市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第45講

45 驚くべきことをなされる神

あなたの道は海の中にあり、
あなたの通られる道は大水の中にある。
あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。

(新共同訳 詩編 七七編二〇節)


 詩編七七編は、深い霊的苦悩の中から、いにしえの主の奇跡を思い続けることによって、賛美に導かれた魂の告白であるが、その最後の賛美の部分にこの言葉が出てくる。
 個人的な苦境か民族的な危機かわからないが、詩人は大きな苦難の中にいる。しかし、彼の苦悩はその苦難の大きさではなく、そのような苦難の中に民を放置される神のお心が分からなくなってしまい、信仰の根底が揺るがされていることにある。彼は叫んでいる。「主はとこしえに突き放し、再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。神は憐れみを忘れ、怒って、同情を閉ざせれたのであろうか」(八〜一〇節)。
 その魂の苦悩の中で、詩人はいにしえの主の御業を思いめぐらす。「わたしは主の御業を思い続け、いにしえにあなたのなさった奇跡を思い続け、あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら、あなたの御業を思いめぐらします」(一二〜一三節)。イスラエルの民にとって「いにしえにあなたのなさった奇跡」とは、出エジプトの時の様々な奇跡、とくに葦の海の水を分けて民をエジプトから救出された主の御業を指す。イスラエルの魂にとっては、そこしか帰るところはない。あの奇跡こそ、イスラエルの信仰の原点、いや存在そのものの原点である。そこに立ち帰るとき、「あなたは奇跡を行われる神」(一五節)という告白が自然に出てくる。そして、この告白こそ苦悩が賛美に変わる転換点なのである。神が奇跡を行われる神、すなわち人間の思いをはるかに超えた業をなされる方であるから、信仰者は自分の思いがどのように混乱と苦悩の中にあっても、神を賛美することができるのである。
 「奇跡」という語はもともと、多くの言語で(ここのヘブライ語でも)「驚くべきこと」という語である。奇跡とは、人間の今までの経験では理解できない、ひたすら驚くほかはない出来事である。「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある」というのは、直接には葦の海の出来事を指しているのであろう。しかしこれは、神がその業を成し遂げられる仕方はとうてい人間の理解が及ばない深みにあることを告白する言葉でもある。「あなたの踏み行かれる跡を知る者はない」。人間は、神が御業を成し遂げられる仕方を、後で理解したり説明することはできないのである。神の業はひたすら「驚くべきこと」として語り伝えられねばならない。
 福音書はイエスの驚くべき業を多く伝えている。何よりも驚くべきことは、イエスが死者の中から復活されたことであり、その十字架の死がわれわれの罪のためであるという事実である。福音はその全体が「驚くべきこと」である。それは個人にとって驚きであるだけでなく、世界にとって驚きであり、人類の歴史にとって驚きである。われわれは人生の苦難や歴史の危機に直面して魂が苦悩するとき、このキリストの十字架と復活という原点に立ち帰って、そこに神が驚くべきことを成し遂げてくださっていることを見る。キリストにあってこの苦悩の塊のような自分が救われているという奇跡を見るのである。そして、「あなたは驚くべきことをなされる神」と告白し、その神がこれから驚くべきことをなして栄光を現されることを待ち望むのである。
 世界は科学的に説明できることだけで成り立っているのではない。歴史は人間の経験で説明できることだけで進んでゆくのではない。世界には驚くべきことが起こる。人間の知識や経験で説明できないことが起こる。そこに神が現れる。われわれはイエス・キリストの福音という驚くべき出来事を説明しようとはしない。この驚くべきことをひたすら驚くべきこととして語り伝えて、そこに神の救いがあることを宣べ伝えるのみである。神はこの福音を信じる者に、聖霊を与えてその身に驚くべきことをなされる。信じる者は奇跡の世界に入り、そこに生き、「あなたは驚くべきことをなされる神」と告白し賛美する。

                              (一九九二年四号)