聖書学研究所 > 研究会員からの寄稿 > 第 3 稿目
新約聖書における多様性と一体性    ―光源としての御霊のキリスト―
市 川 喜 一

はじめに

 福音誌『天旅』誌上で昨年末までに、わたしはルカの二部作(ルカ福音書と使徒言行録)を除くすべての文書を講解しました。福音書ではマルコ、マタイ、ヨハネの三福音書、使徒書簡ではパウロの七書簡とパウロの名による六書簡、他の使徒名書簡や公同書簡を含むすべての書簡、それにヨハネ黙示録まで、時には私訳と講解で詳しく、時には段落ごとの略解だけという簡略な形で、講解してきました。

 今年からルカの二部作の講解に入ることになりますが、その準備のためにルカの二部作を読み始めて、新約聖書の全文書を見渡すことができる時期に入っています。新約聖書の全文書を検討して、強い印象を受けている事柄は、新約聖書各文書の多様性です。新約聖書の大小様々な二七の文書は、同じ主イエス・キリストを証しして、その福音を世に伝えるという共通の主題を扱いながら、その形式や主張や傾向は実に様々で、決して一様ではありません。相違があるだけでなく、時には反対の主張をしていて、矛盾を感じることが少なくありません。

 このように多様多彩な主張、ときには矛盾する主張をしている多くの文書を含む新約聖書を、一つの統一体として理解することはできるのでしょうか。全体として統一的に理解するには、どのような視点から新約聖書を見ればよいのでしょうか。今回はこの問題を取り上げてみようと思います。厳密な学術的論説ではなく、信仰的所感の程度ですが、わたしなりに取り組んでみたいと思います。

T 新約聖書文書の多様性

 新約聖書各文書の多様性は、その成立事情が様々に違っていることによります。誰によって(=どのような立場の人物によって)、どこで(=どのような活動の舞台で、あるいは誰に向かって)、いつ(=福音の進展の過程のどのような段階で)書かれたかによって、その主張や内容や傾向が違ってくるのは当然です。しかし、その文書が、いつ、どこで、誰によって書かれたかは分からないことが多く、内容から推定せざるをえないことが多くあります。内容から推定される成立事情に応じて、その文書の傾向や主張の特殊性が理解できます。以下の成立事情はそれぞれ互いに重なっていますが、便宜上、著者と地域と時期に分けて考察します。

著者の立場による多様性

 まず著者の立場の違いから、文書の性格や主張が違ってきます。立場の違いでもっとも基本的なものは、著者がユダヤ人であるか異邦人であるかの違いです。ユダヤ人であるというのは、ユダヤ教徒であるという意味であり、ユダヤ教という宗教の枠内で思考し生活している人ということです。異邦人というのは、ユダヤ教以外の宗教的伝統を背景としており、ユダヤ教の枠に拘束されていない立場の人ということです。

 著者の宗教的立場の違いから、文書の性格や主張が違ってきます。たとえば、ユダヤ教の枠内にいるヤコブやマタイが書いた文書は、ユダヤ教律法の順守を前提として、キリスト信仰を提示しています。これらの文書においては、キリストはまず何よりもイスラエルの民に約束されたメシヤであり、メシヤに所属する民はモーセ律法を完成する責任を負っています。それに対して、異邦のヘレニズム世界で異邦人によって書かれたと見られるコロサイ書やエフェソ書では、もはやユダヤ教律法は問題にならず、キリストはあくまでギリシア・ローマ世界の宇宙論的枠組みで語られており、キリストに属する者はその宇宙的・霊的キリストに満たされることが目標とされます。

 同じユダヤ人といっても、アラム語を用いているパレスチナのユダヤ人と、ギリシア語を用いているディアスポラ(離散)のユダヤ人では、その文化的背景の違いからユダヤ教との関わりにおいて違いがあります。新約聖書文書の著者の多くはユダヤ人ですが、この違いによって同じユダヤ人によって書かれた文書にも大きな違いが生まれてきています。

 たとえば、先に見たユダヤ教の立場で書かれたヤコブ書やマタイ福音書(マタイはギリシア語を用いるユダヤ人ですが、パレスチナの厳格派のユダヤ教学者です)と較べると、同じくユダヤ人ですが、ディアスポラのユダヤ人であるパウロが書いたものは決定的に違います。ユダヤ教律法の厳格な順守で「義人」と呼ばれるヤコブや、ユダヤ教律法学者のマタイがモーセ律法の順守を当然のこととしているのに対して、パウロは「律法の外で」の神の義を主張し、「キリストは律法の終わりとなった」と宣言します。

 もっとも、この違いはパウロがディアスポラ・ユダヤ人であるからではなく、主によって選ばれ、異邦人に福音を宣べ伝えるべく召されたことによる違いですが、しかしこのような召しは、パウロがディアスポラのユダヤ人でなければ起こりえなかったことであり、やはりユダヤ人の間での立場の違いが現れている場合と理解できます。

 同じくユダヤ人の著者によって書かれたものでも、成立の場所とか時期が、著者のユダヤ人としての立場以上に大きく文書の性格を決めている場合もあります。たとえば、ペトロ第一書簡はユダヤ人によって書かれたと推定されますが、その内容や性格は、その時代のローマや小アジアの異邦人信者の状況が大きく影響し、著者のユダヤ人としての立場はあまり表に出ていません。

 それに対して、成立したのは異邦人的な環境でありながら、ユダヤ人でなければ書けないような内容の文書もあります。たとえば、ヘブライ書はローマとの深いつながりの中で異邦世界で書かれたと推定されますが、キリストをユダヤ教祭儀の成就者として描いており、これはユダヤ教徒でなければ出てこない発想であり、書き方です。また、ヨハネ黙示録は、エフェソを中心とする小アジアの異邦人諸集会を対象として書かれていますが、あの強烈な黙示思想的描写は、ユダヤ教黙示文学に親しんできたパレスチナ・ユダヤ人しか書けません。これらの文書は、著者のユダヤ人としての立場を鮮烈に示しています。

成立の場の違いによる多様性

 ここで「成立の場」というのは、地理的な場所とか地域というだけでなく、福音宣教の流れの質を含んでいます。初期の福音宣教運動は、パレスチナとかシリアとかエーゲ海地域とかローマとかエジプトなどの各地域で進展しましたが、それぞれの地域での運動は、それぞれの地域固有の性格をもつ流れとして進展していきました。
パレスチナ・シリア

 まず、福音はエルサレムから始まり、周囲のユダヤからサマリアに及びます。また、ガリラヤもイエスの活動の舞台としてイエスの弟子たちが多くいたので、復活者イエスの使信は急速にガリラヤに広がったことでしょう。こうして、パレスチナが福音の展開の最初の舞台となります。パレスチナは、アラム語を話すユダヤ人の地域です。上流階級にはギリシア語を話すユダヤ人もいますが、民衆はアラム語を話すユダヤ人またはサマリア人であり、共にモーセ律法に従うユダヤ教徒とサマリア教徒の地域です。この地域で進展した信仰運動は、モーセ律法の枠内でイエスをメシヤと信じて、復活者イエスが「人の子」として来臨されるのを待ち望む黙示思想的なキリスト信仰です。 

