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62 裏返しのキリスト

「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』、『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない」。

(マルコ福音書 一三章二一節)


 三月の東京地下鉄サリン事件と上九一色村のオウム教団施設の強制捜査以来、連日オウム事件が新聞やテレビのトップニュースにならない日はないほどです。捜査が進むにつれて、サリン製造をはじめ、近代兵器による武装に狂奔する教団の実態が明るみに出てきて、日本の社会は深刻な衝撃を受けました。これは戦後五十年で最大の不気味で魂を震撼する事件です。
 この事件が現代日本の社会を写す鏡であり、混乱を極める現代世界の病理の症候であり、背後に得体の知れない深い暗闇があることは、多くの識者が語り尽くしているので、ここではわたしたちキリストに従う者にとって意味するところだけに絞って考察します。
 冒頭に掲げた言葉は、イエスが終わりの日について語られたた言葉の一つとして伝えられているものです。イエスは、終わりの日にはキリストを名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」と言って、多くの人を惑わすと言っておられます(同章六節)。神の支配が実現する前に起こる混乱の時代に、多くの「反キリスト」が出現することを予言しておられるのです。
 「反キリスト」とは、キリストを攻撃する勢力の頂点に立つ者のことではありません。ここでキリストにつけられている「アンティ」という語は、反対を意味するよりは、対抗を意味する語です。キリストとしてのイエスに対抗して、みずからをキリストとする者のことです。
 オウム真理教の麻原教祖は、一九九一年に「キリスト宣言」を出して、自分だけが世界を救済することのできる「救世主・キリスト」であると宣言した。まさに典型的な「アンティ・クリストス」です。彼はイエス・キリストに反対し、キリスト教会を攻撃したのではありません。イエス・キリストに対抗して、みずからをキリストとした「対抗キリスト」なのです。
 イエス・キリストも麻原・対抗キリストも、救済者キリストとして人々の信従を期待あるいは要求する点では同じです。たとえば、終わりの日に備えるように説くとか、キリストに対する結びつきが親子や家族の縁よりも重視されるなど、相似形をしている面が多くあります。しかし、イエス・キリストと麻原・対抗キリストとでは、みずからをキリストとする原理が根本的に異なります。いや、逆です。両者は水平の線を対称軸とする上下の対称図形です。麻原は「裏返しのキリスト」なのです。
 イエスは世界の人々の苦しみをみずから背負うことによってキリストとなられた。それに対して、麻原は人々の苦しみを踏み台として世界を支配する者になろうとしました。イエス・キリストは敵をも愛し、その救いを祈るように求められた。麻原・対抗キリストは、敵対するこの世の人間は無差別に殺すことが世界救済の道だと説いた。イエスは終わりの日がいつ来るのかを計算することを厳しく禁じ、現在神の慈愛に生きることだけを求められた。麻原は世界破局の日を二一世紀初めからだんだんと接近させて、最近では一九九五年だとするにいたり、最終戦争において自分たちだけが生き残るために大量殺戮兵器を準備しました。イエス・キリストは人の下に立って仕えることにより、人を自由の中に生かす道を説かれた。麻原・対抗キリストは詐欺と暴力によって人格を破壊し、人を自分の奴隷ないしロボットにして支配しました。
 それにしても、このように露骨な「裏返しのキリスト」に多くの純真な青年が心酔して従っていったという事実は、わたしたちに真剣な反省を迫ります。対抗キリストが出現するのは、救済者を求める魂の飢餓があるからです。画一化された社会から疎外された若い魂が、真実の人間としての生き方を模索して呻いているのに、彼らの魂の叫びに応えられなかった既成宗教や教育機関など、社会体制側に大きな責任があります。
 わたしたちも、十字架・復活の主イエス・キリストの福音にしっかり固着することにより神の聖なる御霊に導かれ、このような暗闇の霊に惑わされることなく、真理と偽りを見分けて、命の細い道をしっかりと歩み抜かなければなりません。そして、そうすることによって、救いを呻き求める魂の叫びに応えていく責任を果たさなければならないと痛感します。

                              (一九九五年三号)