市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第89講

89 変容

 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

(コリントの信徒への手紙U 三章一八節)


 救いの実質は変容《メタモルフォーシス》です。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられる」ことです。救いとは無罪の判決を受けるだけのことではありません。ただ将来の救済を待っているだけではありません。霊なる主の働きによって、栄光から栄光へと変容される現在の過程です。その過程は、主に合わせられて鏡のように主の栄光を反射させて生きている者たちの内にすでに始まっています。「死者の復活」の希望は、この「主と同じ姿に造りかえられていく」変容の過程の完成であり、現在の変容を終末のスクリーンに投影したものです。
 パウロは、モーセの律法を読むユダヤ教徒の心には覆いがかかっているので、この霊なる主の働きよる変容にあずかることができないのだと言っています。現在のキリスト教会はどうでしょうか。キリスト教会は長い歴史の中で霊性に覆いがかかり、「霊に仕える」のではなく「文字に仕える」宗教になっていないでしょうか。世界には多くの宗教がありますが、少なくとも、武力で押しつけたり、自分と違う教義を持つ者を迫害し殺すような宗教は、神の栄光を映し出す宗教とは言えません。
 現代は宗教間の対立が激しくなり、現実に殺し合いが行われています。人間を救うはずの宗教が殺し合いの口実になっていることほど深刻な悲劇はありません。宗教間の衝突を克服するには、対話くらいでは無理でしょう。宗教自身が変容しなければなりません。
 キリスト教もユダヤ教もイスラム教も仏教も、組織化し体制化した宗教は、人間の自我心とか支配欲という覆いがかかっていて、その宗教が本来目指しているはずの人間性の変容という目的を見失っています。キリスト教は、自我心の固まりである人間を、自我が砕かれ、イエスが説かれた敵を愛する愛に生きる人間に変容する力とならなければなりません。他の宗教も、それぞれの仕方で人間性を同じように変革する力であることを示さなければなりません。そうなって初めて、宗教が「文明の衝突」を克服する力となり、最大の祝福となるのです。

                              (二〇〇〇年一号)