市川喜一著作集 > 第29巻 ペトロ ― 弟子から使徒へ > 第6講

補 論  使徒ペトロと使徒パウロ

はじめに

 七〇年のエルサレム神殿崩壊前の最初期の福音活動を担った代表的な使徒として、ルカの使徒言行録は前半で使徒ペトロの働きを述べ、後半で使徒パウロを語っています。しかし、この二人の使徒としての働きの期間は実際には重なっていますので、使徒ペトロについて記述するときには、両者の関係についても触れないで済ますことはできません。ここで「補論」として、この二人の使徒の関わりを瞥見しておきたいと思います。最初に年代の問題から入り、使徒会議を区切りとしてその前と後で、使徒ペトロに焦点を合わせながら両使徒の関わりがどのようであったかを見ます。

使徒会議以前の使徒ペトロ

 最初に両使徒の年代の重なりについて見ておきます。使徒ペトロは、イエスの十字架の年の三〇年の五旬祭(ペンテコステ)の日から、エルサレムで証言活動を始めています。そして第四章で見たように、四四年にエルサレムを去るまでの十四年間エルサレムにいて、そこを拠点として福音活動を進めていたようです。一方、エルサレム共同体を迫害したパウロは、三三年にダマスコの信徒を逮捕するために向かう途上で、復活者イエスに遭遇して回心しています。その後しばらくダマスコやアラビア(ナバテア王国)で活動、「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、一五日間彼のもとに滞在しました」と語っています(ガラテヤ一・一八)。

 ユダヤ人の年の数え方からすると、この回心から足掛け「三年後」は三五年を指すようで、この年にパウロは福音活動の中心人物とされている使徒ペトロをエルサレムの住まいに訪ねて、十五日間にわたって二人だけでじっくり話し合っています。この二人の会談は、最初期の福音活動にとってきわめて重要な意義をもつ出会いとなります。パウロは弟子ペトロから地上のイエスの働きと教えの言葉を詳しく聞き、使徒ペトロからはエルサレム共同体の信仰内容を直接伝えられたことでしょう。ペトロも聖書学者のパウロから、イエスの出来事の聖書的救済史意義を聞くことができたでしょう。

使徒ペトロと新しく回心したパウロの会談について詳しくは、拙著『福音の史的展開T』の223頁「回心後最初のエルサレム訪問」を参照してください

 その後ペトロは四四年のヘロデ王の迫害の時にエルサレムを去るまで、五旬祭の宣教開始からほぼ一四年にわたって、エルサレム共同体を拠点として、パレスティナ各地に福音を告知する活動を進めていきます。その間、パウロはアンティオキアに成立した有力な信仰共同体の指導的なメンバーとして、異邦人を多く含むアンティオキア共同体を指導し、周辺各地にキリストの福音を宣べ伝える働きを進めています。このアンティオキア共同体の成立とその歩みについては、ルカの使徒言行録もやや詳しく伝えています(使徒一一・一九〜三〇)。

 それによると、「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉(福音)を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた」のです(使徒一一・一九〜二〇)。ここに「ギリシア語を話す人々」と訳されている《ヘレーニスタイ》は、六章の《ヘレーニスタイ》と同じ語ですが、ここでは「ユダヤ人以外のだれにも御言葉(福音)を語らなかった」と対照されているのですから、「ギリシア語を話すユダヤ人」ではなく、「ギリシア語を話す人々」一般、すなわちギリシア人一般を指すと理解しなければなりません。ここで初めて福音がユダヤ人以外の異邦人に宣べ伝えられた出来事が語られ、アンティオキアに異邦人を多く含む信仰共同体生まれることになるのです。

 このアンティオキア共同体にはペトロもたびたび訪れているようで、エルサレム共同体の信仰を伝え、弟子としてイエスに従った体験からイエスにかかわる伝承(イエスの働きや教えの言葉など)を多く伝えたことでしょう。エルサレム共同体は、その中の「聖霊と信仰に満ちた」立派な指導的な人物バルナバを、新しく成立したアンティオキア共同体に派遣して、アンティオキア共同体を援助します。このバルナバはその後もアンティオキアに止まり、アンティオキア共同体を代表する指導的人物として福音のために活動します(使徒一一・二一〜二四)。

