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44 地の盾

諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民となる。
地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。

(詩編 四七編一〇節)


 最近ある大学で学生の意識調査をしたところ、「地球はあと何年くらいもつと思いますか」という質問に、六割ほどの学生が「千年くらい」と答えたという。「十年」と答えた学生も数パーセントいたともいう。この話を聞いて、現在の地球環境の汚染と破壊の深刻さに改めて思いを致すことになった。千年といえば地球が人類の生活環境になっていた何百万年の期間から見れば一瞬の時である。千年と答えた人たちは科学的な根拠があって計算したわけではなく、なんとなくそう思っているに過ぎないのでろう。しかし、そのような意識が生じている事実が重要で深刻なのである。これまで人類は、地球が自分たちの住処でなくなるかもしれないということを心配したことも意識したこともなかった。このような意識はここ十年くらいのものであろう。現在、人類は自分たちの唯一の生存の場である地球環境の崩壊を真剣に心配しなければならなくなっているのである。このことは、この六月にブラジルのリオで開かれた「地球サミット」がもっとも雄弁に物語っている。
 このような現状に心を痛めながら聖書を読んでいて、この詩編の言葉に出会った。この詩編四七編は「即位詩編」の一つで、神が王として全地に君臨されることを歌った賛美の詩編である。その詩編の最後に「地の盾となる人々」のことが語られる。いったい「地の盾となる人々」とはどういう人たちのことであろうか。盾は敵の攻撃から身を護る武具である。「地の盾となる人々」というのは、破壊的な攻撃にさらされている「地」を護るために、その攻撃に立ちはだかる人々である。最近テレビで、世界各地のNGO(非政府組織)の諸団体が環境を護るために地道な活動を続けている様子を見て、深い感銘を受けた。彼らのような人たちはまことに「地の盾となる人々」である。経済発展と開発を至上の価値としがちな政府も、いまや彼らの声を無視することはできなくなっている。彼らは権力に支配されている民ではなく、自由な地球市民として発言し行動する人々である。彼らは「諸国の民から集められた自由な人々」であり、神が創造された麗しい地を護るために、「神のもの」として立つ人々である。彼らの宗教は様々であるが、彼らこそ「アブラハムの神の民」ではなかろうか。
 環境保護運動の合言葉は「自然の神聖視」である。自然を人間の欲望充足のための材料や道具を提供するものと見るかぎり、自然の破壊をとどめることはできないであろう。自然を人間がその中に生きるために人間と共に創造されたものと見て、その創造者に対する責任を自覚するときに初めて、自然を神のものとして尊ぶことができるであろう。生活の便利さのために使うガスで天に穴を開けたり、玉転がしの遊びのために科学物質で広大な土地や川を汚染するなどは、もってのほかである。われわれ、とくに先進国と呼ばれている地域の者たちは、悔い改めなければならない。すなわち、生活の方向を一八〇度変えて、繁栄や利便のために自然を略奪するのではなく、自然を護るために自分の生活の豊かさと便利さを制限する覚悟をもたなければならない。それが地を創造された方を敬う道である。
 今までキリスト者は「地の塩」であることを求められてきた。その場合、「地の塩」というのは人間社会の腐敗を防ぐ役割を指していた。いまやキリスト者は同時に「地の盾」となることが求められている。その場合の「地」は人間社会ではなく、それが存立する地球そのものである。神が人間の住まいのために創造された「地」そのものである。それが崩壊すれば、人間社会そのものが成り立たないのである。人間社会(歴史)と自然は深くからみあっている。東西の冷戦が終った後に露呈してきたものは、南北の対立であり、民族間の紛争であり、地球そのものの危機であった。いま人類は相争っている暇はない。対立の中で蓄積したすべての剣と槍を打ち変えて「地の盾」を構築し、総力をあげて貧困や汚染と戦い、美しい地を保持し、そのことによって創造者を崇めなければならない。世界はいま危機に目覚めている。キリスト者はその自覚を創造者への畏敬へと導く責任がある。

                              (一九九二年三号)