それに、「イエスが愛された弟子」も、彼が指導した共同体が生み出した福音書が「ヨハネ福音書」と呼ばれていることから、「ヨハネ」という名であったことが推察され、普通そう呼ばれています。そこへ本書の著者ヨハネが登場します。それで、後の時代にこの四人の同名の人物(実際には洗礼者ヨハネを除く三人のヨハネ)が混同されて、複雑な「ヨハネ問題」を引き起こすことになります。以下論述の便宜上、十二使徒の中の一人であるゼベダイの子ヨハネを「使徒ヨハネ」、イエスが愛された若い弟子で、後にヨハネ福音書を生み出した共同体の指導者となった人物を「長老ヨハネ」、そして本書の著者を「預言者ヨハネ」と呼ぶことにします。ヨハネ福音書とその「著者」ヨハネについては、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解U』の附論『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』を参照してください。その附論で述べたように、この人物は彼が指導した共同体では「長老」と呼ばれていました。「イエスが愛された弟子」と「長老ヨハネ」は同一人物と見て、ここでは「長老ヨハネ」を用います。なお、ヨハネ黙示録の著者を「預言者ヨハネ」と呼ぶ理由は、後の「文書の性格」の項で扱います。
新約聖書の中にある「ヨハネ」の名を冠した五つの文書、すなわちヨハネ福音書と三通のヨハネの手紙およびヨハネ黙示録は、現代でも「ヨハネ文書」という呼び方で一つのグループとして扱われることが多いようです。古代ではこの「ヨハネ」の名を冠する五つの文書をみな「使徒ヨハネ」の著作として扱う傾向がありました。それは、形成期の教会が、正典として受け入れた文書を権威づけるために、使徒の著作だとする必要また願望があったからだと考えられます。ヨハネ黙示録も長らくヨハネ福音書と共に「使徒ヨハネ」の著述だとされてきました。 ヨハネ福音書とヨハネの手紙も、同一の著者かどうかが争われていますが、その用語も思想内容も同一線上にあり、同じヨハネ共同体において成立した文書として、「ヨハネ文書」という名でまとめることができます。しかし、ヨハネ黙示録もはたしてヨハネ共同体で成立したものかどうかは問題が残り、「ヨハネ文書」とは別に扱われるようになっています。ただ、ヘンゲルのように、黙示録を60年代末とし、福音書を90年代と見て、三〇年の隔たりと状況の違いから、両書が同一著者か、そうでなくても同じ共同体に属するものでありうると主張する研究者も
あります。ヨハネ黙示録とヨハネ共同体の関係は、次の項で改めて取り上げます。
ヨハネ黙示録とヨハネ共同体
パウロ系諸集会が活動したエフェソを中心とするアジア州の地域には、ヨハネ共同体も形成されていたことが知られています(拙著『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』参照)。ではパウロ系諸集会とヨハネ共同体がどのような関係に立っていたのかという問題は、ヨハネ「共同体」がどのような性格の共同体であったのかが確認できないので、難しい問題です。パウロ系諸集会はアジア州各都市で、監督とか奉仕者などを有する、ある程度組織化された集会の形態をとっていたと考えられますが、ヨハネ共同体はそれと競合するような別の集会や組織として活動したのではなく、指導者である「長老ヨハネ」(「イエスが愛された弟子」の晩年の呼び方)のカリスマ的な説教を慕う者たちの開かれた交わり《コイノニア》ではなかったかと推察されます(ヘンゲル)。この預言者集団は、ローマ軍によるエルサレムの徹底的な破壊を体験しているのではないかとも推察されます。一一章一〜二節に引用されている預言は、ユダヤ戦争の末期に神殿前庭がすでに占領され、ユダヤ人は内側の神殿域に立てこもって抗戦し、なおも神の奇跡を待ち望んでいた時期のものである可能性があるとされます。この預言者集団は、ローマ帝国の殲滅的な力を知っているようです。
ユダヤ戦争は多くのユダヤ人難民を生みました。その中で、パレスチナからエフェソなどアジア州諸都市に移住した難民も多くいました。ユダヤ人はすでにディアスポラとしてこれらの諸都市に暮らしていましたから、パレスチナからのユダヤ人難民が移住してきたのも了解できます。その移住の波の中には、預言者ヨハネのグループだけでなく、ヨハネ共同体を指導した「長老ヨハネ」とそのグループがあり、福音宣教者フィリポの群れも見られます(フィリポとその娘たちはアジア州に葬られたという伝承があります)。文書の性格
著者が使徒ヨハネでないことは、この文書の内容からも確認できます。著者は、天から降る都について、「都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(二一・一四)と書いていますが、「十二使徒」がエクレシアの土台とされるのは、使徒たちの時代からかなり時間が経った時期のことで、エフェソ書などの見方と同じです。流刑は貴族とか身分の高い者への刑だとされています。一般市民とか奴隷であれば鉱山などでの労役刑が課せられました(パトモスには鉱山などはないようです)。それで、このヨハネはエルサレムの名門貴族祭司階級の出身であるという見方の根拠ともされます(ヘンゲル)。
