パウロ書簡 用語解説
パウロ書簡に用いられている主要な用語、および講解において用いられている特殊な用語の解説。人名や地名などの固有名詞は、神学的な意味がある場合以外は、省略する。ア行
愛(あい)
ギリシア語には愛を意味する用語として《エロース》、《フィリア》、《アガペー》の三つがある。パウロは、より高い価値への欲求とか性愛を意味する《エロース》と、友情のような人間の自然の情愛を指す《フィリア》は用いず、もっぱら日常のギリシア語では比較的用例の少ない《アガペー》だけを用いている。それは、ギリシア語訳旧約聖書で神の愛を指すのにほとんどこの語が用いられていたので、パウロが体験した神の愛を告白するのに自然にそうなったと見られる。その結果、《アガペー》という語には実に深くて豊かな霊的内容がこめられることになる。その内容については、拙著福音講話集『キリスト信仰の諸相』の第三部第二講「十字架の愛・聖霊の愛ーパウロの福音における愛」を、《アガペー》については第三講「愛はすべてに勝つ――新約聖書における《アガペー》」を参照のこと。アイオーン
ギリシア語の《アイオーン》はもともと「きわめて長い時間、永遠」を意味し、ギリシア語旧約聖書(七十人訳ギリシア語聖書)ではヘブライ語の《オーラーム》(永遠)の訳語として用いられている。また、比較的長い時間区分、すなわち「時代」という意味でも用いられ、「このアイオーン」とか「来るべきアイオーン」という形で用いられる。この語は、ギリシア語訳旧約聖書でも用いられているが、とくに黙示思想において重要な意味を持つようになる。黙示思想では、「神は二つのアイオーンを造られた」とされ、現在の悪が支配する「この(現在の)アイオーン」と、終末的な審判と宇宙的な破局を経て到来する「来るべきアイオーン」を峻別する。義人または神の民は「この(現在の)アイオーン」では苦しめられるが、「来るべきアイオーン」では神の栄光にあずかるとされる。パウロは黙示思想を超えているが、黙示思想の用語とか黙示思想の枠組みを用いて福音を語っており、とくに現在の世界を「このアイオーン」という表現で指すことが多い(ローマ一二・二、コリントI一・二〇、二・六、三・一八、コリントU四・四など)。ただ、「このアイオーン」は終末にいたるまでの世界の全体を指しているので、《コスモス》の意味に近づき、「この世」と訳されることが多い。後のグノーシス思想においては、実体化されて霊界における人格的存在という意味を持つようになるが、その意味で用いられている可能性があるのは新約聖書ではエフェソ二・二だけである。贖い(あがない)
旧約聖書では「贖い」には二つの意味がある。一つは、捕虜や奴隷となった者を身代金を支払って買い戻すこと、あるいは他人の所有に渡った資産を買い戻すことである。この買い戻す立場にある者を「贖う者」と呼ぶ。この場合の「贖い」はほぼ「解放」と同じ意味になる。預言者において、ヤハウェは「イスラエルを贖う者」と呼ばれている。イエス
ユダヤ人の間によく見られる男性の個人名《イェホーシューアー》またはその短縮形である《イェーシューアー》の日本語表記。どの「イエス」であるかを特定するのに、福音書では出身地をつけて「ナザレのイエス」と呼ばれているが、パウロ書簡にはこの表現は出てこない。パウロ書簡では大部分「イエス・キリスト」、「キリスト・イエス」、「主イエス」、「主イエス・キリスト」というように、「キリスト」とか「主」《キュリオス》という称号をつけて、復活し、メシヤとして宣べ伝えられているイエスを指している。異言(いげん)
ギリシア語原語《グロッサ》は「舌」を意味する語。パウロ書簡には「《グロッサ》で語る」という表現がよく出てくる(コリントT一四章など)。それは舌が直接神の霊にコントロールされて、本人が日常語ることがない言語で語り出す現象を指し、聖霊の《カリスマ》(賜物)の一つとされている(コリントT一二・一〇)。そうして語り出された言語は、語る本人には理解できない言語であるが、聞いている人に理解できる場合と理解できない場合がある。理解できない言語の場合は、理性にも実を結ぶように、それを解釈する霊の賜物を求めるように勧められている(コリントT一四・一三)。ルカは、ペンテコステの日に弟子たちが「御霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出し」、それを聞いた様々な地方の人々が理解したと報告している(使徒二・一〜一三)。また、新たに信仰に入った人たちが聖霊を受けて「異言」で祈ったと報告している(使徒一〇・四四〜四六、一九・六)。異言は初期の集会に広く見られる賜物《カリスマ》であるが、最近のペンテコステ運動において復興している。イスラエル
旧約聖書では本来、ヤコブの十二人の息子たちを名祖とする十二部族の連合体を指す。ヤコブが「イスラエル」と呼ばれていたので(創世記三二・二八)、この連合体は「イスラエル」と呼ばれることになる。この連合体は、シナイ山でモーセを通して与えられた「トーラー」(律法)によってヤハウェ神との契約を結び、ヤハウェの民となり、父祖アブラハム・イサク・ヤコブに与えられた約束、すなわちカナンの地を与えるという約束を受け継ぐ民であると自覚していた。後にこの民が王国を形成し、それが南北二つの王国に分裂したとき、北王国が「イスラエル」と名乗った(パウロには北王国イスラエルを指す用例はない)。異邦人(いほうじん)