 新約聖書の文書の中に、パレスチナで成立し、その信仰のユダヤ教的性格を純粋に示している文書はありません。エルサレムやパレスチナのキリスト信仰の系統に属するヤコブ書やユダ書にしても、それがギリシア語で書かれているという事実そのものが、ヘレニズム的環境で成立したことを示唆しており、純粋にパレスチナ成立の文書ということはできません。しかし、パレスチナはイエス伝承形成の場として重要です。パレスチナのユダヤ人によって担われ形成されたイエス伝承は、受難物語伝承や、イエスの語録伝承Qやたとえ集、奇跡物語伝承、黙示録的伝承(マルコ一三章)など、後の時代の福音書の形成に重要な役割を果たすことになります。

 パレスチナの北方にシリアがあります。アンティオキアを州都とするこの地域は、やはりアラム語を使うセム系の民が居住しています。アンティオキアや東方のエデッサなど大都市には多くのユダヤ人がいました。とくにユダヤ戦争の前後には、多くのユダヤ人が戦禍を逃れて移住して来ていました。福音は早くからこの地域に伝えられ、ペトロやパウロという代表的な使徒が活動していました。他にも多くの使徒たち(たとえばマタイやトマス)がシリアで活動したことが推察されます。すでにヘレニズム世界の大都市であったアンティオキアを州都とするシリアは、ギリシア文化とユダヤ教をはじめとする東方系の宗教とが複雑に混淆しており、この地域で福音は多様な発展を見せ、後にはグノーシス主義の発祥揺籃の地となります。

 パレスチナとシリアは、宗教史や伝承史の面では明確に区別できないので、一体として扱われるのが普通です。エルサレムとアンティオキアを二つの焦点とする楕円にたとえられるパレスチナ・シリア地域は、パレスチナ系の豊富なイエス伝承と、アンティオキアのヘレニズム的なキリスト告白が融合して、キリスト信仰の重要文書を多く生み出すことになります。

 その中で最も典型的な文書は、マタイ福音書です。この福音書を生み出した共同体は、パレスチナ・シリア地域で成立した「語録資料Q」を信仰の拠り所として奉じるユダヤ人の共同体であり、イエスを律法の成就者として宣言して、ファリサイ派以上の高度な律法順守を求める(マタイ五・一七〜二〇)など、ユダヤ教内のキリスト信仰の文書であることを示しています。しかし同時に、異邦人伝道に理解を持ち、積極的であったペトロを権威として成立したマルコ福音書を受け入れ、マルコ福音書の枠の中で、イエスをメシアとする自分たちの信仰を物語っています。しかも、それをギリシア語で物語っています。これは、マタイのユダヤ人共同体がユダヤ教の枠を出て、異邦世界に乗り出して行かざるをえない(エルサレム陥落以後の)状況を指し示していると考えられます。

 そのマルコ福音書ですが、四福音書の中で最初に成立したと見られるこの福音書は、成立の地域を特定することが困難です。伝統的には、ペトロの協力者であり通訳であったマルコが、ペトロが召された後ローマで書いたとされていますが、近年の研究者はユダヤ戦争の前後にシリアで成立したと見る人が多いようです。この福音書に関しては、成立の地域よりも、ペトロとの深いつながりと、一時期パウロの協力者でもあったという人的系統の方が、その性格を決める要素になっていると考えられます。書かれた場所がどこであれ、伝承の流れからするとマルコ福音書もパレスチナ・シリア地域に入れてよいと考えられ、マルコ・マタイの両福音書を一連のものとして、このパレスチナ・シリア地域の文書として扱ってよいでしょう。

 福音は、世界の各地に離散しているディアスポラのユダヤ人共同体を拠点にして、パレスチナ・シリア地域から当時の地中海世界に広く伝えられていきます。シリアから東に向かっては、エデッサなどパルティア王国の諸都市に伝えられます。この方面の伝道を担った使徒トマスはインドまで行ったと伝えられています。このトマス系の伝承から、イエスの語録を内容とする「トマス福音書」が生み出されています。この福音書では、トマスがイエスの双子の兄弟として、救いの秘義を受けた者であり、イエスの言葉の最も権威ある解釈者であるとされています。その内容は、同じイエスの語録集でも、(共通の語録もかなり含まれていますが)正典福音書に含まれる「語録資料Q」とは違っていて、かなりグノーシス主義に傾いています。シリアは、その他に「救い主の対話」など、後に「ナグ・ハマディ文書」に含まれるようになるグノーシス主義文書を多く生み出しています。
エジプト

 パレスチナからすぐ南にあるアフリカにも、ごく早い時期から福音が伝えられました。そのことは使徒言行録八章のエチオピアの高官の物語からもうかがえます。パレスチナの南に隣接するエジプトの州都アレクサンドリアは、当時地中海世界随一のヘレニズム文化の大都市であり、多くのユダヤ人が居住していて、エルサレムと密接な交流がありました。七十人訳ギリシア語聖書の成立や、ユダヤ人哲学者フィロンの活動に見られるように、アレクサンドリアはヘレニズム世界におけるユダヤ教の最重要拠点でした。エウセビオスの『教会史』は、マルコがエジプトに福音を伝え、アレクサンドリアの初代の司教になったと伝えていますが、この伝承は確認できません。ローマの場合と同じように、エルサレムとの密接な交流の中で、ごく初期から無名のユダヤ人信者たちによってアレクサンドリアに福音が伝えられていたと考えられます。

 アレクサンドリアには大規模で強力なユダヤ人共同体があり、そこに伝えられたキリスト信仰は、アレクサンドリアから徐々にエジプトの各地に浸透していきます。後にエジプトは、『ヘブル人福音書』など、ユダヤ教内キリスト信仰を示す多くの文書を生み出しています。また、エジプトで成立した「ヘルメス文書」に見られるように、もともとエジプトはグノーシス主義思想の盛んな土地柄です。そこにシリアからグノーシス主義的傾向の伝道者や文書が流入し、エジプトではグノーシス主義的なキリスト信仰が盛んになり、『エジプト人福音書』などのグノーシス主義文書が数多く生み出されます。これらのユダヤ教内キリスト信仰の文書や、グノーシス主義的な著作は、新約正典の形成過程で排除されたので、現在の新約聖書の中にはエジプトで成立した見られる文書はありません。これらの排除された多くのグノーシス主義文書は、二〇世紀半ばになってナイル中流の砂漠に埋められた壺の中から発見されることになります(ナグ・ハマディ文書)。

 初期のキリスト教の形成に関しては、エジプト成立の多くの文書は重要な証言ですが、今回は新約聖書の文書に限定して考察したいので、エジプトについては、これだけにしておきます。