 バルナバはパウロの回心以来の親しい友人であり、その頃故郷のタルソに戻って活躍していたパウロを探してアンティオキアに連れてきて(おそらく三九年か四〇年)、共同でアンティオキア共同体の指導に当たります(使徒一一・二五〜二六)。ペトロもしばしば、この新しく成立したアンティオキア共同体に来てイエス・キリストのことを語ります。また「預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下ってきた」とあるように、聖霊の賜物に豊かな霊的な人物がエルサレムからアンティオキア共同体に来て、信仰生活の援助と指導をしますが、一方アンティオキア共同体もその豊かな資力で、飢饉の時などに援助の品を贈るなどしてエルサレム共同体を援助しています(使徒一一・二七〜三〇)。

アンティオキア共同体の成立とそこでのバルナバとパウロの協力関係について詳しくは、拙著『福音の史的展開T』226頁の「U アンティオキア共同体の成立」の項を、またアンティオキア共同体の福音活動については同書291頁の「T アンティオキア共同体の福音活動」の項を参照してください。

使徒会議における使徒ペトロ

 このように新しく成立したアンティオキア共同体は、エルサレム共同体との緊密な交わりの中で信仰の歩みを進めていくことになり、その有力な一員であるパウロはしばしば来訪する使徒ペトロと親しくなり、この使徒ペトロをよく知るようになったと考えられます。ところがその頃、すなわちバルナバとパウロがキプロスと小アジアへの福音活動を終えてアンティオキアに戻ってきていた四八年ごろ、アンティオキア共同体に多い異邦人(非ユダヤ人)信徒に割礼を施すべきか否かの問題でエルサレム共同体との間に対立が生じていました。

 アンティオキア共同体では、割礼を受けているユダヤ人信徒と割礼を受けていない異邦人(非ユダヤ人)信徒は、一緒にキリストにあって神を礼拝し、パンを裂き杯を回す食卓を共にしていました。事実、アンティオキア共同体から送り出されてキプロスと小アジアで行ったバルナバとパウロの福音活動でも、信仰に入った異邦人に割礼を施したということは全然報告されていません。ところがユダヤ人信徒で構成されているエルサレム共同体は、とくに《ヘレニースタイ》(ギリシア語を話すユダヤ人)がステファの事件以来弾圧されてエルサレムを去ってからは、「義人」と称せられるヤコブを代表として立て、ユダヤ教律法の順守を当然として周囲のユダヤ教徒と平穏に歩んで来ていたので、アンティオキア共同体では割礼を受けているユダヤ教徒と無割礼の異邦人が食卓を共にして交わっているという状況が伝わってくることは、エルサレム共同体にとってはその集会が異教徒と交わる律法違反の集団として見られて、存続に関わる重大事です。それでエルサレム共同体はアンティオキア共同体も異教徒からの信者に割礼を施すように説得するための使節団を送って、キリスト信仰の民はユダヤ教律法を無視しているのという非難を避けようとしたのではないかと考えられます。この使節団については、パウロは「ヤコブのもとからのある人々」と呼んでいます(ガラテヤ二・一二)。

 この使節団がアンティオキアに来て、異邦人の信徒たちに「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と主張します(使徒一五・一)。同じ主張が「異邦人には割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」とも言われています(使徒一五・五)。この主張は、救われて神に受け入れられる者、神の民となるには、割礼を受けてモーセの律法すなわちユダヤ教の諸規定に従う者(ユダヤ教徒)にならなければならないという主張であり、神の救いをユダヤ教という特定の宗教の枠の中に限定するものです。

 この主張に対してアンティオキア共同体のパウロやバルナバは反対して激しい論争となります。そして「この件について使徒や長老たちと協議をするために、パウロやバルナバ、その他数名の者がエルサレムに上る」ことになります(使徒一五・二)。このエルサレムにおける「使徒や長老たち」とパウロらアンティオキア共同体の代表者たちの協議が、通例「エルサレム使徒会議」と呼ばれるようになります。この協議は四八年に行われたと考えられます。この時にはペトロはもうエルサレムを去っているのですから、呼び出されて旅先から、あるいはどこか他の地からエルサレムに来て、この会議に出たものと考えられます。ペトロはこに時期における福音活動の中心人物ですから、ペトロ抜きでこの重要な問題について協議をすることは考えられなかったのでしょう。

