市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第94講

94 和解と摂理

わたしをここに遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。

(創世記 四五章八節)


 創世記三七章以下のヨセフ物語を読んでいて、エジプトの宰相になっていたヨセフが、食料を買いに来た兄弟たちに身を明かして抱き合って泣くところ(創世記四五・一〜一五)まで来ますと、深く感動します。自分を奴隷として売り飛ばした兄弟たちが、飢饉に追われて食料を買いに来たとき、兄弟たちを迎え入れて語った言葉がこれです。
 この言葉は、神の摂理を語るもっとも美しい物語とされるヨセフ物語の頂点をなす言葉です。「摂理」というのは、前もって見通して配慮するという意味の語に相当する日本語です。すべてを前もって見通される神が、アブラハムの子孫の命を救うために、兄弟たちの敵意を用いて、奴隷に売るという形でヨセフを先にエジプトに遣わされたのだ、とヨセフは言っているのです。
 わたしたちは神の摂理の下にあります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益(善)となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ八・二八)。人生にはさまざまな形で思いがけない悪いことが起こります。しかし、わたしたちキリストにあって神の愛を知る者は、善そのものでいます神は、その悪をも善に変えることができる方であることを信じています。キリストにある者は究極のプラス思考に生きる者です。
 神の摂理を語るヨセフ物語は、同時に美しい和解の物語でもあります。ヨセフが兄弟を赦し受け入れて和解していなければ、「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変えてくださったのです」(創世記五〇・二〇)と言うことはできなかったでしょう。わたしたちも、隣人と和解せず敵対関係にとどまるかぎり、悪は善に変わることなく、憎しみと復讐の対象として悪のまま残ります。そこでは神の摂理を信じることはできません。和解は摂理への信仰が成り立つ場です。
 隣人と和解するためには、わたしたちがまず神と和解していなければなりません。神から賜っている和解の場で隣人と和解するとき、万事を善に変えてくださる神の摂理を信じることができるようになるのです。わたしたちの目には悪と見えることも、和解の場では、神の摂理の下で善になると信じることができるのです。

                              (二〇〇〇年六号)