エーゲ海地域とローマ

 パレスチナ・シリアから発して急速に地中海世界に広まった福音の展開の中で、特に著しい進展を見せたのは、使徒パウロによって担われた西方への伝道活動です。パウロは回心後、十数年にわたってシリアのアンティオキアの集会で指導的な働きをしますが、五〇歳前後になって西方への独立の伝道活動を開始します。パウロの福音活動は、小アジアの南西部、エーゲ海東岸に面したアジア州、エーゲ海北岸のマケドニア州、さらにエーゲ海西岸のアカイア州に及びます。これらエーゲ海を取り囲む地域(以後これらの諸州を「エーゲ海地域」と呼びます)に、パウロとその一行(シラスやテモテやテトスら)の働きによって、キリストを信じる民の集会が形成されます。マケドニア州ではフィリピとテサロニケとベロアの集会、アカイア州ではコリントの集会、アジア州ではエフェソの集会を中心とし、コロサイなどエフェソ周辺の諸集会が形成され、パウロが去った後も活発に福音の活動を継続して進めます。

 パウロの福音によって形成されたこのエーゲ海地域の諸集会による福音活動は、その中から多くの文書を生み出し、新約聖書正典の中で多数を占めています。その中に、パウロ自身が書いたことが明らかな七書簡(ローマ書、コリント書TとU、ガラテヤ書、テサロニケ書T、フィリピ書、フィレモン書)と、パウロの没後にパウロの名によって書かれた六書簡(テサロニケ書U、コロサイ書、エフェソ書、テモテ書TとU、テトス書)が含まれるのは当然です。しかし、後にパウロ書簡集としてまとめられることになるパウロ文書(パウロ書簡とパウロ名書簡の合わせて十三書簡)だけでなく、この地域は新約聖書の神学思想を形成する上で、きわめて重要な文書を生み出しています。

 エーゲ海地域の諸集会は、無割礼の福音を説いた異邦人への使徒パウロによって形成された集会ですから、ユダヤ人を含みながらも、大多数は異邦人(ギリシア人)信者であり、時と共に異邦人的性格が強くなっていきます。そのことはパウロ文書に明白に表れています。また、このエーゲ海地域はもともとギリシア文化の発祥揺籃の地であり、一世紀には政治的にはローマの属州となっていましたが、ギリシア文化の中心地であることは変わりませんでした。このような地域に成立し成長したキリストの民の共同体が生み出した文書が、ギリシア思想の影響を強く受けていることも当然です。もともとユダヤ教の中から生まれたキリストの福音が、ギリシア化されて当時のヘレニズム世界の信仰として成立していく過程は、この地域でもっとも典型的に見られることになります。

 この地域で、一世紀末に成立したと見られる福音書に、「ルカ福音書」があります。ルカ福音書は単独ではなく、使徒言行録と一連の著作として成立しました。ルカはこの二部作全体で、彼の時代にキリストの福音を提示していますので、広い意味ではこの二部作全体を「ルカによる福音書」と呼ぶべきでしょう。ルカは第一部の福音書を書くにあたって、マタイ福音書と同じくマルコ福音書を枠組みとして用い、同じイエスの語録集Qを使っていますが、マタイがユダヤ人に向かって書いているのに対して、ルカは異邦人に向かって書いています。そのため、マタイ福音書とは違う面が出てきています。ルカの二部作は、ヘレニズム世界に対する典型的な福音書となります。

ルカの二部作の成立の事情と特色や意義については本号別稿「序章・ルカ二部作の成立」を参照してください。そこに詳しく書きましたので、ここではルカの二部作がこの地域の信仰を最終段階でまとめる著作として出現したことを指摘するにとどめます。

 このエーゲ海地域で成立した見られる福音書がもう一つあります。ヨハネ福音書です。エイレナイオスに至る二世紀の教父たちの証言は圧倒的に、ヨハネ福音書の成立地としてエフェソを指し示しています。しかし、この福音書を生み出した共同体には、複雑な前史がありますので、この福音書を単純にエーゲ海地域所産の福音書とすることはできません。

 多くの研究者(とくにドイツの研究者)は、「ヨハネ福音書は、シリアに位置づけられるべき特殊な伝承の所産である」(ケスター)として、その成立地をパレスチナ・シリアのどこかに求めています。たしかに用いている伝承はパレスチナ・シリアのものですが、この事実はこの共同体が初期にはパレスチナ・シリア地域で活動してことを指し示しているだけで、その共同体が後期にはエフェソに移って、そこで福音書を成立させたことを否定する根拠にはなりません。イエスの弟子の一人(福音書の中で「イエスが愛された弟子」として登場する年若い弟子)が、その長い生涯のどこかで、パレスチナ・シリア地域からエフェソに移住して、エフェソ周辺に独特の共同体を形成し、そこでそれまでの伝承や説教がまとめられてヨハネ福音書が成立したと見るのが、もっとも自然な理解であろうと考えられます。それで、ヨハネ福音書は(おそらく一世紀末という遅い時期の)エーゲ海地域の福音理解の証言の一つと数えてもよいと考えられます。

ヨハネ共同体がエフェソに移住した時期については60年代から90年代まで諸説がありますが、ヘンゲルが推定しているように、ユダヤ戦争前の60年代前半ではないかと考えられます。ヨハネ福音書の成立については、拙著『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立をめぐって』(天旅2003年別巻)で詳しく見ましたので、それを参照してください。

 この地域で成立した重要な文書で、複雑な前史があることが想定されるものに、もう一つヨハネ黙示録があります。ヨハネ黙示録はエフェソ沖合のパトモス島で書かれ、エフェソ周辺のアジア州七つの集会に宛てられています。この黙示録がこの地域で成立し流布していたことは確実です。しかし、先にも指摘したように、このような強烈な黙示思想はパレスチナ起源であることを指し示しています。おそらく本書はパレスチナの黙示思想的な預言者集団が、ユダヤ戦争時のエルサレム攻防戦の悲惨な体験をした後、この地域に移住してきていて、ローマ帝国からの迫害の時代に(おそらくドミティアヌス帝の時代)、この預言者集団の指導者であるヨハネがパトモスに流刑になり、そこでこの黙示録を書いたと推定されます。それで、成立地はこのエーゲ海地域になりますが、伝承史的また思想的には、本書はパレスチナの黙示思想的なキリスト信仰の流れに属する文書としなければなりません。

 ヨハネ黙示録の成立事情については、ヨハネ黙示録を扱った、拙著『パウロ以後のキリストの福音』第四章「来臨待望と黙示思想」を参照してください。この預言者集団がエルサレム攻防戦を体験した痕跡については、同書188頁の注記を参照してください。

