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77 ここにはおられない

 なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。

(ルカ福音書 二四章五〜六節)


 これは、イエスの遺体を葬った墓を訪れた女性たちに、天使が告げたとされる言葉です。「ここにはおられない」という言葉は、イエスを葬った墓だけでなく、「歴史」の全体に刻印されている言葉です。地上のどのような出来事も、過ぎ去ってしまうと「歴史」という墓の中に葬られて、そこに「生きておられる方」を見出すことができない領域に入ってしまいます。イエスの生涯の出来事も同じです。地上のイエスの歴史的事実をどれほど正確に探求しても、そこに復活者キリストを見出すことはできません。
 では、復活者キリストはどこに見出すことができるのでしょうか。それは、イエスを死者の中から復活させた方の御霊が働いておられる場です。キリストを告げ知らせる福音の言葉が、信仰によって語られ、信仰によって聴かれる場です。復活者キリストに出会うことは、現在、ひとり一人の内に起こる現実です。復活者は今あなたの内側にこそ探し求めるべきなのです。
 復活者キリストに出会い、現在キリストと共に生きているとき、過去のイエスを伝える物語も、「ここにはおられない」と刻印された歴史ではなく、現在生きておられるイエスの物語となるのです。福音書は、このように復活者キリストと共に生きる場で生み出され、同じ場で聴かれるべき物語です。
 ところで、復活者キリストと出会う本来の場所は教会です。教会は、キリストの福音が説かれ、信じる者の交わりが現成している場です。ところが、もし教会が、御霊の働きを見失って、教会の伝統とか歴史に安住し、過去のイエスを説くだけになってしまっているならば、それは教会自身が「歴史」になってしまっているのであり、その門には、「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。その方はここにはおられない」という言葉が刻みつけられることになります。
 いま世界は魂の不安と苦悩の色を濃くしています。その中で、わたしたち主イエス・キリストを信じる者は、祈りを新たにし、その交わりの中に御霊の働きを深めて、人々がそこで復活者キリストを見出すことができる場を形成しなければならない時です。

                              (一九九八年一号)