ギリシア語では「諸民族」。ユダヤ人から見たユダヤ人以外の諸民族を指す語。ユダヤ人は自分たちだけが唯一のまことの神の律法を与えられ、それに従って生きる浄い民であり、他の諸民族は汚れていると考えていた。異邦人が神の民となるには、ユダヤ教に改宗してユダヤ人となること、すなわち割礼を受けてモーセ律法を順守することが必要とされた。パウロが自分を「異邦人への使徒」(ローマ一・五)とするのは、たんにユダヤ人以外の民族に福音を宣べ伝えるために召された使徒という意味ではなく、異邦人が異邦人のままで、すなわち割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくても、キリストを信じることによって神の民となるという福音の原理を確立するために召された使徒という意味である。なお、パウロ書簡では「まずユダヤ人に、そしてギリシア人にも」という形で、「ギリシア人」で異邦人を代表させる表現がよく用いられる。この表現については「ギリシア人」の項を参照。永遠の命(えいえんのいのち)
旧約聖書には死後の命という意味での「永遠の命」という思想はない。従って、モーセ五書だけを聖書とするサドカイ派は死後の命とか復活を信じていない。捕囚後に成立したファリサイ派において、義人は死後も滅びずに存続するという思想が出てくる。そして、さらに後期の黙示思想において初めて、「来るべきアイオーンにおける命」という意味で「永遠の命」という表現が現れる(ダニエル書一二章)。福音書に出てくる「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」という質問(マルコ一〇・一七)は、この「来るべきアイオーンにおける命」を受け継ぐには現在何をする必要があるのかという、当時のユダヤ教の基本的な問いを代表していると見られる。エクレシア
ギリシア語原語《エクレーシア》は、「呼び出された者たち」という意味の語で、本来《ポリス》(都市国家)で議決のために招集された市民集会を指した。ギリシア語訳旧約聖書はこの語を、「イスラエルの民」を指すヘブライ語の《カーハール》(会衆)の訳語として用いた。それで、福音によって集められたキリストの民を新約聖書は《エクレーシア》と呼ぶことになる。パウロはこの語を、個々の集会を指して「誰それの家にある《エクレーシア》」とか「どこそこの地域にある《エクレーシアイ》(複数形)」という形で用いる一方、その性格とか本質を念頭においてキリストに属する民全体について語るときもある。個々の《エクレーシア》を指す訳語としては「集会」がよいと考えられるが、キリストの民全体を指す場合は適当な訳語がないので、(本講解では)ギリシア語を日本語表記で「エクレシア」としてそのまま用いる。普通、日本語訳聖書では、個々の集会を指す場合も民全体を指す場合も「教会」と訳されている。「エクレシア」について、とくに「神のエクレシア」という表現について、またその訳語について、詳しくは拙著『パウロによるキリストの福音U』第二章第一節「神のエクレシア」の中の「《エクレーシア》という語」および「神の《エクレーシア》」の項を参照。奥義(おくぎ)
ギリシア語《ミュステーリオン》の訳語。このギリシア語は英語の「ミステリー」の語源となった語で、本来「隠されたもの、秘密」を意味する。ヘレニズム世界の宗教用語としては、救済のためにあずかる「秘密の儀式」(ふつう「密儀」と言われる)を指した。ヘレニズム期に成立したユダヤ教黙示思想では、天に隠されていたが特別の選ばれた人物に啓示される秘密の知識(エノク書など)とか、神の御旨の中に隠された終末についての「秘密の御計画」という意味で用いられた(たとえばダニエル二章、新共同訳では「秘密」と訳されている)。カ行
型(かた)/予型 (よけい)
《テュポス》(英語の「タイプ」の語源)の訳語。パウロは《テュポス》という語を(副詞形を含めて)6回用いているが、その中でコリントI六章の六節と一一節では、荒れ野におけるイスラエルの民の不従順を「時の終わりに直面しているわたしたちに警告するため」の「前例」(新共同訳)という意味で用いている。そして、ローマ書五章一四節では、アダムを来るべき方(キリスト)の「型」《テュポス》としている(新共同訳はここでは「前もって表す者」と訳している)。このような例から、旧約聖書の中の人物や出来事や祭儀などを、キリストとキリストにおける救いの出来事を「予め指し示す型」と見る見方、すなわち旧約聖書の「予型論的解釈」が出てくることになる。割礼(かつれい)
男性性器の包皮を手術で切除する儀式。古代諸民族によく見られる習慣であるが、イスラエルではヤハウェとの「契約のしるし」として重要な意味をもった(創世記一七章)。とくに捕囚期と捕囚以後においては、異教徒からユダヤ教徒を分かつしるしとして重視された。それで、異教の支配者がユダヤ教を禁圧しようとするとき割礼禁止という形をとり(セレウコス朝のアンティオコス四世やローマ皇帝ハドリアヌス)、ユダヤ人はこれに命がけの抵抗をして、マカベヤ戦争やバルコクバ反乱となった。神の義(かみのぎ)
