市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第41講

41 歴史を支配する神

 「(それは)マナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった」。

(列王記下 二四章四節)


 一九九一年は激動の一年であった。湾岸戦争で始まり、ソヴィエト連邦の解体という世紀の大事件で終るこの一年は、まさに歴史が音をたてて転換する年となった。潮流が大きく曲がるときには渦が起こるように、歴史の大きな転換にともなって各地に紛争と混乱が引き起こされ、そのために多くの人々が傷つき殺され、故郷を追われて難民となり、生活の困窮に喘ぐようになったのは、まことに胸痛むことであった。今年はテレビのニュースや解説番組にかじりつく時間が多い年となった。
 テレビで専門家の解説を聞いて、民族的、政治的、経済的、宗教的な状況の説明を聞くと、今まで知らなかった歴史の現実を見るようで、なるほどと納得し、目が覚めるような思いをしたことも度々であった。この一年、テレビを見たり、新聞を読むたびに、世界の激変に驚き、新しい情報に興奮し、民衆の悲惨に胸を痛めたりしたが、その間、通奏低音のように心の奥に響く声があった。それは静かで低い声であって、ともすれば劇情の叫びと悲惨のうめきにかき消されそうになる時もあった。しかし、その声はかき消されることなく、だんだんと強く聞こえるようになってきた。それは、この世界の歴史を支配しておられる神がいます、という確信の声である。人間が理解したり、できなかったりする政治や経済の理由の背後に、歴史に対する神の支配が貫かれている、との認識である。
 そのことを痛感した例を一つだけあげる。ソ連の状況の激変にともなって、今年はとくにソ連に関する報道が多かったが、その中でとくにスターリン時代の「粛清」の事実に改めて衝撃を受けた。スターリンは権力を維持するために数千万人の国民を「粛清」したと言われる。何の罪もない人々を殺し、シベリヤの抑留所で餓死凍死させたのである。彼は罪のない人々の血でロシアの大地を満たしたのである。このような血の上に立つ権力は存続できるはずがない。かならず滅びる。それが滅びるところに、神の歴史支配があらわになる。ソ連の混乱と解体の報道を聞く時、いつもスターリンの虐殺と冒頭にあげた聖句が思い起こされた。この聖書の言葉は、ユダ王国が紀元前五八六年にバビロンによって滅ぼされた事件を語る歴史書の言葉である。マナセは王国滅亡のすこし前に五十五年間にわたってユダ王国を治めた王である。この長い治世の間に、彼は「罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムの端から端まで満たした」のである。「列王記」を書いた歴史家は、ユダ王国の滅亡はこのマナセの罪のためだと見ているのである。この歴史家は事実を記録するだけの歴史家ではない。神が歴史を支配しておられるという預言者たちの精神を受け継いで、その視点から国の歴史を書いている。彼の目には、ユダ王国の滅亡は、歴史を支配される主がこのマナセの罪を赦そうとされなかった結果であることが、はっきりと見えている。罪のない者の血を流すことを決して赦されない方が歴史を支配しておられる。この事実を認めることは人間の厳粛な義務である。
 これは他人事ではない。わたしたちの国も、先の大戦で多くの罪のない人の血を流したのではなかったか。たしかに、そのようなことを行った軍国主義日本は滅んだ。戦後の日本はその罪への悔い改めの上に成立したのである。その繁栄は、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とした」こと、すなわち平和に徹して血を流すことを止めたことに対する神の祝福である。しかし、この国が繁栄に再びこころ高ぶり、社会主義の挫折を資本主義へのお墨付きだと勘違いして、ひたすら資本の論理に従い、企業の利益を追求して、国内国外の弱い立場の人々の血の汗を搾り取り、声なき自然を破壊するようなことを際限なく続けるならば、「小さい者」の味方である神は、決してその罪を見逃されないことを肝に銘じるべきである。神を畏れるとは、そのような神が歴史を支配しておられることを認めることである。現在の日本はマモン(富)という偶像を拝み、歴史を支配する神を恐れることがない。今こそ、この国はへりくだって、聖書に学び、その預言者たちの言葉に耳を傾けるべき時である。

                              (一九九一年七号)