市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第26講

第W部 ローマ書による「新しい人間」 

第二講 キリストに合わせられて生きる人間

キリストの死と復活に合わせられる

はじめに

 わたしたち人間は、生まれながらの人間としては「アダムにある」と呼ばれる場所にいます。しかし、その中にキリストが来られて、すなわち死人から復活された方がわたしたちの中に出現されて、今や新しいアイオーン、新しい支配が始まりました。この「キリストにある」という場では人間がどのような姿になるのか、この一点について今回は話を進めます。わたしたちはそのすべてを悟ったり、身に体現したりすることはできないかもしれません。しかし皆さんはすでにキリストの中に居られます。この世のものに頼ることを止め、自分に頼ることを止め、自分のために十字架について死に、死人の中から三日目に復活されたこのイエス・キリストに望みをおいて、この方の名を呼び求めて生きておられます。「キリストにある」者としてここに居られます。この「キリストにある」という場所は、どんな素晴らしい場所でしょうか。わたしたちの目には見えませんが、神の御霊の助けによって、この「キリストにある」という場所の栄光が少しでも示されるよう願ってこの集会をしています。

恩恵の下にある人間

 前回ローマ書一章から五章までの概要をお話しして、キリストにあっては神の恩寵が支配している、その恩寵によってわたしたちキリストにある者は罪人でありながら赦されて神の義を与えられている、わたしたちは信仰によってキリストの中にいる以外に神に至る道はない、生命に至る道はないということを学んできました。
 信仰によって義とされる、というのがルッターの唱えた福音の中心点です。ところが、聖書学者のシュラッターが言うように、プロテスタントの福音主義の神学はローマ書を講ずるにあたって五章までくると途端に熱意を失ってしまうようです。確かに三章を中心にして、五章までの間に信仰によって罪人が義とされるという消息が力をこめて主張されています。それを講ずることに福音主義の教会は熱心であるが、五章を過ぎると熱意を失って、後は付け足しであるかのような扱いをすることが多いようです。しかし、今回わたしはこのローマ書を読み直してみて感じたのですが、むしろわたしたちにとってほんとうに素晴らしく思われるのは五章以下、六、七、八章のあたりです。この箇所がわたしたちキリストにある者にとって中心ではないかと思われます。五章の後半でパウロは、今まで述べてきたキリストにあって受けている恵みを、アダムにあってわたしたちが置かれている罪と死の支配と対比して描いて見せました。このアダムにあって、すなわち生まれながらの人間が普遍的に陥っている死の支配の状況にたいして、ひとりの復活された方、キリストにおいて始めて人間は新しい恵みの支配、義の賜物、永遠の生命の実を受けることができるということを見事に描いて見せてくれました。

聖霊のバプテスマ

 そうするとこういう反論や誤解があるということを、パウロは六章の始めに自ら取り上げます。

 「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」。
(ローマ書六・一〜二)

 罪が増し加わるところに恵みが増し加わるのであれば、むしろ恵みが増し加わるためにわたしたちは罪の中に留まっていれば良いのではないかというようなことを言う人は、キリストにあるということの内容を知らないのです。そこで、キリストに合わせられるとはどういうことであるかを三節以下で語ります。この六章から七章六節までの今回の講話で取り上げる箇所は、たったひとつのことを言っているとわたしは思います。すなわち、キリストと合わせられるとは一体どういうことなのかということを語ろうとしているのです。それを、あえて言うならば三つの譬をもって説明してくれています。最初はバプテスマという儀式をひとつの譬として、キリストと合わせられている姿を示しています。第二は一五節以下六章の終わりまでで、当時の奴隷制度の主人と奴隷という関係を譬として、キリストと合わせられるという事態を説明しています。第三番目は七章一節から六節までで、結婚という制度を譬として語っています。皆ひとつのことを語っているのです。キリストと合わせられているという事実、これが実は福音の核心である、とわたしはこのごろ痛感しています。それに比べると三章で出てきた、信仰によって義とされるというのは、このような中心点へ進むための入口であって、信仰の中心であるとは言えないのではないかと思います。ついでに言えば、八章はそういう福音の事態の頂点であるという表現を使っても良いのではないかと思います。

 「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである」。(ローマ書六・三)