「義/義とする」の項の中の【神の義】を見よ。からだ/体/身体(からだ)
死後の世界とか内面的な悟りなどよりも地上の現実の生活に焦点をあてて信仰を取り扱った旧約聖書の伝統を受け継ぎ、パウロの信仰は「具体的」である。すなわち、体《ソーマ》を具えた人間全体の変革と救済を扱っている。カリスマ
「賜物」の項を見よ。義(ぎ)/義とする(ぎとする)
「義」《ディカイオシュネー》という名詞は、新約聖書での用例九一回の中パウロ文書に五七回(その中、ローマ書に三三回)用いられ、「義とする」《ディカイオー》という動詞は、新約聖書での用例三九回の中パウロ文書に二五回用いられていて、パウロの福音理解の鍵をなす用語であることをうかがわせている。【義】
旧約聖書では神および人の正しい振舞い、とくに契約に忠実な行為が「義」《ツェデカー》と呼ばれている。神は義であり、人に義を行うことを求められる。すなわち、契約の言葉(律法)を忠実に守り行うという意味の義が求められている。神はご自身の義によって世界を裁かれる(この意味の《ツェデカー》は、新共同訳では「正義」と訳されている)。一方、神は契約に忠実に民を救われるので、神の義は救いの賜物という形で現れ、義と救いが並行表現となる場合がある(イザヤ五一・五など)。ユダヤ教においては、神の律法を順守することが「義」であり、律法を順守する者が「義人」と呼ばれた。【義とする】
このことは「義とする」《ディカイオー》という動詞を用いても表現される。《ディカイオー》というギリシア語はもともと法廷用語で、旧約聖書のギリシア語訳でも、この動詞はおもに神の裁きとの関連で用いられ、「罪に定める」の反対として、神が人を(神との関係において)正しい者として判決し扱われることを指している。聖書においては裁くのは神であり、人は裁かれる立場であるから、能動態では神が主語であり(神が人を義とする)、人が主語の場合は必ず受動態で用いられる(人は神によって義とされる)。人を主語とする能動態の用例はない。【神の義】
このようにパウロにおいては、人間は律法順守や道徳的・宗教的精進などの自分の働きによって自分を義とすることはできないのであるから、人は神の働きによってはじめて義とされることになる。パウロ書簡(とくにローマ書)では、神が人を義とする働きが主題となっており、人を義とする神の働きが「神の義」と呼ばれている。福音の中に啓示されたのは、そのような「神の義」である(ローマ一・一七)。希望(きぼう)
「希望」(名詞)および「希望する」とか「望む」(動詞)は、新約聖書では圧倒的にパウロ文書(とくにローマ書)に多く用いられている。パウロにおいて希望は信仰と愛と並んで、キリストにある者に与えられているもっとも尊い宝とされている(テサロニケT一・三、五・八、コリントI一三・一三)。救済史(きゅうさいし)
神が選ばれた民の中で人間の救済のために成し遂げられた働きの歴史を指す。キリスト出現までは神が選ばれたイスラエルの民の中でなされてきたが、福音はそのイスラエルの歴史の中での神の働きを準備と見て、イエス・キリストの出来事が人間の救済にとって決定的な神の働きであり、イスラエルの歴史とそれを証言する旧約聖書を成就する出来事であると宣べ伝える。そのキリストの出来事の結果、神の救済の働きはキリストの出来事を告知する福音の宣教によって世界の諸民族に至り、救済史はすべての民族を包含するものになる。ギリシア人(ぎりしあじん)
パウロは異邦人、すなわちユダヤ人以外の人たちを「ギリシア人」と呼ぶことが多い。当時ローマが支配していた地中海世界は、アレキサンドロスの東征以来、ギリシアの文化が広く行き渡り、ギリシア語が共通語として用いられた。ギリシア人以外の民族の人たちも、ギリシア風の都市に暮らし、ギリシア語を話し、ギリシア的な思想と生活の人たちが多かった。それで、ユダヤ人は神に選ばれた特別の契約の民である自分たち以外の民族を指すときに、「ギリシア人」という語で代表させる場合が多かった。パウロもこのようなユダヤ人の視点から、神の救済の働きを語るとき、「まずユダヤ人に、そしてギリシア人にもまた」という形の二分法で語ることが多い(ローマ一・一六など)。また、キリストにあってはユダヤ人と異邦人の区別はないことを語るとき、「ユダヤ人もギリシア人もなく」と表現する(ガラテヤ三・二八)。ただし、ギリシア人の宗教的傾向をユダヤ人と対比して語るときは、固有のギリシア人を指していると見られる(コリントI一・二二)。まれに「ギリシア人にも未開の人(バルバロス)にも」というギリシア人の視点からの二分法を用いる場合もある(ローマ一・一四)。キリスト
ギリシア語の《クリストス》を日本語で表記した語。《クリストス》は、旧約聖書で神から「油を注がれた者」を意味するヘブライ語の《マシアーハ》(日本語では「メシア」)のギリシア語訳である。《クリストス》というギリシア語も「油を注がれた者」という意味の語である。旧約聖書で《マシアーハ》は、油を注がれて王とか祭司、預言者として立てられた人物を指すが、捕囚後に成立したユダヤ教では、終わりの日に神から派遣されるイスラエルの救済者を指すようになっていて、その到来が待望されていた。初期の教団は、復活したイエスをユダヤ人に約束されていた「メシア」として宣べ伝えたが、ギリシア語を用いる教団は異邦人世界に復活したイエスを《クリストス》であると宣べ伝えた。したがって、《クリストス》は本来、神から霊を注がれた終末的な世界の救済者を指す称号である。グノーシス/グノーシス主義(ぐのーしすしゅぎ)