 この協議の経過と結論は先に見たとおりですが(72頁)、ここでもペトロが決定的な役割を果たします。議論を重ねた後ペトロが立って一同に、コルネリウスの家で起こったこと、すなわちペトロが語る福音を聞いていた異邦人のコルネリウスとその家の一同に聖霊が降り、一同が異言をもって神を賛美したという事実を語ります(使徒一五・六〜一一)。このペトロの報告によって会議の大勢は決まり、議長役のヤコブの決定で、異邦人信徒は割礼受けてユダヤ教に改宗する必要はないという主旨の手紙を、アンティオキアと周辺地域の異邦人信徒たちに送ることになります(使徒一五・一二〜三一)。

 この事実からも、コルネリウスの家での聖霊降臨の出来事がいかに重要な意味を持つかが分かります。この使徒会議は、福音が世界の諸民族に与えられる神の恩恵の告知となるか、あるいは単にユダヤ教という宗教の伝道活動の一齣になるかの分岐点であったのです。この重要な出来事を神はペトロへの三度にわたる幻という非常手段を用いて実現されたのです。

使徒会議以後の使徒ペトロ

 四四年にエルサレムを去ってからのペトロの行動は、四八年と見られるエルサレムの使徒会議以外には新約聖書には記録もなく、伝承もほとんど無くて記述することができません。ただパウロ書簡にペトロあるいはケファに関する言及が少しあるので、それを手がかりにエルサレムの使徒会議以後のペトロの姿を探ってみたいと思います。

 使徒会議後では、食卓事件で見られるように盟友バルナバまでもペトロに同調、使節団の説得に従うようになったので、パウロはアンティオキア共同体で孤立し、自分のよき理解者シラスと組んで独立の福音告知の旅に出発します。ユダヤ教では教えのための旅は二人一組で行うことが求められています。シラスはギリシア語に堪能な「ギリシア語系ユダヤ人」で、後にペトロの名による手紙を自分の手で書いたようです(ペトロT五・一二)。パウロの一行はアンティオキアを出て、デルベやリストラなど先に福音を伝えたアナトリア南部の諸都市を再訪、その時にテモテを一行に加え、アナトリア西端の港町トロアスに到着、そこから海を渡りエーゲ海北岸のマケドニア州の州都テサロニケで活動、さらにエーゲ海西岸の古都アテネを経て州都コリントに到着し、そこでかなり長期に福音活動を進め、かなり成功して有力な信仰共同体を形成するに至ります(使徒一五・三六〜一八・一七)。

 パウロのコリント滞在は五〇年秋から五二年春までの一年半だと考えられます。その後、海路でエフェソ経由でアンティオキアに戻り、エルサレム共同体を訪問、アンティオキアにしばらく滞在して再び陸路でアナトリア半島を横断、西南端のアジア州の州都エフェソに至ります(使徒一八・一八〜一九・一)。このエフェソには五三年から五五年に至る二年ほども滞在して、周辺の諸地域に福音を宣べ伝えます。そのエフェソ滞在中に、先に福音を伝えて形成したコリントの集会から使いの者が来て、コリントの集会に起こった様々な問題について使徒パウロの指導を求めます。

 その求めに対してコリントの集会にあてて書いたパウロの手紙の中に、コリント集会の中に「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」などと言い合って、分派が生じているいることを伝え聞いたパウロが、その分派的行動を戒める文章があります(コリントT一・一〇〜一七)。これから見るとケファすなわちペトロも、パウロの後にコリントに来て伝道活動をしたことが推定されます。同じコリント書(T九・五)で、「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」とも言っているところからすると、ペトロはエルサレムを去ってから各地に福音を宣べ伝える旅を続けるさいに、妻を連れていたようです。しかしその妻がローマまで同行したのか、ペトロの殉教の後どうなったのか、その消息は一切不明です。