 パウロはここで、当時の信仰者がバプテスマを受けているということを一応前提にしています。このバプテスマというのは、主イエスの前に出現した洗礼者ヨハネから発したものであって、悔い改めて神に立ち帰ることを告白する行為として、ヨハネの場合はヨハネの面前で水に入り沐浴しました。イエス御自身は公の伝道においてはバプテスマをお授けになりませんでしたが、ペトロを始めとする弟子たちはイエスをキリストとして告白する行為として、このバプテスマを受けるように勧めました。ペトロはもともと洗礼者ヨハネの弟子であったので、バプテスマの形式もヨハネのそれに似たものでした。そういうバプテスマを受けるということは、キリストの中へ浸し入れられるということを象徴しているものでした。ここで「キリストに結ばれるためにバプテスマを受けた」とありますが、これは原語をそのまま訳すと「キリストの中へとバプテスマされる」となります。キリストという霊的な現実の中へ浸しこまれるということです。

比喩としての水のバプテスマ

 キリストは生ける霊です。その中へ入れられるということは霊界の出来事です。わたしたちが水の中に浸されるというバプテスマの儀式は、実はこの霊の世界で起こっていることのしるしであり、象徴であるに過ぎません。決してわたしたちの体が水の中に浸けられるから、それでキリストに合わせられたことになるのではありません。これはあくまでも霊の世界の出来事ですから、実際にわたしたちの霊をキリストという霊の中に浸し入れるのは、神の霊だけがなしうることです。神の霊の世界を物質的な表現で測ることは不可能ですが、それにも拘らず、わたしたちは見えない世界のことを語るのに目に見える世界の事象をもって語らざるをえません。それはすべて、広い意味の譬なのです。
 だから、キリストの中にバプテスマされるという霊の出来事は、神の御霊によってわたしたちの存在に為される業です。多量の水を注ぐとその人の体をとっぷりと浸してしまうように、神の霊が圧倒的な勢いで注がれるときに、もはやそれまでの自分の判断で神を理解しようとしたり、自分の意志で良い生活をしようとしたりしたことは吹き飛んでしまい、自分のために死なれた方の愛の中に完全に自分を浸しこんでしまうという体験をするに至ります。それを「聖霊のバプテスマ」と呼びます。イエス御自身がはっきりと「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたはまもなく聖霊によってバプテスマされるであろう」と言われました。そして、それはペンテコステの日に起こり、それ以後も主イエスの御名を信ずる人々のうえに起こってきました。そして今日に至るまで、イエスが復活されたキリストであると信じる者には、神は約束に従って聖霊を注いでくださっています。これが福音です。この事実がなければ福音は単なる観念の言葉に過ぎません。この御霊の注ぎがあるからこそ、福音は人を救う神の力なのです。この御霊の注ぎが人をキリストの中へと浸し入れます。これが聖霊のバプテスマです。聖霊によってキリストの中へと浸し入れられた者は、じつはそのことによってイエスの死に合わせられているのです。このことをしっかりと知らなければなりません。

復活者キリストとの出会い

 「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである」。
(ローマ書六・四前半)

 バプテスマというのは葬りの式であって、キリストと共に葬られることです。なぜわたしたちはキリストの死に与り、彼と共に葬られなくてはならないのでしょうか。

 「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。(ローマ書六・四後半)