パウロにとって「知識」は聖霊の賜物であり尊いものであるが(コリントI一二・八)、他方「知識」に誇ることの危険も指摘される(コリントI八・一)。パウロ以後の時期では、自分の霊的知識を誇り、福音の単純な告知の言葉を軽視する傾向が出てきたので、「不当にも知識と呼ばれている反対論」を避けるようという警告がなされるようになる(テモテT六・二〇)。この「知識」のギリシア語原語が《グノーシス》である。クムラン文書(くむらんぶんしょ/くむらんもんじょ)
一九四七年に死海北西岸のクムランで発見された写本群の総称。「死海文書」ともいう。聖書正典の写本、外典と偽典、注解書、および独自の宗団文書を含む。歴史家のヨセフスは、イエスの時代のユダヤ教には、ファリサイ派、サドカイ派の他にエッセネ派があったことを伝えているが、クムラン文書はエッセネ派の文書であると見られる。契約(けいやく)
旧約聖書においてヤハウェとイスラエルの関係は「契約」《ベリース》というヘブライ語で表現された。これは古代世界での君主と臣下の保護と服従の契約関係をモデルとしており、シナイ契約に典型的に見られるように、契約規定(律法)に対する服従がヤハウェの民としての祝福を受ける条件とされた。現代の「契約」のように双方が対等に義務を負う契約とは性格が違う。その《ベリース》を七十人訳ギリシア語聖書が《ディアセーケー》というギリシア語で訳していたので、初期の教団はイエス・キリストの十字架の復活の出来事によって生じた新しい神と民の関係を「新しい《ディアセーケー》」(新しい契約)と呼んだ(ルカ二二・二〇)。サ行
死者の復活(ししゃのふっかつ)/死人の復活(しにんのふっかつ)
「復活」の項を見よ。使徒(しと)
ギリシア語《アポストロス》は「遣わされた者、使者」の意。イエスも父から遣わされた者であり、信徒各人もキリストの証人として遣わされた者であるが、初期の教団では、福音を宣べ伝え、神の言葉によって教団を指導するために任命された特定の役職を指すようになった。使徒職は、聖霊の賜物によって与えられる役職であり、その権威は個々の集会を超えて教団全体に及び、預言者とか教師の上位にある、教団最高の役職とされた(コリントI一二・二八)。パウロの時代では、使徒の範囲は流動的で、パウロ自身は、復活の主イエスを見て、その証人として世に遣わされて働いている者が使徒であるとしている(コリントI九・一、一五・八、ローマ一六・七)。しかし、誰が使徒であるかについての基準は人によって異なり、パウロが使徒であることを否定する者もあったので、パウロは自分が使徒であることを激しく争わなければならなかった(ガラテヤ書、コリントU)。パウロの後、福音書の時代になると、使徒は地上のイエスの直弟子であったとされる「十二人」に限られるようになる(使徒一・二一以下)。主(しゅ)
ギリシア語は《キュリオス》。このギリシア語は本来、主人、所有者、支配者などを意味し、世俗的には奴隷の主人、家などの所有者、地域の支配者などを指し、宗教的には神々を指して用いられた。旧約聖書のギリシア語訳では(ギリシア語を用いるパレスチナのユダヤ人の間でも)、神またはヤハウェを指すのに用いられ、新約聖書においても(パウロを含め)この用法は踏襲されている。十字架(じゅうじか)
新約聖書では本来イエスが処刑された十字架刑を指す(十字架刑の実際については、『マルコ福音書講解U』 88「十字架」を参照)。しかし、パウロは「十字架」という名詞を、イエスの十字架刑という歴史上の出来事を指すのに用いることはない。また、自分が背負う苦難を象徴するのに用いることもない。自由(じゆう)
「解放する」という動詞から、解放された状態を指す「自由」(名詞)や「自由な」(形容詞)が派生している。したがって、「解放」と理解するほうが適切な場合もある。この語群は、新約聖書では圧倒的にパウロ文書に多く出てくる(とくに律法からの解放を主張するガラテヤ書とローマ書に多い)。奴隷が解放されて自由人となることを比喩として用いて、罪の支配から解放されることが説明され(ローマ六・一五〜二三)、キリストにある者は律法の軛から解放されて自由であること(ガラテヤ五・一)、罪と死の支配から解放されていること(ローマ八・二)が強調される。パウロにおいて救済は罪や死の支配力から「解放される」ことであり、また、それが「律法と無関係の神の義」によってなされることから、律法の拘束から解放されているという意味の「自由」が、パウロの福音において中心的な位置を占める。なお、ローマ八・二一の「神の子の自由」は、「神の子の解放」と訳した方がわかりやすい(同箇所の注を参照)。「奴隷」の項を参照。信仰(しんこう)
