市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第7講

7 生きる力・生かす力

最初の人アダムは生ける魂(プシュケー)となったが、
終わりのアダムは生かす霊(プニューマ)となった。

(コリント人への第一の手紙 一五章四五節 私訳)


 不治の病におかされた人の闘病記録を読むと感動する。そこでは、死に直面したぎりぎりの状況の中で、「生きる」ことへの問いが真剣に問われており、生きようとする意志が強烈に現れているからである。また最近老人問題が多く論じられているが、それも結局は「生きる」ことの問題である。肉体の生命と機能が衰え、社会的にも疎外されるという状況の中で、人間として生きるとはどういうことかが改めて問われているのである。
 このように生が否定される状況に至っては、否応なく生の問題が自覚されるようになるが、そのような状況を待つまでもなく、人間の精神は本来自己を自覚し、自覚的に生きるように造られている。たしかに精神は「何のために生きるのか」、「よく生きるとはどういうことか」と問い、それを解決し、肉体が死に直面するときもそれを超えて生きる力を与えられている。この体は土のちりで造られたが、神の命の息が吹きこまれて、人は「生きるプシュケー」となった。「プシュケー」とは精神、魂、生命を意味する語である。人は動物のように単に「生きているからだ」になったのではない。「生きている魂」になった。この肉体は「魂に属するからだ」として、この魂のいのちに与って生きているのである。だから人はよりよく生きるために、からだの健康に留意しつつも、究極的には生きる力を精神とか魂に求めざるをえないのである。
 しかし生きる力としての魂には限界がある。魂には永遠の生命はない。魂は取り去られ、魂に属するからだは土に帰る。魂は生命の根源である神から離反しているからである。人を真に生かすものは魂(プシュケー)ではなく霊(プニューマ)である。魂と霊はよく似ているが全然別のものである。魂は生まれながらの人間に固有の生命であって、地に属する。霊は天からのものであって、神に属する。魂は自ら生きる力を与えられているが、限界がある。霊こそ人を真に生かす力である。人は神からの霊を受けてはじめて永遠の生命を持ち、霊に属するからだを与えられて復活の栄光に達する。魂に属するからだがあるのだから、霊に属するからだもあるのである。
 聖書は言う、最初の人アダムは土のちりで造られ、命の息を吹きこまれて「生きる魂」となったように、キリストは塵に帰るべきからだを脱ぎすて、栄光の霊のからだに復活することによって、終わりの日に出現する新しい人類の頭、すなわち終わりのアダムとなられた。今や天にいますキリストは、信じる者の中に霊として来たり宿り給う。復活のキリストこそ「いのちを与える霊」、「人を生かす霊」となられた方である。キリストを信じ、キリストの十字架に合わせられて死ぬ者は、この霊なるキリストによって生かされる。霊なるキリストこそ、人の中にある永遠の生命である。霊なるキリストの生命を生きることによって、人は「霊に属するからだ」を受けて、復活に至るのである。

                              (一九八七年三号)