  それは、今までわたしたちが生きていた生命ではなく、別の新しい生命によって人生を生きていくためです。聖霊によってバプテスマされるという体験は、非常に現実的な体験です。それはしばしば目に見えるしるしが伴います。聖霊の圧倒的な力に深く捕らえられて、祈りが普段の祈りではなくなって、異言の祈りになるということも多くみられます。或いは、人の思いからは考えられないような預言が出てくることもあります。時には病人を癒すなど、力ある業、奇跡が行われます。こういう神の霊の働きが人の目を驚かすような形で表れることがあります。しかし、パウロの手紙を読んでいくと、そういう聖霊の現れは神の御こころのままに、エクレシアをたてるために与えてくださっている賜物であって、すべての人が預言をしたり、異言を語るのではないとも言っています。その意味では部分的であり、一時的です。
 それに対して、この聖霊のバプテスマが与えられるとき、その魂は必ず圧倒的な復活のキリストとの出会いを体験します。圧倒的な出会いと言っても、さまざまな程度の差があります。けれどもなんらかの意味において、キリストは生きておられる、復活しておられるということをその魂が直観的に認め、その愛にひれ伏すのです。一回の聖霊のバプテスマですべてが自覚されるとは限りませんが、聖霊によって霊なるキリストと合わせられるとき、この方の死が自分のための死であり、そこで自分も死んでいるのだという奥義が自覚されてきます。そのとき、キリストをわたしのために立ててくださった神、このキリストによってわたしを赦し、受け入れてくださり、キリストと共に生かしてくださる神の愛が伝わってきます。いままで体験したことのないような質の愛です。そのときほんとうに自分というものが打ち砕かれて、ただ神の愛だけが世界に満ちていると感じる、そういう体験をするのです。このように聖霊を与えられることによって、御霊の働きによって復活者キリストと出会い、この方の十字架に自分の死を認める、彼と共に死んだが故に、今度は彼と共に復活された方の生命をもって新しい生き方を始める、この事実こそ実は福音の中心的な真理なのです。これがなければ他に何があっても、知識があっても、教会生活の長い経験があっても、何の意味もないのです。

復活の様にひとしくなる

 「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」。(ローマ書六・五)

 パウロはここで、聖霊によりバプテスマされるということは、第一にキリストの死に合わせられることだと言いましたが、死に合わせられた以上は、必ず復活にも合わせられるということを確言しています。ここで一つ注意することは、死に合わせられたというのは現在完了形ですが、復活の様にも等しくなるであろうというのは未来形です。パウロはコリント人への手紙一五章で詳しく復活の希望を述べています。それに対してローマ書では殆どそのことにふれていません。わたしは長い間この点を考えていました。死人の復活というのは今まで繰り返し述べてきたように、わたしたちの信仰の本質的な部分であるなら、ローマ書という大切な、パウロにとっては信仰の全容を語るような書簡において、なぜあのコリント書簡のようにまとめて語ろうとしないのであろうかと不審に思っていました。
 しかしよく見てみると、今まで見た箇所や、ローマ書八章の中ほどでパウロは、イエスが復活されたようにわたしたちも復活するということをはっきりと断言しています。パウロがなぜローマ書でそのことを多くの場所をとって語らないのかということを考えながら、今回ローマ書を読み直してみて解ったことは、ローマ書においてはパウロはすべてのことを現在の人間に引き寄せて語っているからだと思い当たりました。神のことを語り、キリストのことを語り、十字架の贖いのこと、聖霊のこと、死人の復活のこと、再臨のことを語っていますが、すべて今の人間に関係するときにどのような姿をとるのかという形で語っているのです。再臨はしばしば個人を超えた宇宙的な出来事として語られますが、パウロはここではそういうことをひとつも語っていません。あくまでも現在の自分の中で再臨という信仰はどのような働き、どのような現実となってわたしたちに宿っているのかというその点に目をとめて語っています。
 ここもそうです。「彼の復活のさまにも等しくなる」、この一語の中にじつはコリント人への第一の手紙一五章全体が含まれていると言えます。コリント人への手紙では、先に読んだようにイエスは死人の中から復活された、わたしたちの知らない新しいからだをもって生き始められたのです。それがどのようなからだであるのか、福音書の最後の記事を読むだけではまだ理解できません。時間や空間を超えた驚くべき不思議なからだであるということしか解りません。しかしパウロはここで、わたしたちもまたあのイエスと同じ霊のからだを与えられて復活するのだと明言しているのです。わたしたちは今は土に属する者として、土に属する者の形をとっています。アダムが創られたときと同じ形をとっていて、壊れていく物質と同じものでできていて、やがて分解して生命のない物質になります。しかし、やがて神の時が来ると、キリストに属する者は天に属する者の像(かたち)、すなわち復活されたイエスの像(かたち)をとるのです。