パウロにおいても、福音宣教活動の一般の用法と同じく、宣べ伝えられている福音の使信を信じて受け入れること、それに伴ってイエスをキリストと告白することを意味する場合が多い。しかし、パウロ書簡では、「イエス・キリストの信仰」とか「キリストの信仰」という表現で語られる場合が多い(とくにローマ三・二二のような福音の核心を語る箇所で)。この翻訳では、これを「キリスト信仰」と訳している(ローマ三・二二の講解を参照)。この表現は、イエス・キリストを信じることを当然含みながら、それより広く、霊なるキリストとの交わりに生きる現実、すなわち「キリストにあって」生きる現実の全体を指すと見られる。このような意味での「キリストの信仰」がたんに「信仰」という語だけで指される場合もある(たとえばガラテヤ三・二三〜二六)。救い(すくい)
パウロにおいても、旧約聖書と黙示思想における終末的な救いの思想、すなわち終わりの日に現れる神の怒りから救い出されるという思想が保持されている(テサロニケT一・一〇、五・八〜九、ローマ一〇・一、一三・一一)。しかし同時に、現在が「救いの日」であり(コリントU六・二)、信じる者の中に救いのプロセスが始まっているという面も出てきている(フィリピ二・一二〜一三、コリントU三・一七〜一八)。この両面を含んで、パウロは「救い」を、福音に現れた神の働きの目標として提示する(ローマ一・一六)。パウロにおいては、救いとは罪と死の支配から解放され(ローマ八・二)、義とされて現在すでに神との平和を得ており(ローマ五・一〜二)、御霊によって子として父との親しい交わりに生き(八・一四〜一七)、将来には神の栄光にあずかることである(八・一八以下)。聖霊(せいれい)/御霊(みたま)
聖書では、もともと風、息、気を指す語(ヘブライ語では《ルアハ》、ギリシア語では《プニューマ》)が「霊」という意味で用いられている。この語は、人間存在の一要素としての「霊」とか、人間を超えて働く力としての「諸霊」を指すのにも用いられるが、おもに神の霊を指すのに用いられる。パウロにおいては、《プニューマ》が人間の霊を指すことは稀で(テサロニケT五・二三、ローマ八・一六など少数)、ほとんどの場合、定冠詞をつけた《ト・プニューマ》という形で神の霊、神から与えられる霊を指している。「聖なる」がついて神の霊であることが明示されている場合も多く、その時は「聖霊」と訳しているが、「聖なる」とか「神の」などがつかない場合も、ほとんどは人間の生来の霊ではなく、キリストにあって神から与えられる霊を指しているので「御霊」と訳している。このような神からの霊を指すと考えられる場合、新共同訳は 「霊」を「 ”」記号で囲んで表記しているが、これは日本語表記になじまないので、私訳では「御霊」と訳している。パウロにおいては、キリストにあって受ける新しいいのちの現実はすべて御霊の働きの結果、「実」である。パウロはその書簡のいたるところで御霊の働きに触れているが、とくにガラテヤ書五章、コリント書I一二〜一四章、ローマ書八章で詳しく論じている。宣教(せんきょう)
広い意味では、預言者のように、神から委ねられた神の言葉を民に告げ知らせる行為一般を指す。イエスも「神の国」を「宣教」された。しかし、イエスの復活の後、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を神の救いの業として告げ知らせる活動が、とくに「宣教」と呼ばれ、パウロ書簡ではこの意味で用いられている。動詞《ケーリュッセイン》はこの告知の活動を指すが、その名詞形《ケーリュグマ》は宣教活動そのもの、または告知された内容を指す(コリントI一・二一、二・四、一五・一四)。したがって、「福音」《エウアンゲリオン》とほぼ同じ意味になるが、初期の宣教運動を議論するときの学術用語としては、コリントI一五・三〜五に見られるような定型化された告知内容を指している。なお、「宣教」(《ケリュグマ》を告げ知らせる活動)と「教え」(《ディダケー》を与える活動)を区別して、前者を教団の外にいる者に福音を告げ知らせる伝道活動、後者を内にいる信徒を指導する牧会活動とする見方もある。 「福音」の項を参照。洗礼(せんれい)
「バプテスマ」の項を見よ。相続(そうぞく)
旧約聖書で「相続」というのは、土地を受け継ぐことを意味する。もともと、ヨシュアに率いられてカナンの土地に入ったイスラエルの十二部族が、それぞれ割り当てられた土地を受け継いだことを指す。アブラハムには「エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」の広大な土地が約束された(創世記一五・一八)。しかし、ユダヤ教黙示思想において、このアブラハムへの約束が終末論的に理解され、神が世界を裁かれる終末時に、それまで世界を支配していた悪人が滅ぼされ、アブラハムの子孫である選ばれた義人が世界を支配するようになると信じられるようになっていた。それが「世界を相続する者となる約束」とされた。「相続する」という表現は、ファリサイ派ユダヤ教やイエスの宣教では、「神の国を相続する」(マタイ五・五、二五・三四)とか「永遠の命を相続する」(マルコ一〇・一七)という形で、終末的な救済を象徴する意味で用いられている。パウロにおいては、それと同じく最終的な救済にあずかること、神の栄光を受け継ぐことを指している(ローマ八・一七)。タ行