 なおローマは、地理的にはエーゲ海地域には入りませんが、この地域との密接な交流から、新約聖書文書の成立史においてはこの地域の一部として扱うのが適切であると考えられます。ローマは帝国の首都として、帝国各地との交流が深く、とくにエーゲ海地域とは密接な交流があり、人の往来もきわめて頻繁でした。ローマにはユダヤ人も多数在住し、エルサレムを始め地中海世界のユダヤ人共同体と密接な接触をもっていました。そのような交流を通して、キリストの福音はかなり初期からローマのユダヤ人たちに伝えられていました。おそらくエーゲ海地域のユダヤ人信者によって、パウロ的な律法から自由なキリスト信仰が伝えられていたのではないかと推察されます。その結果、ユダヤ教会堂において律法をめぐる争いが起こり、不穏な情勢になったので、クラウディウス帝は49年にローマからすべてのユダヤ人を追放しています。

 クラウディウス帝の死によって追放令は解かれ(54年)、ユダヤ人たちはローマに戻ってきます。しかし、それまでに周囲の異邦人市民にも信者が増え、おそらくエーゲ海地域からの異邦人信者の来住もあり、パウロが56年にローマ書を書き送ったときには、ローマにはユダヤ人も異邦人も含む諸集会が活動していて、パウロはユダヤ人にも異邦人にも多くの同志の名をあげることができました(ローマ書一六章)。その後パウロは囚人としてローマに護送され、二年わたってローマの信者たちと接触し、福音を語ります。ローマにはペトロも来て伝道したと伝えられています。その結果、ローマにはパウロに近い人たちやペトロに近い人たちのグループ、またプリスキラ・アキラ夫妻の集会など、複数の集会が活動し、その中からキリスト信仰を証言する文書が生み出されることになります。

 ローマのキリスト者と集会は、帝国の首都にあるという立場からか、各地(とくに交流が密接なエーゲ海地域)の兄弟たちの状況に敏感で、各地の集会の問題に対応するために励ましや勧告の手紙を書き送っています。その典型は、95年にローマのクレメンスがコリントの集会に、集会内の争いに信仰をもって対処するように書き送った勧告の手紙(第一クレメンス書)です。迫害下にある小アジアの諸集会に、ペトロの名によって励ましの手紙を書いたペトロ第一書簡も、ローマのペトログループから出ていると見られます。同じくペトロの名をもって来臨待望の弛緩を警告するペトロ第二書簡も、ローマ成立と見られます。ヘブライ書は、ローマと深い関係がある人物によって書かれたと見られます(ヘブライ一三・二四)。ローマのクレメンスもこの書簡をよく知っており、直接間接に引用しています。

 帝国の首都として多くの指導的人物の来住・活躍があり、二世紀以降ローマはキリスト教関連の多くの文書を生み出すことになりますが、ここでは新約聖書正典の文書に限るため、これだけにしておきます。

 このように、エーゲ海地域は(ローマと併せて)新約聖書の大部分の文書を生み出した地域であり、新約聖書の時代とその後の福音の展開にとって、もっとも重要な地域となります。

 地域別による多様性については、H・ケスター『新しい新約聖書概説・下 ― 初期キリスト教の歴史と文献』(永田竹司訳・新地書房)を参照してください。ケスターは、新約聖書正典に含まれる文書だけでなく、それ以外の外典まで広く含めて、初期のキリスト教文書を、1 パレスチナ・シリア、2 エジプト、3 小アジア・ギリシア・ローマ の三つの地域に分けて、それぞれの地域の特色を描き出しています。

成立時期による多様性

 新約聖書の各文書は、その成立の時期によってもその性格と内容が違ってきています。新約聖書の各文書が生み出された時期は、30年の福音宣教の開始から一世紀末(あるいは二世紀初頭)までの七八十年ほどの期間になりますが、この期間はユダヤ戦争のクライマックスをなす70年のエルサレム陥落によって、その前の時期(以下「前期」と略記)とその後の時期(以下「後期」と略記)に二分されます。

 エルサレム陥落・神殿崩壊以前の時期には、ペトロを初めとするイエスの直弟子たちと、イエスの兄弟ヤコブが指導するエルサレム共同体が運動の中核を担っていました。エルサレム共同体は、指導層も成員もパレスチナのアラム語系のユダヤ人であり、ユダヤ教内キリスト信仰の共同体でした。ごく初期からギリシア語系のユダヤ人《ヘレーニスタイ》の活動により福音は異邦人にも伝えられ、アンティオキアには異邦人を含む共同体が成立していましたが、(エルサレム会議に見られるように)エルサレム共同体の指導的地位は変わりませんでした。無割礼の福音(ユダヤ教の外のキリスト信仰)を唱えて、広くヘレニズム世界に福音を伝えたパウロも、エルサレム共同体との一体性を維持する努力を怠りませんでした。

 ところが、ユダヤ戦争の直前に、主の兄弟ヤコブが殺害され、エルサレム共同体は戦禍を逃れてエルサレムから脱出し、辺境のペレヤに移ります。エルサレム陥落と神殿崩壊を境目にして、ユダヤ人のエルサレム共同体は福音運動の中核としての地位を失い、その影響力は急速になくなっていきます。また、この時期は使徒たちが世を去り、世代交代の時期となります。ペトロとパウロは60年代前半に殉教し、他の使徒たちも世を去る時期となります。この前期の指導層をなした使徒たちはすべてユダヤ人でしたが、後期になると使徒の後継者たちの時代となり、異邦人指導者が増えてきます。このような状況の変化は、それぞれの時期に成立した文書に反映されて、その内容や性格が違ってくることになります。

 パレスチナ・シリア地域では、成立時期の違いによる変化はあまり明確ではありません。それは、この地域で前期に成立したことが明確な新約聖書文書が少ないからです。この地域で形成されたイエス伝承の中で一部文書になったものがあったようです。イエスの語録を伝えた語録集は、ユダヤ戦争の前後にはギリシア語で書かれた文書となっていたようです。これは仮説上の文書ですが、「語録資料Q」と呼ばれ、マタイとルカが共通の資料として用いたとされています。この「語録資料Q」は、この地域の前期の信仰運動の終末的な性格をよく示しています。

 ヤコブ書は、ユダヤ教内キリスト信仰に立つエルサレム共同体の伝統を示しているとされ、「語録資料Q」と共通の語録を多く含むなど、前期の特色を示していますが、その成立の時期を確認することは困難です。後期になってからの成立の可能性も高いようです。ユダ書は、前期におけるパレスチナの黙示思想を色濃く反映していますが、これも前期の成立は可能性にとどまります。

 マルコ福音書がこの地域の成立とすると、成立時期はユダヤ戦争の直前または直後と考えられるので、この地域の前期の伝承を要約する位置にある福音書として見ることができます。先に見たように、この福音書の実際の成立地がどこであろうと、ペトロの伝承を引き継ぐ福音書ですから、この地域の前期に属する文書として、後期の文書との比較対象としてよいでしょう。