キリストと共に十字架につけられ

 これらのことは未来形で記されています。この未来形は、今は全く関係ないけれども将来いつか起こるであろうといっているのではありません。これはある意味では既に現在始まっていることであって、その完成は未来に残されているという意味の未来形です。この未来形というのは、現在から始まって未来の方向に向かっているということです。キリストに合わせられて死んだというのは現在完了形であり、既に起こったことですが、将来はキリストと同じ復活のからだに変えられるのです。キリストが十字架の上に死なれたということは、わたしたちのために死なれたことに違いないのだけれども、ただそれに留まるのではなく、わたしたちも十字架のうえで一緒に死ぬためのものです。そしてわたしたちがキリストと一緒に十字架について死ななければ、復活されたキリストと一緒に生きるという新しい生命は始まらないのです。その意味では十字架はわたしたちの信仰の不可欠の要素です。
 わたしは最近復活を中心にして話をしていますが、そのことが本当に現実になるためには、わたしたちが十字架に合わせられてキリストと共に死ぬというところにしっかりいなければ、復活は絵に描いた餅であり、言葉の上の空虚な響きに過ぎないのであって、人間の現実の体験にはなりません。しかもそれが聖霊のバプテスマ、神様から約束の御霊を受けることによって始めて、わたしたちがキリストと共に十字架につけられて死に、キリストと共に復活の生命を生きるということが可能なのだということになるのですから、この十字架と聖霊と復活という真理はどうしても一体であって、一つだけを切り離して、十字架だけを信じるとか、復活だけを生きるとか、聖霊だけを体験するということはできないものです。

 「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」。
(ローマ書六・六)

 わたしたちの中には古き人と新しき人があります。古き人というのは生まれながらの人間です。キリストがわたしのために死なれたということは、生まれながらのアダムにある自分は神の前に全く無意味で、存在を否定された、死ぬほかはない者だということの表れです。罪の奴隷というのは一種の比喩であって、罪というのは単にわたしたちが戒めに反する行為をしたというのではなくて、わたしたちを神と反する方向に引っ張っていく力なのです。その罪の支配力の中にいる限り、わたしたちは罪の奴隷です。そこでは神を愛してやまないという状態にはなりえないのです。このような罪の支配から解放されるためには、わたしたちが死ななければ他に道がないのです。

 「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」。(ローマ書六・七)

 罪の支配から解放される唯一の道は自分が死ぬことです。この死をキリストが十字架の上で死んでくださったのです。だからキリストに合わせられたときに、そこに自分が死んでいることを見るのです。

 「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」。
(ローマ書六・八)

 ここで「信じる」という言葉を使っていることが注目されます。キリストと共に死ぬということ、その結果として今度は復活されたキリストと共に生きるということ、これは目に見える世界のことではありません。神がキリストという方をこの世界に遣わしてくださって、このキリストの中で罪の贖いとか、死人の復活という出来事を始めてくださったのです。そこでは新しい復活の生命が来て働いていて、わたしたちはキリストと合わせられてその中で生き始めますが、それは目に見えることではありません。やがてだんだんと霊的に深められると、ある意味ではそれを霊的に体験するかも知れないが、始めのうちはわたしたちはそれを信じていくのです。本当にキリストを信じて委ねていくならば、神はキリストの中にある者をそのようにキリストに合わせて死なせて、罪から解放し、復活されたキリストと一緒に生かしてくださるということを信じていくのです。

 「キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである」。(ローマ書六・九)

 これは事実です。キリストは復活された。そしてもはや死ぬことはなく生きておられる。こういうキリストの中にわたしはいるのです。

 「なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」。(ローマ書六・一〇〜一一)

 自分がそのような者であることを、はっきりと認めるべきなのです。これは信仰の行為です。信仰というのは神の言葉を現実とするのであって、時には自分の目に見えるところや、自分が体験するところや、自分が望み得るところに反してでも、神の言葉のほうが事実であるということを認めるところから始まるのです。キリストという方は事実です。キリストは来られ、革命は起こり、死人の中から復活されたのは事実なのです。わたしたちは自分をこの方の中に投げ込んでいけば良いのです。そうすれば神は、あなたはキリストと共に死んで罪から解放されて、キリストが復活された生命をもってキリストと一緒に生きることができると言ってくださるのです。これが神の言葉です。これを事実としてわたしたちが受け止めていくところから、わたしたちの中に新しい時代が始まります。キリストに合わせられているというようなことは目には見えないし、感情的にいかにもそうなったという感じがする訳でもありません。やがてそれも与えられるでしょう。しかし根底はやはり信仰です。この事実をわたしたちは信じぬいていくのです。
 わたしたちは弱い者です。肉にある人間であるから罪を犯し、失敗をし、神に対して本当に申し訳ないことをします。しかしそういうわたしの弱さや失敗やバカさ加減にもかかわらず、そういうときにこそ神の憐れみはそういうものに打ち勝つ実力をもったものであることを信じるのです。どうしようもない自分を絶えずキリストの中に投げ込み、キリストの中に自分を見い出し、そこで死に、また復活されたキリストと生きるのです。復活されたキリストと生きるということは恵みの賜物、恩寵の事態です。決してわたしの功績から出たことではありません。