賜物(たまもの)
新約聖書では二つのギリシア語が「賜物」と訳されている。一つは《ドーレア》で、好意から無償で与えられる贈り物を指している。「神の賜物」(ヨハネ四・一〇)とか「聖霊の賜物」(使徒二・三八)などはその例である。しかし、パウロ書簡ではこの語の用例は少なく、「義の賜物」(ローマ五・一七)の一例と、その対格形が副詞的に「無代価で、無償で」という意味で用いられるか(ローマ三・二四、コリントU一一・七)、または「無目的に、空しく」という意味で用いられている(ガラテヤ二・二一)だけである。報酬の反対として、無代価で与えられることを指すとき、パウロは「恵み《カリス》によって」と語ることが多い(ローマ四・四)。ローマ三・二四では、「無代価で《ドーレアン》」と「恩恵《カリス》によって」が同格で並んでいる。罪(つみ)
パウロは「罪」《ハマルティア》という用語を単数形で用いている。パウロ書簡で、この語または同じような意味の用語が複数形で現れる箇所はごく僅かであるが、それはほとんどみなユダヤ人キリスト教の定型的な伝承を引用する場合に限られる。ユダヤ教で用いられる複数形の「罪」とか「罪過」は、律法に違反する諸々の行為を指す。それに対してパウロが用いる単数形の「罪」は、神に背かせる方向に働く支配力を指す。したがって、複数形の「罪」が現れる文では、いつも人が主語で「人が罪を犯す」という形で用いられ、単数形の「罪」が現れる文では、いつも「罪」が主語で人は目的語となり、「罪が人を支配する」とか「罪が人に報酬を与える」というように用いられる。パウロは人間を支配する力としての罪を、奴隷を支配する主人を比喩として描いている(ローマ六・一五〜二三)。時(とき)
「時」を意味する二つのギリシア語《カイロス》と《クロノス》は、パウロ書簡において日常的な時間を指すのにほとんど同意語として用いられる場合が多いが、基本的には《クロノス》が時間の経過とか一定の長さの時間を指すのに対して、《カイロス》は特別の意味をもつ出来事が起こる時点を指すことが多い。それで、キリストの出来事(キリストの十字架・復活の出来事やキリストの来臨)が起こる時は普通《カイロス》を用いて指し示される(ローマ五・六、一三・一一、コリントT七・二九など)。しかし《クロノス》も、「時《クロノス》が満ちると、神は御子をお遣わしになった」(ガラテヤ四・四)とか、「時《クロノス》と時期《カイロス》について」(テサロニケT五・一)というように、終末的な出来事が起こる時を指すのに用いられることもある。ナ行
肉(にく)
ギリシア語原語は《サルクス》。パウロがよく用いる用語で、新約聖書の一四七回の用例中、約半数はパウロ書簡に出てくる。人や動物の肉体というごく日常的な意味で用いる場合もあるが(コリントT一五・三九、コリントU一二・七など)、多くの場合、心身全体を含む人間存在そのものを指す。「すべての肉」は全人類を指し、「肉と血」と組み合わされて神の事柄に関わりえない人間性を指している(コリントT一五・五〇、ガラテヤ一・一六)。「肉によれば」という句は、人間的次元ではという意味で用いられ(ローマ一・三、四・一)、神的次元と区別される。ハ行
バプテスマ/洗礼(せんれい)
イエスは洗礼者ヨハネからバプテスマを受け、彼の教団において活動された初期にはバプテスマを授ける活動をされたが(ヨハネ三・二二)、ガリラヤで御自身の宣教を始められてからはバプテスマを授けることなく、またバプテスマについて語られたこともない。しかし、イエス復活後の初期の教団は、福音を聞いてイエスをメシア・キリストと信じる者に、バプテスマを受けてその信仰を言い表すように求めた。使徒言行録は、パウロも福音の宣教活動においてバプテスマを授けたと報告している(使徒一六・一五、一九・五など)。パウロもその書簡で、受取人がバプテスマを受けていることを前提している(ガラテヤ三・二七、ローマ六・三)。福音(ふくいん)
《エウアンゲリオン》というギリシア語の訳語。《アンゲリオン》(報せ)に《エウ》(よい)がついて「よい報せ」を意味する。世俗のギリシア語では、皇帝の即位や戦勝の告知などに用いられた。初期にギリシア語を用いて宣教した教団は、イエス・キリストの出来事を神の救いとして宣べ伝えるさい、その告知を《エウアンゲリオン》と呼んだ。背景には、神の救済を「良い知らせ」と呼んだ旧約聖書の伝統があると考えられる(イザヤ四〇・九など)。この用法はパウロ以前に始まっていると見られるが、パウロはこの語を自分の宣教の中心に据えている。この語は新約聖書に七八回用いられているが、その中の約三分の二はパウロ書簡に出てくる。復活(ふっかつ)
パウロ書簡で「復活」に触れる箇所は、大部分「復活させる」《エゲイロー》という動詞が用いられている。この動詞はもともと「目覚めさせる、起き上がらせる」(他動詞)または「目覚める、起き上がる」(自動詞)という意味の動詞であるが、新約聖書では圧倒的に「神がキリストを復活させた」という意味で用いられている。パウロ書簡でも、神が主語の場合は、神がキリストまたは死者を「復活させる」と能動態で用いられ(たとえばコリントU四・一四)、キリストまたは死者が主語のときは、「復活させられる」と受動態で用いられる(たとえばコリントT一五・四、一五・一六)。ただし、日本語では「キリストは復活した」と訳される場合が多い。ヘレニズム