 またコリントあての第二書簡には、「あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う」(コリントU一一・五)とか、「わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです」(コリントU一二・一一)というような言葉があります。この「大使徒」という表現が、コリントで活動したペトロを指しているのかどうかは争われておりますが、ここでいつも「あの大使徒たち」と複数形で語られていることからして、これはペトロを指しているのではなく、パウロのコリントでの福音活動のあとコリントにやってきて、パウロを批判して自分たちに従わせようとした様々な自称使徒たちを指していると考えられます。パウロはこのようなエルサレムやアンティオキアの共同体の権威を笠に着る自称「大使徒」たちの自分に対する批判を論駁するのに苦労しています。

このような自称「大使徒たち」との論争については、拙著『パウロによるキリストの福音V』135頁の「第三章 信仰の逆説」の最初に置いた、「はじめにー『涙の手紙』」と「パウロの論敵」の二つの項目を参照してください。その章におけるコリント書簡の講解の中に、ここに引用した「大使徒たち」に関する説明があります。

使命の問題

 ここで第四章で取り上げたエルサレムでの「使徒会議」のことを、パウロの側から見た記事がガラテヤ書二章(一〜一〇節)にあるので、その記事から使徒パウロとの関わりおける使徒ペトロの姿を見ておきましょう。

 先に見たように、この使徒会議では異邦人信徒には割礼を施す必要がないことが認められました。すなわちパウロが主張する「無割礼の福音」が認められたのです。割礼を受けていない異邦人もイエス・キリストを信じることで、割礼の無いままで神に義とされ受け入れられるという原理が認められたのです。割礼は神とのかかわりでは当然としてきたユダヤ教徒によって開始された福音運動でこの原則が認められたことは、文字通り「画期的な」事件でした。パウロもバルナバもユダヤ人、すなわちユダヤ教徒です。そのパウロが唱える「無割礼の福音」が認められたのですから、それ以後、キリストを告知する福音活動は、ユダヤ教の諸規定から解放された自由な宗教活動となることができたのです。この原理こそ、パウロが「福音の真理」と言っていることなのです(ガラテヤ二・五)。

 このパウロの「無割礼の福音」の原理を認めたエルサレム共同体の「柱と目されるおもだった人たち」、ヤコブとケファとヨハネの三人は、パウロとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出します(ガラテヤ二・九前半)。この事態をパウロはこう理解します、「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたし(パウロ)には割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました」(ガラテヤ二・七)。それで「わたしたち(パウロとバルナバ)は異邦人へ、彼ら(ヤコブ、ケファ、ヨハネ)は割礼を受けた人々の所に行くことになったのです」(ガラテヤ二・九後半)。こうして使徒会議は、ヤコブ、ケファ、ヨハネが指導するエルサレム共同体は割礼受けた人々、すなわちユダヤ教徒への福音活動を受け持ち、バルナバ、パウロが代表するアンティオキア共同体は異邦人に福音を告知して、信じる者を割礼なしで受け入れることになります。

 その後パウロはアンティオキア共同体からも出て、シラスと共に異邦人の世界、すなわちギリシア世界の諸都市に福音を伝える独立自給の福音活動を進めることになります。使徒言行録一五章(三六〜四一節)以後のパウロの福音活動は、それまでのアンティオキア共同体の福音活動の一環としての活動とは違って、まったくパウロ独自の福音活動となり、その活動によって形成されたエーゲ海地域の諸集会、北岸のテサロニケ集会を中心とするマケドニア州の地域、西岸のコリント集会、東岸のエフェソを中心とする諸集会は、パウロを使徒として仰ぎ、その指導の下に信仰生活を進めることになります。これらの地域では使徒ペトロの影響はほとんど認められません。

使徒ペトロの権威の問題

 それに対してパレスティナ・シリア地域では使徒ペトロの指導と影響は広範囲に及び、この地域ではペトロが使徒の典型として仰がれるようになります。この地域の南の中心エルサレムでは、主の兄弟ヤコブが共同体を取り仕切り、この時期(七〇年の神殿崩壊までの時期)の福音活動の中心人物としての存在感を発揮しています。パウロもその福音活動のさなか何回かエルサレムにヤコブを訪れ、自分の福音活動をエルサレム共同体と結びつける努力をしています。