 「だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」。
(ローマ書六・一二〜一四)

 わたしたちは神に敵対する力に自分を明け渡して、その引きずるままに人生を過ごしていました。しかし今は罪に対して死んだのだから、罪の支配に引き回されることなく、本当に心から自分の人生を神のために捧げようという願いをもつことができるのです。人が律法にあるときは、命令は外から来てわたしたちを支配しますが、神の恵みの内にあって無条件に赦され、神の生命を与えてやまないような場所にいるのだから、その神の働きによって自分を神への奉仕のために捧げることができるのです。

奴隷の比喩と結婚の比喩

比喩による表現

 水のバプテスマを「たとえ」という表現で使うと教会の先生方から叱られるかもしれません。洗礼は本当に救いをもたらす神の定め給うた神聖な儀式であって、決してたとえではないと言われるかも知れません。しかしよく考えてみていただきたい。水という物質がどうしてわたしたちをキリストに結びつけることができますか。水はあくまでもひとつの象徴です。すなわち神の御霊がわたしたちに注がれ、満たすことによってわたしたちの霊がキリストに結びつけられ、浸しこまれるという出来事を、目に見える形で象徴しているにすぎません。本来は信仰の告白行為であるが、水に浸されるという行為をパウロはここで、聖霊のバプテスマによってわたしたちの内に起こる霊の事実を象徴するしるしとして用いているのです。バプテスマをしるしとして用いて、わたしたちの霊の事態、霊なるキリストに合わせられるという事態を表現しているのです。しかしわたしたち霊的に鈍くなった魂には解りにくいことかも知れないというわけで、もっと具体的な実例を二つ挙げます。ひとつは奴隷のたとえであり、もうひとつは結婚制度のたとえです。

奴隷の比喩

 「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない」。(ローマ書六・一五)

 神の恵みのもとにあるということは、それを第三者として理論的に観察すると、必ずこういう反論が起こってくるものです。恵みのもとにあるということが、それを受ける本人からすれば、本当に神の無条件の赦しの恩寵に感激して、もう自分の一切を神に捧げてお仕えしたいという、そういう態度でしか受けられないものなのです。ところが第三者として、他の人が神様から恵みを受けているということを客観的に観察した場合に、その人がどんな悪人でも罪人でも無条件に神が受け入れて生命を与えているとするならば、その人は罪を犯し続けても良いのかというような理屈による反論がどうしても出てくるようです。それに対してパウロは「恵みの下にある」という事情を比喩を用いて説明します。

 「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである」。(ローマ書六・一六)

 僕というのは奴隷のことです。当時の奴隷制度では、奴隷は同時に二人の主人に仕えることはできませんでした。もし他の人の奴隷になりたいなら、今の主人の許しを得て、解放してもらってから他の人の奴隷になることができました。主人同士のお金による売買もあったようですが、とにかく一人の人にしか仕えられません。だからもし罪という主人の奴隷になると、必ず死に至る。しかしもし、罪という主人の奴隷であることから解放されて、別の新しい主人に代わったとすると、以前の主人の支配を受けることはない、というたとえです。こういう奴隷制度のたとえをもって、あなたが以前は罪の支配下にあったけれども、新しい主人、ここでは義とか従順といわれるように、キリストにあって砕けた心をもって神に従おうとする心ですが、そのように主人が代わった以上は前の主人に仕えることはできない筈です。だからあなたがたキリストに合わせられた者、また恩恵の世界に支配されるようになった者は、もはや罪の奴隷ではなく、罪に仕えることはないと言っているのです。では、どうしてそのような主人が代わるようなことが起こったのかを次に述べています。

