市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第17講

第U部 神の民の歩み

7 創造の福音

 「初めに、神は天地を創造された」。

(創世記 一章一節 新共同訳)

救済史の初めの業としての創造

 キリスト教会はごく初期の頃から信仰の基準として「クレドー」(使徒信条)を用いてきました。その第一項は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」というものです。創造者なる神を信じることは、わたしたちの信仰の最も基本的な内容の一つです。今回は、神を創造者として信じることは人生にどのような具体的な意味を持っているのかについてお話ししたいと思いますが、その前に聖書の創造信仰の成立について少しだけ触れておきます。
 聖書には最初に天地創造の記事があります。それで聖書は創造信仰から出発しているのだと考えがちですが、実際はそうではありません。創造信仰は聖書信仰の出発点ではなく到達点なのです。聖書を生み出したイスラエル民族は長い歴史の過程を経て、このような創造信仰に到達したのです。
 イスラエルの信仰はもともと、エジプトからの解放という歴史的な出来事の中に働き自らを啓示された神ヤハウェを礼拝し、このヤハウェとの契約関係に生きるものでした。それは、土地の生産力を神とする周囲の諸民族のバール宗教とは根本的に違った性格のものでした。イスラエルの最も古い原初の信仰告白が申命記二六章五〜一〇節にあると言われていますが、これを捕囚後の信仰告白(ネヘミヤ九章六〜三一節)と較べてみますと、古い告白文は天地創造には全然ふれていません。ところが新しい告白文は、同じように歴史における神の救済の業を中心にしていますが、神の天地創造の業から始まっています。このような変化は、バビロン捕囚の体験が決定的な転機になって起こったものです。
 イスラエルにも古くから神が人を造られたという創造の物語はありました。しかし、現在のモーセ五書のように天地創造から始まる壮大な神の救いの歴史を告白する信仰が成立するには、長い歴史とバビロン捕囚という悲惨な体験を経なければなりませんでした。バビロンという異教世界に投げ込まれ、そこでしか生きていけない状況の中で、イスラエルもその世界観に深く影響されました。聖書の天地創造の記事にはバビロニヤ神話の影響が強く残っていると言われています。しかし、イスラエルは無時間的な神話を自分たちの救済史的な時間の枠組みの中に取り込んでしまっております。「初めに」の一句をつけることで、神の天地創造の業を神の人間救済の原初の業であると告白しているのです。この点が世界の創造神話と根本的に違う点です。
 このようにイスラエルが、古くからの創造物語や異教世界の創造神話までも自分の救済史的な枠組みの中に取り入れて現在のような聖書を生み出すことができたのは、預言者の霊的洞察に負うところです。捕囚前すでにエレミヤは、ヤハウェが創造者として歴史をも支配しておられることを見ていました(エレミヤ二七・五、三二・一七)。そして捕囚期に活躍した第二イザヤにいたって、神の創造の業と来るべき救済の働きとの結びつきは最も明瞭な言葉で語りだされるようになります(イザヤ四〇・一二〜三一、四三・一〜七、四五・八〜一三、四八・一二〜二二など)。初めに天地を創造された神が、終わりにその民を完全に贖われる(救われる)のです。そのことを主は、「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいては神はない」と言っておられるのです(イザヤ四四・六)。預言者においては創造信仰と終末的な救済の信仰が一つになっています。「初めに、神は天地を創造された」という告白の背後には、「終わりに」成し遂げられる救済の希望が響きわたっているのです。

神の言葉に対する信仰

 「終わりに」成し遂げられる救済の内容について語る前に、聖書の創造信仰のもう一つの特質に触れておきたいと思います。それは、聖書の創造信仰は神の言葉に対する信仰の表現であるという性格です。この性格はアブラハムの生涯の実例がよく示しています。
 アブラハムはただ神の約束の言葉だけに自分の生涯を委ねて、故郷を去り未知の土地を目指して旅立っていきました。アブラハムの生涯は、神の言葉に自己の全存在を委ねきって生きていくという信仰に貫かれた生涯でした。彼はその信仰によって神が創造者であることを身をもって体験するのです。彼はもう子を持つことができない年齢になっており、妻のサラも不妊の体でしたが、「あなたの子孫はこのようになる」という神の言葉を信じて、ついにイサクを与えられます。アブラハムは「死人を生かし、無から有を呼び出す神」を信じたのです(ローマ四・一七)。
 「無から有を呼び出す」、「存在していないものを呼び出して存在させる」(新共同訳)、これが創造です。神の言葉にはこのような創造の力があることをアブラハムは体験しました。このアブラハムの物語にはイスラエルの信仰が凝縮しています。イスラエルは自分たちの先祖の生涯を語ることによって自己の信仰を表明しているのです。イスラエルは自分たちの神の民としての存在もこのような神の創造の言葉によって呼び出されたものであることを悟っていたのです(イザヤ四三・一)。このような信仰が天地の存在についても貫かれます。「神は『光あれ』と言われた。すると光があつた」。信仰が天地万物の存在も神の創造の言葉が呼び出したものと受け取らせるのです(ヘブル一一・二)。天地創造の記事は、イスラエルの御言葉に対する信仰がついに天地の存在をも包み込むに至ったことの証しです。
 神の言葉が創造する力を持つことを信じる者は、その人生において「因果の鎖」から解放されます。人生は因果の法則に支配されています。原因のないところに結果は生じませんし、ある原因から生じる相応の結果を避けることはできません。この因果の法則が往々にして人生を縛り、堪え難い重荷になることがあります。時には前世の悪因がこの世の不幸になっていると言われます。この因果の鎖を創造信仰は断ち切ります。アブラハム夫妻には子を得る原因は何もなかったのに、神の言葉は無から存在を呼び出す創造の言葉であると信じて、イサクを与えられます。マリアは子を産む可能性が全然ないのに、「御言葉のようにこの身になりますように」と言って、できないことのない神の言葉に身を委ね、イエスを産みます。
 イエスは多くの病気を癒す奇跡を行なわれました。奇跡というのは、因果の法則を断ち切って、全然別の結果を生み出す創造の業です。滅びと死という結果しかありえないところに、神の創造の力によって救いと生命を生み出しておられるのです。イエスはイスラエルの創造信仰を体現され成就しておられるのです。イエスと共に神を創造者と信じる者は、人間の目には不可能と見えることでも、「御言葉ですから」と言って従います。そうすることによって、因果の法則を超える神の創造の力が働く世界、すなわち奇跡の世界に生きるようになります。それは「信じる者は何でもできる」という世界です。
 今わたしたちは福音を信じてキリストと結ばれ、キリストにあって新しい人間とされております。これは神の創造の業です。神への背きという罪しかないわたしたちに、神はキリストにあって十字架による和解を与え、聖霊を注ぎ、その聖霊によって神の子としての像(かたち)を新たに造りだしてくださっているのです。キリストにある者は新しく造られたものであり、神の創造の作品です。わたしたち人間の側には、神の子とする原因は何もありません。無から存在を呼び出される神の創造の業によってはじめて、わたしたちは神の子となることができるのです。

