市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第6講

6 神はわが味方

主がわたしに味方されるので、恐れることはない。
人はわたしに何をなし得よう。

(詩編 一一八編六節)


 生命は常に戦いながら生きる。わたしたちが今生きている肉体の生命も、それを滅ぼそうとする様々な力と戦いながら生きている。医学はこの戦いの実相を解明し、生命が滅ぼそうとする力を克服して生きることを助けようとするものである。しかし高度に発達した現代医学をもってしても、生命の神秘とそれを妨げる力の実態は解明し尽くせないように思われる。医学の部分的な勝利にもかかわらず、全体としては最後の敵である死を克服することはできない。医学もその他いかなる人の知恵も、人間が「時」の中にあるという現実を変えることはできないからである。
 霊の生命も同様に戦いの中に生きている。信仰によってわたしたちの中に誕生した霊の生命は、御言という糧を食べ、御霊という気を呼吸してキリストにあって日々成長していく。その生命は肉体の死にも妨げられることなく、創造者から新しい「霊のからだ」を与えられて完成する。このように復活を目指して生きる霊の生命も、それを滅ぼそうとする様々な力と戦いながら生きなければならない。今もなお神に敵対する霊が活動を許され、わたしたちを神の子という尊い地位から引きずり下ろし、神から賜っている永遠の生命を壊そうとして働いているからである。
 わたしたちの敵サタンは実に様々な形でわたしたちを攻撃する。病気や災害などの不幸、人生の苦悩や患難、死への不安や恐れを用いて、神の愛に心を閉ざさせ、神の言を疑わせ、神との交わりを妨げる。信仰を告白する者を権力を用いて迫害し、キリストを否定させようとする。サタンは神の良い賜物を用いて悪を為す。良い物を賜った者を傲慢や御言への無感覚に陥れ、霊の生命を枯渇させる。時には直接わたしたちの霊を攻撃して、理由の無い不安や懐疑に陥れ、神の御顔を隠してしまう。
 しかし恐れることはない。「神がわたしたちの味方である以上、誰がわたしたちに敵し得ようか」(ローマ八・三一以下)。親が自分の生命を受けた子を愛し、その子のためにはどんな事でもしてやるように、神はわたしたちの味方として、この霊の戦いにおいてわたしたちを助けてくださるのである。神は御自身の御子をさえ惜しまず、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたである。どうして最終的な勝利のための力添えを惜しまれることがあろうか。
 神はわたしたちを訴える方ではない。サタンの訴えに対して、神はキリストにあってわたしたちを義とされる。キリストがわたしたちのために死に、わたしたちのために復活し、神の右にあってわたしたちのために執り成して下さっているからである。しっかりとキリストに結び付いていよう。このキリストの愛、キリストにおける神の愛の中に守られ、この霊の戦いにおいてわたしたちは勝ち得て余りがあるのである。

                              (一九八七年二号)