 この地域で成立時期が確かなのは、後期に成立したことが確実なマタイ福音書です。この福音書は後期の状況をよく反映し、その時期の特色を示しています。たとえば、「異邦人の道に行ってはならない。サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」という(前期に形成された)語録資料のイエスの言葉を忠実に保存して(マタイ一〇・五〜六)、著者とその共同体がもともとユダヤ教内の運動であることを示しています。しかし同時に、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という復活者イエスの命令を最後に置いています(マタイ二八・一九)。これは、この福音書が成立した後期においては、ユダヤ人信者の共同体であるマタイの共同体は、ユダヤ教共同体(会堂)から出て、厳しい対立(むしろ敵対的な断絶)状態にあり、異邦人世界に出て行かざるをえない状況にあったことを示しています。このような状況を反映して、マタイ福音書のイエスはイスラエルから退去される姿で描かれます(マタイ一二・一五など多数)。また、ユダヤ教会堂に対する非難と攻撃は、容赦のない激烈なものになっています(マタイ二三章)。

 この時期(後期)にユダヤ教会堂がイエスを信じるユダヤ人に対して取った追放などの厳しい態度については、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』357頁の「会堂からの追放決議」の項を参照してください。

 成立時期の違いによって内容と傾向が違うようになっていることがよく分かるのは、エーゲ海地域(ローマを含む)で成立した諸文書です。この地域では、前期には使徒パウロ真筆の七書簡があり、それがこの時期のキリスト信仰の質をよく証言しています。後期になると、パウロの後継者がパウロの名によって書いた六書簡(パウロ名書簡)があり、前期のパウロ書簡との比較によって違いがはっきりしてきます。たとえば、前期のパウロ書簡では、ユダヤ教律法との関係が大問題となっており、律法の行為ではなくキリストの信仰によって義とされるという主張が大きな部分を占めていました。ところが後期では、もはやユダヤ教律法との関係は問題でなくなり、パウロ名文書には律法という用語さえほとんど出てこなくなります。また、ユダヤ教徒として聖書の救済史的枠組みで思考しているパウロにおいては、復活はあくまでキリスト来臨という終末時に起こる将来の出来事でしたが、後期のコロサイ書やエフェソ書になると、救済史的な枠組みではなく宇宙論的枠組みでキリストが語られるようになり、キリストの来臨は語られなくなり、復活も過去形で語られるようになります。

 ルカの福音理解(神学思想)がパウロと違っていることが、よく問題になります。しかし、違うのは当然です。ルカの二部作は一世紀末に成立した見られ、後期の福音の展開をまとめる位置にあります。マルコ福音書や「語録資料Q」などを受け入れて、前期の諸伝承を継承していますが、その神学思想は後期のものです。前期のパウロとは違ってくるのは当然です。ルカの二部作については、本号の別稿「序章・ルカ二部作の成立」で扱いましたので、ここではこれだけにしておきます。

 この地域で後期に成立したヨハネ福音書も、前期のパレスチナ・シリアの伝承を継承しつつも、その基本的な思考の枠組みは、この地域の後期の諸文書と共通しているものがあります。また、ユダヤ教会堂との対立が決定的になったこの時期の状況をよく反映しています。

 前期から後期への進展は、大枠で見ますと、福音がユダヤ教の枠から出て、いよいよギリシア化されて、ヘレニズム世界の宗教になっていく過程であると言えます。

 このパウロとパウロ以後のキリスト信仰の違いについて詳しくは、拙著『パウロ以後のキリストの福音』の終章「パウロとパウロ以後」を参照してください。

U 新約聖書の一体性

各文書の位置づけ

 新約聖書の文書には、大きく分けると、福音書という類型と書簡という類型の二つがあり、この違った類型の文書を並べて直接比較することは問題があります。しかし、主イエス・キリストを証言するという本質は同じですから、その証言の内容や傾向については、類型の違いを超えて比較して、その特色を語ることができます。前節の「T 新約聖書文書の多様性」で、その特色の多様性を見てきました。そして、その多様性が、各文書の成立事情の違いによるものであることを見てきました。

 では、このように(時には矛盾するような主張を含む)多彩多様な多くの文書を、統一体として理解するにはどうすればよいのでしょうか。その多様な言説の中から、統一された一つの使信を聞き取るには、どうすればよいのでしょうか。それにはまず、その多様性が生じる理由を理解することから始めなければなりません。なぜこの文書はこのような主張をし、他の文書はなぜ違うことを語るのか、その理由を理解することが、全体の統一を理解するための第一歩となります。前節の「多様性」で、各文書の多様性は成立事情の違いから来ることを見たのは、実はこの多様性の理由を理解するための作業でした。そして、その理由を理解するための作業は、実は各文書を福音の展開史の中に位置づける作業であったのです。ここで、この「位置づける」ということの意義を見ておきたいと思います。

 主イエス・キリストを宣べ伝える福音の運動は、30年の復活者イエスの顕現の出来事から始まり、神の霊の力強い働きによって、二世紀初頭までの百年足らずの間に、エルサレムからパレスチナ・シリアの全土、北アフリカ(エジプトやクレネ)、エーゲ海地域、ローマに至る東地中海世界に大きなうねりとなって波及していきました。その運動は一つの生命のうねりであり、それが表れる姿は担い手の宗教的背景や地域や時期という歴史的状況によって違ってきますが、そのうねりを引き起こす生命自体は同じです。それは、主イエス・キリストの御名によって働く神の御霊の命です。

 この命のうねりは、その最初の百年足らずの間に実に多彩多様な多くの文書を生み出しました。生み出された文書は、それを生み出した生命の現れです。同じ生命が違う姿で現れるのは、その生命の担い手であり証言者である著者や共同体の宗教的立場(この場合はとくにユダヤ教との関係)、成立した地域や時期の歴史的状況が違うからです。これは前節の「多様性」で見たとおりです。そこで見たように、これらの違いを引き起こす要因は複雑に絡み合っていて、単純に各文書を福音の展開史の広がりと推移の図面の中に位置づけることはできません。

 前節の「多様性」では、著者(または文書を生み出した共同体)の宗教上の立場(とくにユダヤ教との関係)、成立した地域、成立した時期の三つを、その文書の特質を生む要因としてあげました。しかし、この三つを軸とする立体的な図の中に、それぞれの文書を位置づけて図示することはきわめて困難ですので、あえて単純化して、初期の福音宣教の運動とユダヤ教との関係が変わってくる時期を三つの段階に分けて、各文書をそれぞれの段階に位置づけてみます。それに今回見ました地域の要因を考察に取り入れて位置づけを行ってみます。

福音の史的展開における三段階

 福音宣教活動は、初期においてはユダヤ教の胎内から生まれますが、その進展はユダヤ教から出て、別の信仰集団として形成されていく過程です。その過程の三つの段階を示すのに、ユダヤ教を示す円と、福音宣教活動(同時に、その結果成立した信仰共同体)を示す円との、二つの円の重なり方で図示します(別図 「福音進展の三段階」 を表示するには、ここをクリックしてください)。  

