市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第40講

40 日々わたしたちを担う神

主をたたえよ、
日々、わたしたちを担い、救われる神を。
この神はわたしたちの神、救いの御業の神、
主、死から解き放つ神。

(新共同訳 詩編 六八編二〇〜二一節)


 昔、イスラエルの民は自分たちの神ヤーウェをこのようにたたえました。ヤーウェは聖なる神であり、聖なる宮に住まわれます。汚れた唇の人間が近づくことも見ることもできない神、人間の世界からは隔絶したところにいます神です。「聖」というのは本来この人間世界からの隔絶を意味しています。その聖なる神を、イスラエルの民はこのように日々の生活において自分たちを担ってくださる神として体験していたのです。イスラエルは小さな国であり、いつも周囲の大国の脅威や支配にさらされ、民の生活は苦しいことが多かったのです。その苦しい日常生活の中で、彼らはひたすら御名を呼び求めてきたのです。そして、人間の力をはるかに超える不思議な形で危難から助け出されたり、どうにもならない絶望的な状況で内面に天来の力がきて希望を与え、倒れないように支えられていることを体験したのです。聖なる宮にいます聖なる神が、日々の生活の中に働いて自分たちを救い、担っていてくださることを体験したのです。この神の二面性の体験、すなわち世界から隔絶した聖なる神の認識と、日常生活の中で自分たちと一緒にいてくださる神の体験が、イスラエルの宗教体験の特色であると言えます。
 日常生活の最後には死があります。イスラエルの民にとって死は忌まわしいものでした。死後のことはよくわかりませんから、死は地上での愛する者たちとの交わりから絶たれるだけでなく、ヤーウェとの生ける交わりからも絶たれて、忘れさられた影のような世界に行くことだと考えられておりました。ですから、死は地上に生きる者を不安と恐れとによって捕らえる力であると意識され、「死の縄」という表現で語られました。イスラエルの信仰深い魂は、日々の生活で自分たちを担ってくださるヤーウェは、この「死の縄」からも解放してくださることを確信し、かつ希望して、このようにたたえたのです。
 いま、わたしたちは主イエス・キリストをたたえます。この方こそ「わたしたちの神」、「日々、わたしたちを担い、救われる神。死から解き放つ神」です。キリストは復活して天におられます。わたしたちは地上にいて、朽ちるべき体をもって生きています。キリストがいます復活の次元とわたしたちの世界とは隔絶しています。しかし、このキリストはナザレのイエスとして、ひとたび地上の人間の生活のただ中に入ってこられた方です。律法によって疎外され、病気や悪霊に捕らえられて苦しむ者たちと一緒にいて、彼らを助け担われた方です。それだけでなく、いまキリストは御名を呼び求める者の中に聖霊として来たりたまい、信じる者の中に働き、日々の信仰生活を担ってくださっています。わたしたちの魂が疑いや不安で苦しむとき、岩のような神の信実を示し、わたしたちの心が孤独と暗黒に沈むとき、燃える愛を注ぎ、人の思いを超える不思議な力で病気や行き詰まりを突破させてくださり、日々わたしたちの生活を担ってくださっています。わたしたちも、復活者としてこの世界から隔絶したまったく別の次元にいますキリストを、地上の日々の生活の中で体験しているのです。
 このキリストはわたしたちを「死から解き放つ神」です。キリストはすでに復活して、死に打ち勝っておられます。このキリストが死の恐れに捕らえられている者を解放してくださるのです。たしかに、わたしたちは死後の世界の様子は知りません。しかし、今はそのことが不安ではありません。地上の日々の生活でキリストの愛と信実とその力を体験している者は、その同じキリストが彼方の世界でも一緒にいてくださることを知っているからです。こうして、キリストは現在すでにわたしたちを死の不安や恐れから解き放ってくださっています。死は刺を抜きさられているのです。さらに、このキリストは終わりの時に、わたしたちを眠りから呼び覚ましてくださいます。すなわち、キリストに結ばれている者を死者の中から復活させて、死の領域から最終的に解き放ち、ご自身と同じ姿にしてくださるのです。それがどんなに栄光に満ちた世界であるか、想像もできません。しかし、その時のことを思い熱く燃えるものが内にあるのです。

                              (一九九一年六号)