終わりの創造としての復活

 このように、聖書の創造信仰の特質は、第一に創造が救済史の初めの業とされ、対応する終わりの業を予想していること、第二に御言葉に対する信仰の表現であること、この二つにあると思います。それでは、「初めに」天地万物を創造された神が、「終わりに」成し遂げられる業とはどのようなものでしょうか。その終わりの業について御言葉はどう語っているのでしょうか。ここで聖書の構造と内容について詳しく話すゆとりはありませんので、結論だけを申し上げます。
 創造で始まった救済史は、終わりの日の創造で完成します。そして、福音はキリストの復活において終わりの日の創造が始まったことを世界に告知しているのです。復活こそ終わりの日の創造の業なのです。「初めに、神は天地を創造された」という御業に、「終わりに、神は死者を復活させる」という御業が対応します。わたしは旧新約聖書の全体をそう受け止めています。わたしの聖書にはそう書いてあります。イスラエルの歴史(旧約)の中で準備され形成された創造信仰は、キリストの福音(新約)の復活信仰において完成するのです。復活は創造の冠です。
 この初めの創造と終わりの創造の対比を、創造の中心である人間の創造について見てみましよう。初めの創造においては、まず天と地とが造られ、次に天と地に置かれる天体や動植物が造られ、最後に創造の目標である人間アダムが造られます。アダムは土の塵で形づくられた体に命の息を吹き入れられて「生きる者」になり、そのアダムから多くの人が地上に増え広がります。それに対して終わりの創造においては、イエスが死人の中から復活することによってキリストとして立てられ、「命を与える霊」となります。そして信仰によってこのキリストに結びつくことにより、多くの人が神の新しい創造によって神の子とされます。最後に神は死者を復活させ、復活者にふさわしい新しい天と地を創造されます。初めの創造において人間の創造が一人のアダムの姿で描かれているのは、終わりの創造において一人の人キリストの復活によってすべての人の復活が来るという真理を型として予め示すためであつたわけです。ですから、キリストは「終わりのアダム」と呼ばれるのです。
 すでに「キリストは、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死に、また聖書に書いてあるとおり、三日目に復活され」ました。「聖書に書いてあるとおり」というのは旧約聖書にある約束を成就する終わりの日の出来事として起こつたことを意味しています。神はすでにキリストの十字架によって終わりの日の贖いの業を成し遂げ、復活という終わりの日の創造の業を開始されました。キリストはすべて彼を信じる者の初穂として復活されました。福音を信じてこのキリストに結び合わされる者は、キリストにある贖いによって義とされ、キリストの死に合わせられて死ぬことによって、キリストの復活の様に等しくなることを約束されているのです。
 たしかに地上に生きているわたしたちにとって、復活はまだ約束の言葉です。けれども、その約束の背後には神の信実があります。聖書全体の証があります。さらに、キリストにあって賜る聖霊は、イエスを死人の中から復活させた方の霊として、わたしたちの中で復活の保証となってくださっています。聖書という外からの証しと、聖霊という内なる証しは一致します。キリストにある人生は復活の希望に生きる人生です。
 以上見てきましたように、神を創造者と信じて生きる者の人生は、自分の存在を神の創造の業として感謝し、御言葉に従うことによって因果の鎖から解放され、創造の力が働く場に生きるものとなり、そして最後の創造の業としての復活を確かな希望として生きる人生となるのです。創造信仰は復活信仰によって完成します。「わたしは初めであり、終わりである」と言われる神を信じるところでは、創造信仰と復活信仰は一つです。そして、その全体をキリストの十字架における神の愛による贖いの業が支えているのです。

(アレーテイア 25号 1988年)