  その際、ユダヤ教を示す円は実線で示します。ユダヤ教は確立した宗教であり、強固な教義と組織を有しているからです。それに対して、福音宣教の円は点線で示します。福音宣教は生命的な新しい信仰運動であり、まだ明確な範囲とか宗教としての固い教義とか組織を持っていない、かなり流動的な運動であるからです。

以下の二つの円による三段階の図示は、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』436頁の図解を基にし、それを改訂して詳しくしたものです。

1 福音宣教活動を示す(点線の)円が、完全にユダヤ教の(実線の)円内にある段階。

 これは、福音の宣教がユダヤ教の枠内で行われていた段階です。ユダヤ戦争以前の、アラム語系のユダヤ人からなるエルサレム共同体や、「語録資料Q」を生み出したパレスチナのユダヤ人の信仰運動はこの段階に属します。厳格な律法順守で「義人」と呼ばれた主の兄弟ヤコブはこの段階の代表です。この段階では、イエスを信じるユダヤ人は、ユダヤ教徒としての生活を放棄したわけではありません。あくまでユダヤ教の枠内でイエスをメシアと信じているのです。彼らはイエス派の(=イエスをメシアと信じる)ユダヤ教徒です。彼らの信仰は「ユダヤ教内キリスト信仰」です。この段階での福音宣教の対象は、ユダヤ人に限られていました。ユダヤ戦争以前のパレスチナはこの段階になります。

 新約聖書内の文書では、この時期のエルサレム共同体の信仰と伝承を色濃く伝えている「ヤコブ書」は、この段階の文書としてよいでしょう。ただし、その成立はユダヤ戦争以後に離散のユダヤ人に向かって書かれた可能性もあり、問題が残ります。同じく問題がありますが、ユダ書も、この時期のパレスチナの黙示思想的信仰を伝える文書として、この段階に入れてよいでしょう。
2 福音宣教活動を示す円が、ユダヤ教の円の外に出ようとして激しく移動している段階(矢印)。
  点線の円の一部はすでに実線の円の外にはみ出しているが、全部が出てしまってはいず、二つの円は横並びに一部重なっている段階。

 ユダヤ戦争以前の時期に、おもにパレスチナ以外の地域で、ユダヤ人以外の民(異邦人)に福音を宣べ伝えるようになった段階です。この時期に異邦人に福音を伝える運動を担ったのは、おもにギリシア語系のユダヤ人《ヘレーニスタイ》でした。その代表はパウロです。ペトロもアラム語系のパレスチナ・ユダヤ人でありながら、この運動の担い手として活動しています。地域的には、すでにシリアのアンティオキアで、ごく早い時期にこの運動は始まっています。その後、パウロによって福音はエーゲ海地域に進展していきます(50年代)。そして、すでにこの段階(ユダヤ戦争の以前)に首都ローマでもキリストの民が活動するようになっていました。

 この段階では、パウロが唱える「無割礼の福音」(異邦人は割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくてもキリストの民であるうるとの福音)は成果を収め、異邦人信者が増え、キリストの民はユダヤ人と異邦人が混在するようになっていました。この段階で、ユダヤ教の外でのキリスト信仰が成立したのです。この事実を、ユダヤ教を示す実線の円の外にはみ出した点線の円の部分が示しています。

 ところが、この時期(ユダヤ戦争以前)では、点線の円の一部は、まだ実線の円の中に残っています。すなわち、ユダヤ教の枠内のキリスト信仰に立つエルサレム共同体が指導的な地位にあり、そのユダヤ教内キリスト信仰の中の(ユダヤ教を絶対視する)一部のユダヤ人が、ユダヤ教の外でキリストを信じている異邦人を、ユダヤ教の中に引き入れようとして活躍します。彼らは「ユダヤ主義者」と呼ばれます。彼らは、パウロが唱える「無割礼の福音」を非難し、異邦人信者に割礼を受けること(=ユダヤ教に改宗すること)を要求します。それに対してパウロは、ユダヤ教の外でのキリスト信仰の確立のために激しく戦います。

 新約聖書内の文書で、この段階で成立し、この段階のキリスト信仰を証言する文書は、パウロ七書簡(ローマ書、コリント書TとU、ガラテヤ書、テサロニケ書T、フィリピ書、フィレモン書)です。この段階の福音宣教は、ユダヤ教の外でのキリスト信仰を確立するための戦いが主戦場となるので、パウロ書簡ではこの問題を扱った部分が重要な位置を占めることになります。ガラテヤ書はほとんどこの問題に集中しています。パウロ書簡の中でパウロの福音をもっとも体系的に提示するローマ書でも、この問題が「律法(ユダヤ教)の外での、信仰による義」の主張として大きく扱われています。

 福音書の中で、マルコ福音書は位置づけが難しい文書です。マルコ福音書がほぼユダヤ戦争の前後に成立したことは、広く認められています。そうすると、2の段階と3の段階の境目に位置することになります。先に見たように、成立地はどこであれ、ペトロの宣教と伝承をまとめて提示する福音書という性格からすると、この福音書はやはりこの段階の文書と位置づけるのが適切であると考えます。ペトロの愛弟子(ペトロT五・一三)であり、同時にパウロの一時期の協力者であったマルコが書いたと見るのがふさわしいこの福音書は、イエスの直弟子の使徒の代表者であるペトロが伝えたイエス伝承を、パウロの福音の枠を用いて提示するという性格の文書であり、この段階の最後に現れて、この段階の福音を要約する位置にある文書と見ることができます。
3 福音宣教によって形成されたキリストの民が、ユダヤ教の円の外に出てしまって、二つの円が離れてしまっている段階。

 66年に始まり73年に終結する(第一次)ユダヤ戦争は、70年のエルサレム陥落と神殿破壊をクライマックスとする歴史的大事件ですが、これは福音の展開にとっても決定的に重要な事件となり、時代を画することになります。それは、この出来事によりエルサレム共同体はその指導的地位を失い、異邦人集会をユダヤ教の枠の中に引き入れようとするユダヤ教絶対主義者の影響も弱まり、ユダヤ教の外のキリスト信仰が確立するようになるからです。

 また、ユダヤ戦争を生き延びたファリサイ派ユダヤ教の指導者は、戦後に沿岸地方の小都市ヤムニアに最高法院の継承機関である「法院」を形成して、世界のユダヤ教徒を指導するようになりますが、その「法院」はイエスを信じるユダヤ教徒を異端者として会堂から追放することになります。それまでは、イエスを信じるユダヤ教徒は会堂に所属して、ユダヤ教徒として生活することができましたが、この時期にはそれができなくなり、ユダヤ教とキリスト信仰共同体《エクレーシア》の重なりはなくなります。こうして、ユダヤ教の円とキリスト信仰共同体の円は、重なりのない離れた二円となり、ユダヤ教会堂とキリスト共同体は、互いに非難と攻撃(ときには迫害)だけの断絶した関係になります。

