市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第22講

22 人の心から

「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」。

(マタイ福音書 一五章一一節 新共同訳)


 何が「清い」ものであるか、何が「汚れている」のか。これは厳格な宗教社会に生きるイスラエルの人たちにとっては大問題であった。本来、「清い」とか「汚れている」というのは神との関わりで問題になることである。聖なる神とは性質が相反するため、神から忌み嫌われ退けられるものが「汚れたもの」であり、そのような「汚れ」がなくて神に受け入れられるものが「清いもの」である。宗教は「汚れ」を除いて人を「清いもの」にする方法であるとも言える。宗教に熱心な人たちは自分を清いものにするために最大限の努力をする。ところが、自分で努力して清くなった人たちは、熱心であればあるほど厳しく、清くない人を批判し、軽蔑して退け、断罪する。イエスの時代のパリサイ派の人たちはその典型である。本来神との関わりの問題である清さと汚れが、人を差別し、拒否し、断罪する根拠になってしまう。一般に宗教熱心な人々は、自分たちはその宗教によって清いものであり、その宗教を持たない異教徒は汚れたものであるとして、差別し、軽蔑し、力ずくで改宗させ、時には抹殺しようとさえする。
 現代世界はそのような宗教的偏狭さから解放され、もはや宗教による差別や断絶はなくなっていると言えるであろうか。たしかに、「汚れている」というような宗教的な用語で人を差別することはない。しかしなお、人種とか身体的障害とか職業とか人の外面に属する事情で、人を判断し、差別し、交わりを拒否することはいくらでもある。現代の人間はなお、このイエスの言葉を真剣に聴かなければならない。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない」。何を食べようが、誰に、また何に触れようが、その体でどのような仕事をしようが、体にどのような特色や障害があろうが、体の外から入ったり見えたりするものは一切、人間の価値を低くしたり、神との交わりを妨げたりすることはない。
 「口から出て来るもの」、すなわち「人の中から出て来るもの」が人を汚すのである。口から出て来るものの第一は言葉である。言葉は人の中から、すなわち心から出て来る。自分は清い、立派だと自負する人が他人を軽蔑し差別する言葉を発する時、それはその人の傲慢な心から出て来ている。その傲慢な心こそ神が最も忌み嫌われる「汚れたもの」である。人間の悪は言葉であれ行為であれ、すべて心から出て来る。それが人間を神の清さと栄光に値しないものにしている。心から出てくるものが善いものだけという人間はいないからである。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ一七・三 協会訳)。
 杯の外側を清めて内側を清めない者は愚かである。人間は外面の行為を立派にすることによって心を清めることはできない。外側を立派にすればするほど、心は自己中心の傲慢という根源的な悪に陥るものである。人間の心を清めることができるのは神の御霊だけである。御霊から出て来る信仰と愛と希望だけが清いものであって、神に喜ばれ、人と人との交わりを完成する。イエスのこの言葉は現代世界にも語りかけている。「皆、わたしの言うことを聴いて悟りなさい」。

                              (一九八九年一号)