預言者ヨハネは、孤島パトモスで強烈な霊的体験を与えられます。それは様々な幻を伴う啓示体験であって、彼はそれを巻物に書き記して七つの集会に送るように命じられます(一・一一)。著者はそれを、パウロ以来指導的な立場の者が集会に語りかける形式として定着していた書簡の形で書き送ります。本書は、「ヨハネからアジア州にある七つの集会へ。・・・・イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように」という書簡の書き出しで始まり(一・四〜五)、「主イエスの恵みがすべての者と共にあるように」という書簡の結びの言葉で終わります(二二・二一)。本書は全体として、預言者ヨハネからアジア州にある七つの集会に宛てられた書簡です。本書での《エクレーシア》の用例は一〜三章に集中しており(二二・一六に一例)、すべて個々の集会 congregations を指しています。コロサイ書やエフェソ書に見られるような、単数形でキリストの民全体を指すような用例はありません。本稿では《エクレーシア》は「集会」と訳して用います。
最初に個々の集会の実情に即した警告と勧告の書簡が七つ置かれます(二〜三章)。その後(四章以下)、啓示の本体である「すぐにも起こるはずのこと」が多彩な幻によって語られます。この一人称で語られている書簡の本体部分(一・四〜二二・二一)の前に、本書の性格を説明するような、三人称で書かれた「序文」が置かれています(一・一〜三)。この「序文」は、預言者ヨハネの書簡が諸集会に回されて朗読されるさいに、第三者によってつけられた可能性が考えられます。この「序文」の最初にある「イエス・キリストの黙示」という句が本書の標題となり、「黙示」という語が本書の性格を決定的に表現する語となります。本書は、初期キリスト教における黙示文書の一つの実例であり、「黙示録」と呼ばれることになります。ユダヤ教黙示文書との関係
「黙示」と訳されている原語は《アポカリュプシス》です。《アポカリュプシス》という語は、覆いを取り除いて、覆いの下に隠されているものを顕すという意味の語です。「啓示」と訳してもよい語です。したがって、この語は「隠されているもの、秘密にされているもの」の存在を前提しています。この「隠されているもの、秘密にされているもの」が、宗教文書では《ミュステーリオン》(秘密、奥義、秘義)と呼ばれます。ユダヤ教黙示文書については、拙著『パウロによるキリストの福音T』369頁「黙示思想の成立」を参照してください。
典型的なユダヤ教黙示文書であるダニエル書と比較すると、それとの異同を通して、このヨハネ黙示録の性格がいっそう明確になると思います。まず、両者の成立の状況と執筆意図がたいへんよく似ています。ダニエル書は、前二世紀の半ばにセレウコス王朝のアンティオコス四世エピファネスが、支配領域のヘレネス化を強行しようとして、ユダヤ教を禁圧し、異教の神々を礼拝することを強要したとき、父祖以来の信仰に熱心な「ハシディーム」(敬虔な人々)がそれに抵抗して、激しい弾圧を受けます。その迫害の中にある信徒を励ますために、預言者的な信仰の人物が、迫害者に対する神の裁きと、信じ抜く者に対する救済の時が近いという「奥義」(神の御旨の中に隠されている計画)を書き記したものがダニエル書です。これは、これまでに見てきたように、ドミティアヌス帝の皇帝礼拝の要求に対する抵抗と迫害という状況でヨハネ黙示録が書かれたのと同じ状況であり、同じ目的であると言えます。黙示文書は、迫害や苦難の状況という場で生まれる思想であり文学です。著者はユダヤ教黙示思想に精通しているだけでなく、当時の古代世界の占星術的宗教や神話にも詳しい学識人で、その分野の伝承をも活用しています。ヨハネ黙示録の解釈にあたっては、この両方面を含む宗教史的背景が考慮されなければなりません。
何よりも両書は思想の枠組みが共通しています。両書とも、現在は神に敵対する勢力が力を振るって義人(神に所属する民)を苦しめているが、やがて直ぐに神が裁かれる時が来て、迫害者は裁かれ、義人は栄光を受けるという、同じ確信と待望で書かれています。すなわち、現在と将来という時間の枠組みを基本的枠組みとする思想であるという点で共通しています。時代の転換を語るのに、ユダヤ教黙示文書は「今の《アイオーン》」と「来るべき《アイオーン》」とか、よく《アイオーン》(時代)という用語を用いましたが、ヨハネ黙示録では《アイオーン》は、「永遠から永遠に」という慣用的な用法に出てくるだけで、時代の変換を示す用例はほとんどありません。しかし、現在の時代と来るべき時代の対立という構図は同じです。
このように、ヨハネ黙示録はユダヤ教黙示文書と同じ性格の文書と見ることができる面があります。しかし、性格が似ていることに目を奪われて、その内容に決定的な違いがあることを見逃してはなりません。