 それでペトロはエルサレム以外の地域に足を運び、とくにアンティオキアを中心とするパレスティナ北部のシリアには大きな足跡を残したようです。ペトロとアンティオキアの密接なつながりを示す興味深い遺跡の一つを紹介しますと、アンティオキアの町の東にあるシルピオン山北麓の岸壁に「聖ペトロの洞窟」と呼ばれる広い洞窟があり、地元の伝承では、ペトロがアンティオキアに来たとき、そこに集まってきた信者にイエスの教えを伝えたとされています。パウロが共同の食卓の問題でペトロを批判したのも、マタイがその福音書を書いたのもこの洞窟だと言い伝えられています。アンティオキアには複数の「家の集会」がありましたが、エルサレムからペトロや使徒・預言者が来たときには、このような郊外の洞窟に集まって、その説教を聴いたと想像されます。

この「聖ペトロの洞窟」に関する記事は、森本哲朗『神の旅人ー聖パウロの道を行く』(PHP文庫)からの引用です。

 この言い伝えにも出てきますが、「マタイ福音書」が書かれたのはアンティオキアであるという説は現在でも有力です。この福音書がシリアで成立したという点では、ほとんどの研究者の意見は一致していますが、シリアの中でアンティオキアで成立したと言うには、論拠が十分でないという批判もあります。しかしこの福音書の内容からして、シリアでの成立を前提にして読むことはできます。ドイツの標準的な新約聖書注解シリーズのNTDでもこのマタイ福音書について、「この福音書記者は何よりもシリア教会のユダヤ人キリスト者の中に探し求められるべきであろう」と結論し、EKK新約聖書註解の「マタイによる福音書」で著者のルツは、「マタイ(福音書)がシリア地域から由来する」という点では一致するが、「おそらくアンティオキアにあったある教会から由来する」というのは一つの仮説以上のものではないと言っています。

 その成立の由来にふさわしく、マタイ福音書はシリアのアンティオキア共同体と親しい関係にあったペトロを中心にイエスの福音を語っていますが、その中で特に際立っているのは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスの問いに、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるという場面です(マタイ一六・一五〜一六)。最初の福音書と考えられるマルコ福音書では、この場面でイエスが苦難を受けることを語り出されたとき、それを諫めたペトロは「サタンよ、引き下がれ」と叱責されていますが(マルコ八・三一〜三三)、マタイではその叱責の前に、ペトロの告白に対してイエスが「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言って、その後に「わたしは言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会(エクレシア)を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言っておられます(マタイ一六・一七〜一九)。

ここで用いられている「つなぐ」とか「解く」という用語はラビ(ユダヤ教の聖書学者)たちの用語で、「つなぐ」は彼らによって罪として禁じられている行為、「解く」は彼らによって罪とはされず許されている行為を指します。ここでのイエスの言葉によって、後世にはペトロが「天国の鍵」を持っているかのようなイメージが形成されることになります。

 ペトロに対するイエスのこの言葉を根拠にして、イエスから岩という意味の名をいただいたペトロこそ、その上にイエス・キリストの教会《エクレーシア》が建てられる土台岩なのだとして、使徒ペトロの後継者をトップにいただくローマ教会こそ、その上にキリストがご自身の教会《エクレーシア》を建てられる土台であるという主張が出てきます。しかしこのペトロをキリストの《エクレーシア》の土台とする理解は再考を求められています。このイエスの言葉を伝えているのはシリヤで用いられていたマタイ福音書だけで、福音書の最初の形であるとされるマルコ福音書にはありません。パウロが福音を宣べ伝えて形成したエーゲ海地域の諸集会では、パウロが唯一の使徒であって、ペトロが天国の鍵をもっているという主張は受け入れることはできなかったことでしょう。エデッサからインドに至るまで東方に福音を伝えたトマスを使徒と仰ぐ地域では、聖トマスこそ唯一の使徒であり、キリストの教会の土台であることでしょう。