 「しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教えの基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった」。(ローマ書六・一七〜一八)

 あなたがたは生まれながらの人間として、皆罪の支配下にありました。しかし、あなたがたに宣べ伝えられた福音を心から受け入れ信じたので、そのお陰で今まで罪の奴隷であったが、福音を信じたことによって義という新しい主人の奴隷になったのです。だから古い主人の罪に仕えることはできなくなっている、ということを述べています。パウロが他のところで言っているように、あなたがたのなかには、力ある者、富める者、賢い者は多くなく、むしろこの社会では貧しい者、無に等しい者が多いからこそ、主人が代わるという奴隷の立場が解る人が多くいたのです。

 「わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かって自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように 今や自分の肢体を義の僕としてささげてきよくならねばならない。あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。(ローマ書六・一九〜二三)

 罪という主人はそれにふさわしい報酬をあたえる。わたしたちは罪という主人にさんざん仕えてきたので、それにふさわしい死という報酬を受けるべき者です。しかし神という主人が与えてくださるのは報酬ではありません。わたしたちがいくら神に仕えても、永遠の生命を報酬として受け取る業績をあげることはできません。しかしそれにもかかわらず、神はキリストに合わせられて生きる人間には、神の恵みとして永遠の生命を与えてくださるのです。それを受ける資格がない者に、賜物として与えてくださるのです。わたしたちが神から受けるものは、始めから終わりまで神の恵みによるものです。義もそれを受けるのに値しないのに神から与えられました。最後の永遠の生命、復活という事態も、わたしたちはそれを受けるのに値しない、わたしたちは決して復活して当然というような神々しい存在にはなれない、それにもかかわらず、神は恵みによって与えてくださるのです。

結婚の比喩

 「それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても 淫婦とはならない」。(ローマ書七・一〜三)

 律法というとユダヤ教の律法、モーセの律法を連想しますが、ここでパウロが律法というときには「ノモス」という言葉を使っていて、それはわたしたちのいう法律という意味です。法律は人をその生きている期間だけ支配します。犯罪を犯した人が死んでしまえば、もう法律はその人に刑罰を課することを求めません。その人は法の支配から免れている。その法律の原則を、パウロは結婚に適用します。夫が生きている間は、女の人は結婚の法律によって、妻としての立場を果たさなければならない。しかしもし夫が死ねば、結婚の法律から解放されるので、他の男に嫁ぐことが認められます。これが世間でいう法律の世界で、これがひとつのたとえとして用いられているのです。

 「わたしの兄弟たちよ。このようにあなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それはあなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである」。(ローマ書七・四)

 律法に対して死ぬという言葉をパウロはしばしば使います。この内容は解りにくいとしてよく問題になりますが、この結婚のたとえを見るとかなりはっきりしてきます。このたとえの中では、女性本人も死んでいないし、律法も健在です。この女性と法律との関係が、夫が生きている間は有効であるが、夫が死ねば夫のところにとどまっていなければならないという法律の規制は及ばないことになります。女性はこの法律から見たら、もう死んだ者としての扱いとなります。もう法律から責任を追求されない対象になったのです。そういう関係を、律法に死ぬとパウロは言います。そのように、神の律法は厳然として永遠にあるし、わたしたちも人間としてそのままいる。けれども丁度この女性の場合、自分とひとつであったその夫が死んだことによって、この女性も結婚の法律に死んだ(法律の規制の対象ではなくなった)ように、わたしもわたしとひとつであるキリストが死なれたことによって、このわたしが律法に対して死んだ者の扱いになります。すなわち、律法の規制が及ばない存在になってしまうのです。だから別の人、すなわち復活されたキリストのところに行って結ばれて、子供ができるようになる、そういう現実が結婚の比喩で語られているのです。
 ここでいちばんむつかしい点は、「キリストのからだをとおして死んだ」ということです。学者はいろいろな理解の仕方をわたしたちに提出してくれていますが、要するに、わたしたちがキリストにあって、キリストに合わせられた人間であるから、キリストの十字架においてわたしも死んでいるのだと認める限り、キリストを死に追いやった律法との関係において、わたしたちもまた死んだ者という扱いを受けるのです。そして、わたしは死んでいるので、もはや律法はわたしたちを支配したり、追求することはできないのです。