前四世紀の後半に行われたアレクサンドロスの東征以来、地中海からインド近くに至る広範な地域がギリシア・マケドニア人の支配下に置かれるようになり、ギリシア語とギリシア文化、ギリシア的生活様式が、もともと固有の宗教と文化を持っていた東方諸民族に浸透して、一種の混淆文化を形成した。ギリシア人は自分たちの国を「ヘラス」と呼び、自分たちを「ヘレネス」と呼んでいたので、このギリシア化した(すなわちヘレネス化した)世界は(近代の歴史学者から)ヘレニズム世界、その文化は「ヘレニズム」と呼ばれるようになった。ギリシア・マケドニア人の支配は、前一世紀にはローマ人によって取って代わられ、政治体制としてはヘレニズム時代は終わるが、ローマが支配した時代も、文化的にはギリシア文化が支配的な「ヘレニズム」の体質を残すことになる。ヘレニスト
パウロ書簡には出てこないが、ルカが使徒言行録で「ギリシア語を話すユダヤ人」を指すのに《ヘレニースタイ》(複数形)という語を用いている(使徒六・一、九・二九)。この語は、「ヘブライ語を話すユダヤ人」《ヘブライオイ》との対照で用いられている(使徒六・一)。この「ギリシア語を話すユダヤ人」が、普通「ヘレニスト」と呼ばれる。「ヘブライ語を話すユダヤ人」《ヘブライオイ》とは、おもにパレスチナ在住の(厳密にはアラム語を話す)ユダヤ人であり、「ギリシア語を話すユダヤ人」《ヘレニースタイ》は、おもにディアスポラ(離散)のユダヤ人である。両者は使用言語の違いから、ユダヤ教団においても別の会堂を形成していた。初期の福音宣教においても、イエスを信じたユダヤ人にこの二つのグループがあり、それぞれ違った経過をたどることになる。パウロは「ヘレニスト」のグループに属し、ヘレニズム世界の都市に散在するヘレニスト・ユダヤ人の会堂を拠点として福音を伝える活動を進めることになる。誇り(ほこり)/誇る(ほこる)
この用語(名詞も動詞も含めて)はパウロ特有の用語で、新約聖書の約六〇回の用例の中、五三回はパウロ七書簡に出てくる(原語の回数)。この用語は、パウロにおいて肯定的な用法と否定的な用法の両方に用いられている。否定的な用法というのは、神の前に人間が自分の価値とか資格を誇ることを徹底的に否定している場合である。たとえば、ローマ書ではユダヤ教徒が律法を持っていることや律法を行っていると誇っていることが徹底的に否定されている(二・一七〜二四、三・二七、四・二)。パウロにおいては「肉の誇り」は徹底的に否定される。それに対してローマ書五・一〜一一の段落では、同じ語がキリストにある者の勝利を誇る意味で肯定的に用いられている。この段落のきわめて強い積極的姿勢から見て、ここでは「誇る」は「勝ち誇る」の意味であり、「勝ち誇って歓ぶ」という気持ちを含んでいると見られる。多くの英訳は rejoice(歓ぶ)という訳語を用いている。なお、パウロは自分が使徒であることを主張する箇所(コリントU一〇〜一三章)でこの語をとくに多く用いている。そこでも、パウロは敵対する者たちの「誇り」を「肉の誇り」として退け、自分が主から立てられた使徒であることを、「愚かさを誇る」とか「弱さを誇る」という逆説的な言い方で誇っている。マ行
恵み(めぐみ)/恩恵(おんけい)
《カリス》の訳語で、新約聖書ではパウロ文書(パウロ書簡とパウロの名による書簡)に圧倒的に多い(パウロ以外ではルカ文書に多い)。「恩恵」とか「恩寵」とも訳される。私訳ではおもに「恩恵」を用いる。パウロにおける「恩恵」《カリス》は、たんに好意的な行動、態度、心情を指すのではなく、常に神について用いられ、神の愛とか憐れみから出る、人に対する神の無条件の扱い方を指している。人とのかかわりにおいて、神が相手の人間の価値とか資格を問わないで(すなわち相手に絶して)、無条件によい働きをしてくださるという、愛から出る神の無条件・絶対のかかわり方を指す。この恩恵の無償性・無条件性は直接的に表現される場合もあるが(ローマ三・二四、四・四など)、報酬との対比で「賜物」という表現で語られる場合もある(ローマ六・二三)。「恵みの賜物」と二重に表現される場合もある(ローマ五・一五)。黙示思想(もくじしそう)
前二世紀初頭から二世紀初頭にかけて、異教帝国に支配され抑圧されたユダヤ教団において形成された特殊な形態の終末待望の思想を指す。預言者以来、神の最終的な救済の実現を待ち望んでいたユダヤ教団は、ヘレニズム帝国(セレウコス朝)とローマ帝国の強力な支配の下でその信仰が抑圧され、苦難の歴史を歩むことになる。その中で「敬虔な者たち」は、地上の歴史がよい方向に進展するという期待を断念し、現世界(この《アイオーン》)が悲惨と恐怖の中で終末に達して滅んだ後に、神御自身がもたらされる新しい世(来るべき《アイオーン》)において救済されて栄光に至るという希望に生きるようなる(「アイオーン」の項を参照)。ヤ行
約束(やくそく)