 キリスト教の歴史において、天と地の創造者にして唯一の神からの言葉として、主イエス・キリストの福音を深く理解して、その理解を書で伝える霊的な人物は多く出ました。わたしもそのようなキリスト教史における師父たちから少しでも学ぼうと志しましたが、その志はとうてい果たせそうにありません。そのような師父たちから学ぼうとすれば、人生がいくつあっても足りないでしょう。そこで彼ら師父たちも目標かつ基準とした新約聖書を探求、理解した限りのことを著作にまとめてきました。そして著作をまとめることができる最後の年齢になって(著者は現在九〇歳を超えています)、やっと第一の使徒というべきペトロの姿を著作にまとめる試みをすることができた次第です。

 それができるようになった理由は、前述の「むすび」で述べたところです。ここでペトロの生涯の最後について語っておきたいのですが、ペトロの最後については新約聖書に明確な記録や証言はありません。それで、ペトロの名によって書かれている「ペトロ書」や、新約聖書時代に近い教父らの著作や伝承から、歴史的に確実とみられる伝承によって、使徒ペトロの生涯の最後の時期について触れておきたいと願います。

ペトロ書簡の問題

 新約聖書にはペトロのものとされる書簡が二つ含まれています。二つともペトロ自身によって書かれた手紙ではなく、使徒の弟子とか協力者によって、使徒ペトロの名によって書かれた「使徒名書簡」と見られますが、第二書簡にはかなり後の使徒名書簡であって、ペトロについての情報はほとんどありませんので、第一書簡から最後の時期のペトロについて知りうるところをまとめてみたいと思います。この第一書簡は八〇年代にローマで書かれたと見られます、  

「使徒名書簡としてのペトロ書簡」については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』303頁の第六章第一節「ペトロ第一書簡の成立」を参照してください。なおこの項での聖書引用箇所はすべてペトロ第一書簡からですので、書名は略して章と節の数字だけをあげます。

 これは手紙ですから差出人と宛先が最初に、「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と明記されます(一・一)。この宛先の地名はアナトリア(現在のトルコ)のローマ属州のすべてですから、この手紙が書かれた八〇年代には、アナトリア半島の全地にキリスト信仰の民がいたことになります。そして手紙の終わりに、この手紙が書かれた状況を示す以下のような文があります。「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています」(五・一二〜一三)。

 この手紙の発信人は、「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」と言っています。発信人ペトロが自分でこの手紙を書いたのではなく、「忠実な兄弟と認めているシルワノによって」書いたと言っているのです。これはペトロが口述してシルワノに書き取らせたという意味ではなく、シルワノがペトロの言いたいことをペトロの名によって宛先の兄弟たちに書き送ったという意味に理解しなければなりません。この手紙のギリシア語は洗練された文章で、ヘレニズム諸都市に福音を伝えるのにマルコを通訳として伴わなければならなかったガリラヤの漁師ペトロのギリシア語だとは考えられません。またこの手紙の内容もきわめてパウロ的で、パウロの福音告知の旅に同行して、パウロと一緒にエーゲ海地域で福音を語ったシルワノの文章とすると、その内容がパウロ的であることもよく理解できます(シルワノはギリシア語を母語とするユダヤ人です)。

「シルワノ」は、パウロがアンティオキア共同体から独立してエーゲ海地域に福音活動を開始したときに同伴者とした「シラス」のラテン語名です。

 最後の同伴者からの挨拶にある「共に選ばれてバビロンにいる人々」という句は、「バビロン」が最初期のキリスト者の間で広くローマを指す隠語として用いられていたことから(黙示録一四・八など)、ペトロがローマにまで来ていたことを示す指標としてあげられています。この時代(七〇年までの時代)には、ローマにはまだ一人の監督の下に統合された共同体はなく、各種のグループがそれぞれ別個に活動していたことがパウロのローマ書一六章の「よろしく」の挨拶文に見られます。ローマにはシルワノやマルコを含むペトロ・グループが形成されていたと見られます。この書簡はこのグループがペトロから継承しているキリスト信仰の内容を、ペトロの名でこの書に書き表したものと考えられます。

