第二節 荒野の誘惑
荒野の誘惑(4・1〜11)
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、御霊に導かれて荒野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
(四・一〜一一)
荒野の誘惑 ― マタイの状況と視点(4・1〜2)
イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった後、御霊に促されて荒野に入り、そこで四十日間サタンの試みをお受けになったという事実はマルコと同じですが、マタイの「誘惑物語」はサタンの誘惑の内容を三つ具体的に挙げている点で、マルコと大きく違います。マタイが語る三つの誘惑物語の意味を考える前に、マタイがどのような状況で、どのような視点からこの誘惑物語を書いたのかを見ましょう。マタイがあげる三つの誘惑は、順序が違いますがルカにも同じ内容で出てきますので、「語録資料Q」から取られていると見られます。「語録資料Q」は、ユダヤ人同胞にイエスに従うように呼びかける信仰運動の中で、直弟子たちが伝えたイエスの語録を核として、ユダヤ戦争(六六〜七〇年)までの期間に漸次成長して現在の形をとるにいたったと見られていますが、この「誘惑物語」はその中でも最後期に(おそらくユダヤ戦争が勃発した後に)成立したと、多くの研究者は見ています。ユダヤ戦争の危機的状況の中で、故郷の地パレスチナを脱出しなければならなかったユダヤ人が、前途に待ち受けている荒野の中でイエスの弟子としてのアイデンティティを保持するための戦いを、イエスの体験に託して語ったものと考えられます。また、ユダヤ民族存亡がかかる危機的状況で、イエスはどのような意味でメシアであるのかというユダヤ教側からの厳しい問いかけに答えなければならないという一面もあったと見られます。この「語録資料Q」の担い手たちが直面した厳しい状況は、マタイとその読者が直面している状況でもありました。マタイが「語録資料Q」を用いるとき、それはマタイ自身が読者に語りかけたい言葉でもあったのです。
この「誘惑物語」において、イエスはサタンの三つの誘惑を聖書の言葉を用いて退けておられますが、その聖書の言葉がみな申命記からの引用であることがまず注目されます。申命記は、エジプトを脱出したイスラエルが四十年間荒野を彷徨した後、ようやく約束の地を目の前にしたとき、モーセがイスラエルに改めて契約の言葉に聴き従うように求めた言葉です。その申命記においては、荒野四十年の彷徨は、イスラエルが御言に聴き従うかどうかを神が試された期間であるとされています。「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」。(申命記八・一〜二)
マタイは、イエスがユダヤの荒野で断食して祈り、そこで御霊の深い取り扱いを受けられたという伝承を、イスラエルが四十年荒野を彷徨した物語に重ねます。そうすることで、自分たちが地上の旅路で直面する誘惑と試練に、神の言葉に聴き従うことによって打ち勝つべきことを、イエスをモデルにして物語るのです。イエスご自身、その地上の生涯においてこのような誘惑にさらされ、父への従順によって打ち勝たれたのでした。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒にいてくれた者たちである」。(ルカ二二・二八)
以下に見るように、この三つの誘惑ないし試練の物語は、イエスがその生涯において体験され、一緒にいた弟子たちが見た誘惑・試練の要約でもあるのです。イエスが荒野でサタンの誘惑に打ち勝たれた事実は、マルコが簡潔に伝えています(マルコ一・一二〜一三)。このことの意義については、「マルコ福音書講解」の当該箇所で詳しく書きましたので、ここではマタイに特有の問題に限定して講解します。なお、この段落は《ペイラスモス》について語っていますが、この語には「誘惑」と「試練」という二つの意味があります。この二つの意味については、「主の祈り」を講解した前著『マタイによる御国の福音』293頁を参照してください。
石をパンに変えよ(4・3〜4)
イエスは「四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」とあります。普通わたしたちは一日か二日も断食すれば耐え難い空腹感を覚えますので、この表現は不思議に思われます。しかし、断食は数日続けると、食事をしないことが自然になって、あまり空腹を感じなくなります。ところが、断食も四十日近くなると、飢餓状態になり回復不能な衰弱に陥ります。イエスはこの人間の限界ぎりぎりのところまで行かれたのです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。(申命記八・三)
イエスは自分の命を救うことよりも、神の言葉に従うことを優先させられるのです。マタイは、このようなイエスを語ることによって、荒野に旅する主の民に同じ生き方と覚悟を促すのです。神殿で(4・5〜7)
次に「誘惑する者」(ここでは「悪魔」と呼ばれています)は「イエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて」言います。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。現実にはイエスは荒野におられます。しかし、イエスの内面に起こった誘惑と戦いを、マタイは実際の光景のように描きます。ここでも再び「神の子なら」ということが問題になっています。すなわち、もし自分がメシアであるというのであれば、神殿の屋根から飛び降りて無事であることを見せれば、民衆は信じるであろうというのです。当時のメシア待望においては、神殿がメシアの栄光が現される場所とされていました。悪魔は聖書の言葉(詩編九一編一二節)を引用して誘惑します。ファリサイ派の人たちや律法学者たちも、彼らのメシア神学からしばしばイエスにメシアのしるしを要求しています。実際、チウダという自称メシアは一撃でヨルダンの水を分けると豪語して民衆を集め、魔術師シモンは空中を飛んでみせると言って高い建物から飛び降りて墜死したという伝説があります。このような伝説は、当時のメシア待望の雰囲気をよく伝えています。ただ主に仕えよ(4・8〜11)
次に「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて」、言います。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」。これもイエスが内面において戦い、その生涯を通して戦われた戦いを物語にしたものです。「国」《バシレイア》とは支配のことです。地上のすべての民と富を思うままに支配する権力を与えようというのです。これこそ英雄たちや王たちが切に求め、死力を尽くして戦い取ろうとしたものに他なりません。その権力を獲得するためには、他者を支配するむき出しの力を最高の原理として、すなわち神として拝まなければなりません。それは神に敵対する力を神として拝むことです。サタンを拝むことです。ユダヤの荒野におけるイエス
「誘惑物語」がどのようにして成立したのか、またその内容と意義については多くの議論があります。しかし、イエスがユダヤの荒野で決定的な霊的体験をされて、「神の国」告知への召しを受けられたことは確かであると考えられます。共観福音書によると、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受け、ユダヤの荒野で霊的体験を深め、ヨハネが投獄された後、ガリラヤに退いて独自の福音告知活動を始められたことになります。ユダヤ地方でヨハネと一緒におられたのがどのくらいの期間であったのかは分かりませんが、ある程度の期間ユダヤ地方で洗礼者ヨハネの運動に参加しておられたことは十分推察できます。