 新約聖書の中の文書は、パウロ書簡をはじめこれまでにあげた少数の文書以外のすべての文書は、この段階の文書になります。先に、エーゲ海地域でユダヤ戦争以後の時期に成立した文書(六つのパウロ名書簡)が、福音理解あるいはキリスト告白においてパウロ書簡と微妙に違ってきていることを見ましたが、これらのパウロ名書簡はこの段階の証言です。パウロ名書簡だけでなく、ペトロの名をもって書かれたペトロ書簡や、この時期の成立のヘブライ書などもこの段階の証言です。この時期は、パウロやペトロというような使徒の名を用いて書かれた書簡がキリストの民の信仰を証言し、指導する時代ですから、わたしはこの時期を「使徒名書簡の時代」と呼んでいます。

 この段階の文書で、新約聖書時代(新約聖書の諸文書が成立した時代)の最後に位置する重要な文書がルカの二部作(ルカ福音書と使徒言行録)です。年代的にはこれより後に成立した文書があるかもしれませんが、その位置と意義からすると、ルカの二部作はこの段階の福音をまとめる位置にあります。本号別稿「序章・ルカ二部作の成立」で見ましたように、ルカの二部作は、第一部(ルカ福音書)のイエスの「神の国」宣教と、第二部(使徒言行録)の使徒たちのキリスト宣教を通して、福音が異邦人に与えられていることが神の御計画であることを、歴史を記述することによって示しています。

 この段階で成立した重要な文書に、ヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネ書簡)があります。ヨハネ福音書は、初期のパレスチナ・シリアのユダヤ教的な伝承を継承していますが、成立はユダヤ戦争以後のエーゲ海地域(エフェソ)であると見られます。この福音書は、九章の生まれながら目の不自由な人のいやしの物語に出てくるように、すでにユダヤ教会堂はイエスを信じるユダヤ人を会堂から追放するという決議をしています(ヨハネ九・二二)。この福音書は「ユダヤ人」を主キリストに敵対する勢力として激しく非難しています。このような事実は、この福音書が第三の段階で成立し、その段階の証言であることを示しています。

 同じエーゲ海地域でユダヤ戦争以後の時期に成立したと見られるもう一つの重要な文書に、ヨハネ黙示録があります。このヨハネ黙示録は、一読して明らかなように、パレスチナのユダヤ教黙示思想の伝承を継承し、第一段階のパレスチナのユダヤ教内キリスト信仰の証言である一面をもっています。しかし、この黙示録はユダヤ戦争以後のエーゲ海地域で、ローマ帝国からの迫害が行われるようになった段階で成立し、そのような状況でのキリスト信仰の質を証言している文書として、やはり第三段階の文書と見るべきでしょう。

 この段階で成立したさらに重要な文書にマタイ福音書があります。先に見たように、マタイ福音書はシリアでユダヤ戦争の後かなり経って成立したと見られます。ほぼ同じような時期にエーゲ海地域で成立したルカの二部作と較べますと、ルカの二部作が異邦人世界での福音宣教の場で成立し、異邦人のために書いているのに対して、マタイ福音書はユダヤ人信者の共同体で生み出され、ユダヤ教律法学者的な体質の著者がユダヤ人のために書いています。そのため、これからは異邦人のヘレニズム世界に出て行かなければならない必要は説かれていますが、律法の完成を説くなど(マタイ五・一七〜二〇)、ユダヤ教内のキリスト信仰の質を色濃く残しています。マタイの共同体は、第一段階のユダヤ教内キリスト信仰の場で成立した「語録資料Q」の流れに属し、マタイはユダヤ人からなる共同体に、イエスをメシアと信じて生きる生き方を説いています。この点で、ヤコブ書と同様、第一段階のユダヤ教内キリスト信仰の証言としての一面を持っています、しかし同時に、もはやユダヤ教とは相容れない立場を鮮明にして、ユダヤ教から退去する姿勢を取り、ユダヤ教会堂を激しく批判しています(マタイ二三章)。この点で、第三段階での成立と、その段階のユダヤ人共同体のキリスト告白の証言と見ることができます。

 この段階で、まだユダヤ教内部にイエスを信じるユダヤ人が残っていますが、彼らはエビオーン派として、福音展開史の片隅を占めるだけになります。

一つの命の多様な現れ

 以上、前節の「多様性」で見た各文書の成立事情の違いによる内容や特色の相違を、新約聖書時代の福音展開史の中に位置づけてみました。このような「位置づけ」を試みたのは、多様な各文書を統一的に理解するためでした。

 本節「一体性」の最初に述べたように、「その運動(福音宣教活動)は一つの命のうねりであり、それが表れる姿は担い手の宗教的背景や地域や時期という歴史的状況によって違ってきますが、そのうねりを引き起こす命自体は同じです。それは、主イエス・キリストの御名によって働く神の御霊の命です」。一つの生命を宿し、その生命を表現する歴史は一つの有機体です。人間の体を見ても、同じ生命を表現するのにそれぞれの肢体は、それが置かれている位置によって違った働きをして、生命は違った現れ方をします。キリストにあって歴史の中に働く神の御霊の命も、それを現す有機体の中でその担い手が置かれている位置によって、違った現れ方をします。

 この御霊の命が新約聖書時代の歴史の中に現れてくる姿はきわめて複雑であり、それを一つのシステムとして表現することは至難のことです。それで、今回はこの歴史過程をあえて単純化し、ユダヤ教の胎内から生まれたキリストの福音が、ユダヤ教から出て、別の信仰集団を形成する過程という視点から見て、その視点を軸として、その過程を三段階に分け、それぞれの文書を各段階に位置づけることによって、各文書の内容と特色の違いを理解するように試みました。これは、同じ命が違った現れ方をする理由を理解し、全体を同じ命の現れとして統一的に理解するためでした。
 しかし、その違いの理由を理解することよりも大切なことは、この多様な文書を生み出している同じ一つの命の質そのものを理解することです。そのためには、自らがこの命を受け、この命に生きるという現実がなければなりません。この現実があるときはじめて、この多様な文書からなる新約聖書を統一体として理解することができるのです。わたしたち自身が、キリストにあって、キリストの場に働く御霊によって生きるときに、新約聖書は一つの命の多様多彩な表現として、命の共感・共鳴の中でその豊かさを示すことになります。


光源としてのキリスト

 この同じ一つの命が様々な違った姿で現れることを、わたしはこれまでしばしば光源とスクリーンの比喩で語ってきました。たとえば、同じエーゲ海地域で、同じくユダヤ戦争後の時代に成立したコロサイ・エフェソ書とヨハネ黙示録では、同じキリストを告知する文書でも、キリストの姿は大きく違っています。その事実を説明するのに、同じ光源から出るキリストの光でも、それを投影するスクリーンが違えば、そこに映し出されるキリストの姿も違ってくると説明してきました。