 この第一書簡はペトロの名で書かれていますが、その内容はきわめてパウロ的です。個人的なことになりますが、わたしも信仰に入った当初、この手紙に惹かれて繰り返し読み、信仰の導きとして愛読しました。その手紙の内容は拙著『パウロ以後のキリストの福音』の第六章「寄留の民の苦難と希望 ー ペトロ第一書簡におけるキリストとその民」で講解していますので、それを参考にしてペトロ書本文を熟読されることをお奨めします。とくにその章の第三節「ペトロ第一書簡の位置と意義」をお読みくださるようにお願いします。

ローマ滞在と殉教死の問題

 使徒ペトロは、これまでに見てきたように、四四年にエルサレムを出てからはイエス・キリストの福音を宣べ伝えて各地を巡回して旅を続けたようですが、パウロのコリント書簡からコリンにも来て活動したことが推察できる他は、詳しいことは分かりません。ただ最後にはローマに来て活動、そこで殉教の死を遂げたことが語り伝えられています。

 ローマでの使徒ペトロの活動については新約聖書には言及がありませんので、ペトロに関する様々な言い伝えなどの伝承によって推察することになります。それによるとペトロは六〇年代の前半ごろにローマに到着、しばらくローマに滞在して活動、ネロ帝統治の時代に殉教したと伝えられています。ネロ帝の在位は五四年から六八年までですから、ペトロはネロの治世の後半期のどこかの時点でローマに到着していると考えられます。

 ローマ皇帝ネロの統治は、その前半は哲人セネカを補佐を得て善政を施しています。ところが六二年にセネカが辞任して、後半はだんだんとと横暴な面が出てきたようです。六四年のローマの大火災に際して、当時その存在が噂になっていたキリスト教徒を犯人として仕立てて処刑し、ローマ市民の批判を招いたようです。晩年には猜疑心が強くなり、側近の有力者を死に追いやり、実の母親まで殺すに至ります、そして六八年に追い詰められて自殺するに至ります。

 このようなネロ帝の治世の後半期に、最初期のキリストの使徒を代表する二人の大使徒、使徒ペトロと使徒パウロがローマに来て、キリストを証したことは象徴的です。パウロはエルサレムでの裁判で皇帝への上訴を申し立てて、囚人として護送されて来るのですが、パウロ自身も福音活動の最後にはローマ帝国の首都であり、当時の地中海世界の中心であったローマでキリストを告知することを目標としていました。使徒ペトロもエルサレムを出て、地中海各地を巡回してキリストの福音を告げ知らせる活動を続けていたのですから、当然帝国の首都であり、世界の中心であるローマを目指していたことでしょう。こうして世界に福音を告げ知らせる使命を神からのものとしていた両使徒は、その世界の中心であるローマで、キリストを証しすることになるのです。

 ここで「証しする」と言いましたが、これに相当するギリシア語《マルチュロー》という動詞には二つの意味があることに留意しなければなりません。一つは自分が知っていることを証言するという意味です。これが本来の意味ですが、またもう一つの意味として、生涯をかけて、あるいは死を通して一つの証言を貫くという意味もあります。従って《マルチュロー》する人《マルチュス》は、キリスト教世界では「証人」という意味と、死をもって信仰を証しする「殉教者」という二つの意味で用いられます。使徒ペトロも使徒パウロもローマで《マルチュス》、死をもって信仰を証しする人となったのです。

 使徒パウロの最後についてルカは何も書いていません。パウロは皇帝の裁判を受ける囚人としてローマに送られたのですが、ローマでのパウロの最後については、ルカの記事は二年の「自費で借りた家」での拘留で終わっており、裁判の結果は何も報告されていません(使徒二八・三〇〜三一)。結果が報告されていないのは、おそらくルカがパウロは有罪とされて処刑されたことを知っているからであろうと推察されます。