神が将来の行動を約束される言葉を指す。パウロ書簡では、神がアブラハムに多くの子孫を与えることと、子孫に土地を与えると約束されたことが典型的で根源的な神の約束として重視される。神の約束を信じて生きる信仰が神と人間の関係の基本であることが、アブラハムの実例で説かれ、信仰による義の典拠とされる(ガラテヤ三・一三〜一八、ローマ四章)。パウロにおいて福音《エウアンゲリオン》は約束《エパンゲリア》の性格をもつ神からの言葉である。アブラハムのように、この福音という祝福(救済)の約束の言葉を信じる者が、義とされて神に受け入れられるのである。したがって、新約聖書で「約束」の用例は圧倒的にパウロ書簡に多くなる。ヘブライ書と使徒言行録が続くが、福音書にはほとんど出てこない。「契約」との関係については、「契約」の項を参照。ユダヤ教(ゆだやきょう)
「ユダヤ教」《ユウダイスモス》という用語は、新約聖書ではパウロ書簡に二回出てくるだけである(ガラテヤ一・一三と一四)。これはギリシア人がユダヤ人の宗教を、他の諸宗教から区別するために用いた名称であって、ユダヤ人自<身は自分たちの宗教を《トーラー》と呼んでいた(「律法」の項を参照)。ユダヤ人(ゆだやじん)
後の時代には、「ユダヤ人」とは民族を指すのかユダヤ教徒を指すのかが問題となるが、パウロの時代には両者は重なっており、ユダヤ人とはユダヤ教徒のことであり、ユダヤ教団に所属し、ユダヤ教に従って生きる人を意味した。パウロ書簡で「ユダヤ人」と言われているところは「ユダヤ教徒」と読むと論旨がはっきりする場合が多い。「ユダヤ人」と呼ばれる集団の主要部分は、ユダヤ人の両親から生まれた「生まれながらのユダヤ人」であるが、他民族の者がユダヤ教に改宗してユダヤ人となった者も含まれる。パウロは、異教の諸民族を「ギリシア人」に代表させ、ユダヤ教徒と異教徒を対比するときに「ユダヤ人とギリシア人」という表現を用いている(「ギリシア人」の項を参照)。また、ユダヤ教団を神との特別の契約関係にある民という視点から語るときは「イスラエル」と呼んでいる(「イスラエル」の項を参照)。世(よ)
パウロ書簡で「世」と訳されている原語には、《コスモス》と《アイオーン》の二つがある。この二つのギリシア語は、起源も意味合いも異なり、文脈によっては区別して理解しなければならないことがある。預言(よげん)/預言者(よげんしゃ)
パウロ書簡においても、イエス・キリストの出来事が旧約聖書の預言の成就であるという最初期の福音宣教の基本宣言が共有されているが、その場合はいつも「預言者」という語が用いられている(ローマ一・二、三・二一)。これは、ユダヤ教におけるヘブライ語聖書の三区分(律法、預言者、諸書)の用例によるもので、旧約聖書の預言書の総体を指している。それに対して、「預言」という用語はパウロ書簡においてはほとんど、「異言」などと並ぶ聖霊の賜物《カリスマ》としての「預言」を指している(コリントT一二〜一四章に多出、他にテサロニケT五・二〇、ローマ一二・六など)。聖霊の賜物《カリスマ》を扱うところでは、預言の賜物を与えられている者が「預言者」と呼ばれ、《エクレーシア》において「使徒」に次いで重要な指導的役割を与えられている(コリントT一二・二八)。ラ行
来臨(らいりん)
パウロは、復活して天に上げられたキリストが再び来て世界を裁き完成されるという希望を、初期の教団と共有しており、その出来事を《パルーシア》(来臨)という用語で語っている(テサロニケT二・一九、三・一三、四・一五、五・二三、コリントT一五・二三)。もともと《パルーシア》は誰かがある場所に到着することを意味する語で、パウロは自分やテモテなどがある場所へ到着することを指すのに用いている場合も多い。主キリストの来臨を指すのは、《パルーシア》という名詞だけでなく、「(主が)来られるとき」と動詞を用いて語ることもある(コリントT四・五、一一・二六など)。日本語訳聖書では、《パルーシア》も「(主が)来られるとき」と訳される場合が多い。律法(りっぽう)
「律法」と訳されているギリシア語原語は《ノモス》であるが、このギリシア語は《トーラー》というヘブライ語のギリシア語聖書における訳語であり、パウロが《ノモス》というときはユダヤ教における《トーラー》を指していることになる。そして、この《トーラー》という語はユダヤ人にとってユダヤ教の全体を指すきわめて包括的な意味をもつ語である。ワ行
和解(わかい)
「和解する」(動詞)と「和解」(名詞)の用例は、新約聖書ではパウロ文書だけに見られる(計一三回)。「和解する」(動詞)は、人間関係について用いられている例が一例だけあるが(コリントT七・一一の別れた夫と妻が和解する場合)、他の五例(ローマ五・一〇〜一一の三回、コリントU五章の一八、一九、二〇節)はみな神と人との関係について用いられている。「和解」(名詞)の用例は四回あり(ローマ五・一一、一一・一五、コリントU五・一八、五・一九)、みな神と人との関係について用いられている。このようなパウロ書簡に見られる「和解」の用例は、「パウロの名による書簡」に(原語ではわずかに違った形の語で)受け継がれ、福音提示において中心的な位置を占めるようになっている(コロサイ一・二〇、一・二二、エフェソ二・一六)。なお、マタイ五・二五と使徒一二・二〇で、日本語訳では「和解」という語が用いられているが、そのギリシア語原語はパウロ文書の用語とは別のギリシア語である。