文字によらず霊によって

 「というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」。(ローマ書七・五〜六)

 ここでまた、アダムにある人間とキリストにある人間が見事に対比されています。ここでは「肉にあったとき」と言われていますが、肉というのはパウロによれば旧い生まれながらの人間性のことですから、アダムにあるという人間の姿と同じです。わたしたちが生まれながらの人間でいたときは、律法によって呼び覚まされる罪からの欲情が、死のために実を結ばせようとして働いていたのです。これは生まれながらの人間の本性に関する啓示です。
 わたしたちの思いを越えた罪という力が、人間の世界には働いています。罪はひとつの力であり、支配力です。そこからさまざまな欲情が、わたしたちのこの具体的な身体をもった存在に働きかけ、神に反する生活をさせるのですが、そういう罪からの欲情は、律法によって刺激され、呼び覚まされるのです。律法が外からわたしたちに向かって、盗んではならないと言うと、罪からの欲情とは少しでも自分のために有利になるためには他人を蹴り落とすことも辞さないような欲望ですから、却って盗んではならないという命令に隠れて巧妙に、またそれだけ陰惨な形で、本来他人に属するものを盗み取ろうとするのです。だんだんそれが巧妙になって、他人から褒められるような仕方で、罪を働くようになります。社会的な不正義、搾取、いろいろな形でこの世界は盗みに満ちています。もし人間が完全に他人のものを盗まなかったら、正義と平和に満ちた世界が実現するはずです。戦闘とか、暴動とか、法律的に罰せられる罪はごく表面の一部に過ぎません。盗んではならないという法律のもとにある社会全体が、常に他人のものを盗みながら成り立っているのです。ここにそういう人間の本性がよく表れています。
 「しかし今は」というのは、キリストにある今はという意味です。今は全然違った力が支配しています。すなわち、神の恵みという力が支配しています。こういうキリストの中にあるということを、今、結婚のたとえで示したように、わたしたちをつないでいた律法から解放されていると表現しています。律法から解放されているということは、もはや外からの命令によって拘束されてはいない。むしろ内に与えられている霊によって、神に仕え、新しい生命に生きることができるようになっているということです。旧い文字というのは律法のことを指し、律法は外からわたしたちにいろいろな命令を与えますが、キリストにあっては、もはや律法の外からの強制ではなく、恩寵によって賜る御霊が、わたしたちの内にあって生きる力となり、神の思いを内に宿らせ、神に仕えることを願う力となって働き始めるのです。

むすび

 今回見てきた六章から七章六節までは、実にただ一つのことを語っています。すなわち、わたしたちはキリストに合わせられている人間であるということです。このことをパウロはいろいろな表現で語ってきましたが、その代表的なものが「キリストの中に入れられる」、「キリストと一緒に死に、一緒に生きている」という表現です。パウロは霊の現実を語るのに、人間の言葉はもどかしくて仕方がないといわんばかりに、様々な言葉を使ってキリストと一つに合わせられているということを語っています。この事実は御霊によってしかわたしたちの内に起こり得ないし、理解し得ないことです。復活された方とわたしたちは一つにされて、新しい生が始まります。これが今までの生まれながらの人間世界の中に始まる全く新しい人間の姿です。
 ここに実は人間の救い、本当の生命の核があります。ここから離れては何もありません。その意味で今回述べたことはまさに福音の中核点になります。わたしたちはそれを目では見ません。信仰によってそれを信じ、現実として受け止めて、感謝し、告白し、その事実に自分を委ねて生きていくのです。今はアダムにあるという古い人の中に、キリストにあるという新しい生命は隠されています。それが必ずはっきりと顕れ出る時が来ることをわたしたちは知っています。また信じています。それが「彼の復活の様に等しくなる」という事態です。あの霊のからだを与えられる、あの復活の様に等しくなるのです。神の信実の故にわたしたちはそれを待ち望むことができるのです。
(天旅 1988年4号、5号)