 一方使徒ペトロに関しては、その最後について新約聖書は何も触れていませんので、一切は伝承に基づく推察になります。その言い伝えの中でとくに有名なのは、「クォ・ヴァディス」の物語です。ローマでキリスト教徒の迫害が起こったとき、ペトロはローマを脱出します、途中ローマへ向かう人とすれ違い、「どこに行かれるのですか」と訊ねます。するとその人は、「わたしはイエスである。あなたがわたしの民を見捨てるので、わたしはその民のためにローマ行く」と答えたので、ペトロはローマに引き返し、殉教したという物語です。この「どこへ行かれるのですか」のラテン語が「クォ(どこへ)・ヴァディス(あなたは行くのか)」です。また、ペトロがローマで十字架刑によって殉教するとき、主イエスと同じ姿で十字架されるのは畏れ多いとして、頭を下にして十字架される「逆さ十字架」を望んだという言い伝えもあります。

 このように福音の最初期における二人の偉大な使徒、ペトロとパウロはほぼ同じ時期(六〇年代前半)に、当時の世界の中心地であるローマで殉教の最後を遂げることになります、

「クォバディス」の物語について

新約聖書ではヨハネ福音書一三章三六節に「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか』」とあります。ここのペトロの問いの部分のラテン語訳が「ドミネ、クォ・ヴァディス」となります。ヨハネ福音書では、イエスが十字架の前の夜に弟子たちと最後の食事をされたとき、イエスを裏切るユダが出て行くと、イエスが言われます。「子たちよ、いましばらくわたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行くところにあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」。それに対してペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と訊ねるのです。このペトロの問いの言葉を題名にした小説「クォ・ヴァディス」がポーランドの作家、ヘンリク・シェンキェヴィッチによって出版され、著者は後(一九〇五年)にノーベル文学賞を受けます。この小説は一九五一年にハリウッドで映画化され、日本でも有名になります。


ペトロがローマを去ろうとしたときイエスに出会って引き返した出来事を物語る箇所が。外典の「ペトロ行伝」三五章にありますので、その章の一部を引用しておきます。

ペトロは(ローマから去るように)兄弟たちから説得され、「あなたたちのだれもわたしについて来ないように。わたしは変装してひとりで出て行くことしにます」と言い、ひとりで出て行きました。そして彼が(市の)門まで来た時、主がローマにはいって来られるを見ました。ペトロは主を見て、「主よ、ここからどこへ(行かれるのですか)」と尋ねました。主は彼に答えられました、「わたしは十字架にかけられるためにローマに入っていく」。そこでペトロは主に言いました、「主よ、ふたたび十字架につけられるおつもりなのですか」。主は彼に答えられました、「そうだ、ペトロ、わたしはふたたび十字架につけられるのだ」。その(答えを聞いた)時、ペトロはわれに帰って、主が天に昇ってゆかれるのを見ました。

ペトロの逆さ十字架刑について
同じく外典の「ペトロ行伝」の三七〜四〇章に、ペトロが処刑されて殉教する次第が語られているところを、抜粋で引用しておきます。

彼は進んでゆき、十字架の傍らに立った時、語り始めました。「おお、十字架の名よ、隠された秘密よ。(中略)さあ、あなたたち、それを職務としている者たちよ、(わたしのからだを)持って行きなさい。ただあなたたち刑吏、次のようにようにしてしてわたしを十字架につけるように、つまり頭を下にして、そしてそれ以外の仕方で(処刑することの)ないようにお願いします」。
 さて、彼らがペトロの望み通りの仕方で(十字架に)かけた時、彼はふたたび語り始めました。(中略、そしてその話をペトロはアーメンという言葉で閉じますが、それに合わせて)そこにいあわせた群衆が大声でアーメンと叫んだ時、このアーメン(の声)と同時にペトロはその霊を主に渡したのでした。

「ペトロ行伝」について

 ここに抜粋で簡単に紹介したような内容を語る「ペトロ行伝」という文書は、ペトロについて言い伝えられている伝承を集めた文書で、おそらく三世紀頃に成立したものと考えられています。現在伝えられている「ペトロ行伝」全文は、教文館発行の「聖書外典偽典7」の「新約外典U」に小河陽訳で収められていますので、関心のある方は参照してください。