 コロサイ・エフェソ書の著者は、パウロから受け継いだ御霊のキリストの命に生き、そのキリストを証言するために書いています。しかし、彼らの思考の枠組みは、パウロよりも一段とギリシア化されたものであり、パウロが熱烈なユダヤ教徒として前提としている救済史的な枠組みよりも、ヘレニズム世界の宇宙論的な枠組みで思考しています。彼らは、自分の内に輝くキリストの光を、多くの霊界の層からなるヘレニズム世界の宇宙(コスモス)というスクリーンに投影して、そこに映し出されるキリストを語るようになります。両書においては、キリストはこの霊的宇宙(コスモス)を支配される方であり、キリスト者およびキリスト共同体《エクレーシア》の目標は、将来のキリストの来臨による完成ではなく、現在この霊的宇宙(コスモス)を支配されるキリストに満たされることになります。

 それに対してヨハネ黙示録は、自分の内に燃えるキリストの光を、黙示思想的な歴史の終末というスクリーンに投影します。そのスクリーンに現れるキリストの姿は、将来(それは間近ですが)世界に来臨して、邪悪な支配を打ち破り、神の支配を完成される栄光のキリストです。著者である預言者ヨハネは、パレスチナ黙示思想の伝統を継承するユダヤ人であり、ローマ帝国による迫害という状況で、キリストの光を投影するスクリーンとしては、黙示思想的な終末というスクリーン以外にはありえなかったのでしょう。

光源とスクリーンの比喩については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』259頁の「一つの光源と様々なスクリーン」の項を参照してください。

 この光源とスクリーンの比喩は、ヘレニズム的宇宙論(コスモロジー)とユダヤ教黙示思想というような大きな枠組みの対比では有効かもしれませんが、さらに細かい相違を説明するには不向きな面があります。そのためには比喩をもう少し精密にして、光源とスクリーンの間にプロジェクター(投影機)を入れて考えると適切かと思います。すなわち、同じ光源を内に備えていても、プロジェクターが違えばスクリーンに映る映像は違ってきます。その際、「プロジェクター」とは、投射機器だけでなく、装置される原画も含みます。キリストにおける御霊の命という同じ光源を内に備えていても、どのようなプロジェクターを用いるか、とくにどのようなフィルム原画を装着するかで、スクリーンに映る映像は大きく変わります。

 福音の担い手が置かれている歴史的状況の違いは、この意味でのプロジェクターの違いと見てよいでしょう。同じキリストの命という光源を内に宿していても、その担い手の宗教史的立場とか、活動地域の特性とか、文書の成立時期とかの要因が、複雑なスライド原画となって、文書というスクリーンに微妙に違った姿のキリストを映し出します。ここまでに見た新約聖書文書の多様性と、それがどの段階の状況を映し出しているのかの位置づけの試みは、その違いの理由を理解することによって、映像の違いに囚われることなく、光源であるキリストの命に迫り、その命の光そのものを受け取るためです。この映像の違いの理由を理解していなければ、映像を絶対化して、映像が示す特殊な姿のキリストをキリストのすべてであるとする誤りに陥ります。

 こうして、多様な文書からなる新約聖書の一体性は、この多様性を生み出す原動力であるキリストの御霊の命にあずかり、多彩な文書の光源である御霊のキリスト御自身との交わりに生きることによって、はじめて把握することができます。その光源から見ると、各文書の違いの意義が理解でき、全体を統一体として理解することができます。それがなければ、相矛盾する内容を含む多様な諸文書を統一体として理解することはできないでしょう。
光源としてのキリストと正典

 ところで、新約聖書の諸文書が生み出された時代には、現在の新約聖書に収められている二七の文書の他にも多くの信仰文書が書かれていました。そして、それ以後の時代(二世紀から三世紀)には、実におびただしい数の信仰文書が生み出されました。その中には、光源自体が変わってしまっていると判断せざるをえないような文書も現れます。

 もちろん、変わった側の文書も、これが真の命であり、真理の光だと主張するのですから、激しい論争が起こることになります。この時期(二世紀から三世紀)の論争は、自分たちこそ使徒たちの教えを正統的に継承していると主張するいわゆる「正統派」と、特別に自分たちに与えられた霊的知識《グノーシス》による救済を主張する「グノーシス主義」諸派との論争となります。この論争の経過は本稿の範囲を超えますので立ち入ることはできませんが、結局正統派が勝利して、グノーシス主義諸派は歴史の舞台から消えていきます。

 この過程で、正統派からは多くの「異端論駁」の書が書かれ、正しい使徒的信仰の基準として受け入れることができる文書の選別が行われるようになります。この選別についてもかなりの曲折がありましたが、ようやく四世紀に入って現在の二七の文書が、正しい使徒的信仰の基準として当時の共同体に広く認められ、「正典」となります。

 こうして使徒たちの信仰を正しく継承するものと認められた「正典」諸文書にも、以上に見たように様々な違いや矛盾があり、けっして教義として統一されたシステムではありません。しかし、正典は、その多様な映像を映し出している光源の同一性を保証しています。この保証は、初期のキリスト共同体全体が、三世紀を超える信仰体験によって戦い取ったものであり、尊重されなければなりません。

新約聖書と現代

 このように多様な新約聖書諸文書を、同じ命が通じている異なる機能の肢体からなる有機体として、また同じ光源から発する多彩な映像の集合として理解するとき、現代のわたしたちが新約聖書をどのように受け取り、どのように生かすべきかが見えてきます。

 まず、このような理解から、新約聖書文書にある映像の一部を絶対化することの誤りが見えてきます。分かりやすい例をあげますと、新約聖書の中に「千年王国」の預言があります。これは、先に見たようにユダヤ教終末思想というスクリーンに映し出された特殊なキリストの映像です。それを絶対化して、その実現を信仰の要件としたり教義とするのは、特殊な一つの映像を絶対化する誤りです。

 このような極端な場合だけでなく、パウロの信仰義認の主張さえも、ここで見たように、福音がユダヤ教の枠を超えようとして激しく戦っている段階のものであることを理解すれば、それを福音の核心とすることは不適切であることが分かります。現にコロサイ・エフェソ書では、そうではなくなっています。もちろん、この教説は恩恵の絶対性の表現の一つとして不滅の意義をもっていますが、その教説自体の位置を見誤らないようにしなければなりません。

 わたしたちの課題は、新約聖書の文言を不変の教義として信奉・服従するのではなく、その多様な証言を生み出している命、キリストにある御霊の命そのものを受け取り、その命を現代に生きることです。新約聖書各文書に映し出されている多彩な映像を映し出している光源である御霊のキリストを内に宿すことによって、その光によって現代というスクリーンにキリストの姿を映し出すことです。わたしたちの存在がプロジェクターとなって、現代という歴史の状況にキリストの栄光が映し出されること、これが現代に生きるキリスト者の使命です。どの時代のキリスト者も、この使命が課せられています。

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