市川喜一著作集 > 第29巻 ペトロ ― 弟子から使徒へ > 第1講

第一章 イエスの弟子ペトロ

ペトロとイエスの最初の出会い

 ペトロが最初にイエスに出会ったのは、洗礼者ヨハネのバプテスマ運動に参加して、その洗礼者ヨハネのもとにいる時でした。そのことは洗礼者ヨハネのもとにいた若き日のヨハネ(ヨハネ福音書の著者のヨハネ)がよく知っています。彼が伝えるところによると(ヨハネ一・三五〜四二)、シモン(イエスに出会うまでのペトロの本名)の兄弟アンデレとこの年若いヨハネは親しく、アンデレによってシモンがイエスと出会った事情をよく知っていました。

 当時同じく洗礼者ヨハネのバプテスマ運動に参加しておられたイエスのことを、アンデレが兄弟のシモンに「わたしはメシアに出会った」と言って、シモンをイエスのところに連れて行きます。連れて来られたシモンを見つめて、イエスは「あなたはヨハネの子シモンである。あなたは(これから)ケファと呼ばれることになる」と言われます。ここでヨハネ福音書は、「ケファ」というアラム語は「岩」という意味の語であると説明しています。ここで「ケファ」の意味の説明に用いられている《ペトロス》というギリシア語は「岩」という意味の語です。

 イエスがシモンを「岩」と呼ばれたことの意味は、後にマタイ福音書一六章(一三〜二〇節、とくに一八節)で語られることになりますが、そのことは別に扱うことになります。ここではその語意の説明にとどめます。福音書で「ケファ」という呼び名が用いられているのはここだけですが、パウロはユダヤ人としてのペトロのことを議論するときに、彼を「ケファ」と呼んでいます(ガラテヤ二・一一〜一四)。コリント第一書にも数回出てきます。ペトロは最初期の共同体で「ケファ」と呼ばれていたようです。

イエスの弟子としてのペトロ

 ペトロがイエスの弟子として、イエスのガリラヤでの宣教活動に付き従って行動するようになったのは、ペトロの壮年期のことでした。シモンはすでに結婚して妻や子供がいます。漁師の仕事で家族を支える立場です、シモンとアンデレの兄弟は、ガリラヤ湖北岸のベトサイダ出身ですが(ベトサイダはヨハネ一・四四で「アンデレとペトロの町」と呼ばれています)、イエスに出会った頃にはガリラヤ湖西岸のカファルナウムに住んでいます。イエスもカファルナウムに住んでおられたので(マタイ四・一三)、同じ小さな町の中で身近な交流があったことは、会堂を出た一行がシモンとアンデレの家に行って、シモンの姑(しゆうとめ)の熱をイエスが癒やされた記事(マルコ一・二九〜三一)からも察することができます。

 イエスはカファルナウムを拠点にガリラヤの各地を巡り歩いて、病人を癒やし、悪霊を追い出し、盲人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになるなど、めざましい働きをなされるので、多くの人がイエスの周りに集まるようになります。その人たちにイエスは神の国のこと、神の支配の中に、神との関わりのうちに生きることを教え諭されます。イエスの神から出る不思議な力を身近に見て、また神のことを語るイエスの言葉に引き寄せられて、多くの人がイエスの後に付き従うようになります。シモン・ペトロもそのような一人でした。

十二人弟子団の形成

 イエスは生前ガリラヤで病人を癒やし神の国の福音を宣べ伝えて、その運動が拡大していった時、ご自分と同世代(ご自分と同年代か少し若い壮年期)の十二人を弟子として選び、常に身近にいてご自身のなされる働きを見させ、また神の国を宣べ伝える働きに派遣されます。そのことはマルコ福音書で次のように伝えられています。

さて、イエスは山に登り、ご自分が望んでおられた者たちを呼び寄せられたので、その人たちはみもとに来た。そこでイエスは「十二人」を創設された。[そして彼らを使徒と名付けられた。] それは彼らをご自分と一緒におらせるためであり、また宣教に遣わし、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

(マルコ三・一三〜一五 私訳)


 この後にイエスが選ばれたペトロを初めとする十二人の名前があげられています(マルコ三・一六〜一九)。ここで「イエスは山に登り」と記されているのは、イエスが一晩山で祈って決めなければならないほど、この弟子集団の結成がいかに重大な出来事であるかを語ろうとしているのだと思われます。ここでこの弟子集団の成立が「任命された」という動詞ではなく、「造られた」という動詞で語られているので、わたしはこれを「創設された」と訳しています。こうしてイエスが創設された弟子たちの一団、とくにその弟子たちを代表するペトロが、イエス亡き後のイエスの事業、神の国の告知の事業を継承することになるのです。なお、「彼らを使徒と名付けられた」という部分は、マルコの原本にはなく、ルカ(六・一三)の影響による補筆であると考えられます。

 この十二弟子の名をあげるとき、いつもペトロの名が最初に出てきます。それはおそらく弟子として行動するとき、いつもペトロが第一に行動し、弟子団を代表するような者であることをイエスも認めておられたからでしょう。そのことは次の場面でも表れています。

あなたはメシアです

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「あなたは、メシアです」。

 

(マルコ八・二七〜二九 新共同訳)


 ギリシア語原文では、ペトロの言葉は「あなたはキリスト《ホ・クリストス》です」となっています。この「あなたはキリストです」という訳は、現在キリスト信仰に生きるキリスト者の信仰告白を代表することになり、広く用いられています。しかし、ペトロはギリシア語ではなくアラム語で言い表しているのですから、「メシア」に相当するアラム語、終わりの日に現れる「神に油注がれた者」、イスラエルを解放する救済者だと告白しているのであり、この状況でのペトロの告白としては、「あなたは、メシアです」という訳が適切だと考えられます。そのようなペトロのメシア告白が、十字架と復活のキリスト告白へと変えられていくことになるのですが、それは以下の各章の物語になります。

エルサレムへの最後の旅

 イエスはおもにガリラヤで病人を癒やし悪霊を追い出す働きを進め、神の国のことを民衆に語り、弟子たちを教えてこられました。しかしその間も、イエスは自分がこの世界に遣わされた使命を深く自覚しておられました。そして故郷のナザレで受け入れられず、神から遣わされた預言者である洗礼者ヨハネが殺されたことを知られたとき、その使命を果たすべき時がいよいよ近いことを悟られたイエスは、弟子たちだけを連れてガリラヤを去り、地中海沿岸のティルスやシドンなど異教の民の地に旅を続けられます。この時期にイエスは苦しみを受けることで果たされるご自身の使命を深く自覚され、弟子たちにもそのことを語り始められたのではないかと推察されます。この旅の終わりに再びイスラエルの地に入るフィリポ・カイサリア地方で、ペトロの「あなたはメシアです」という告白がなされます。

 このペトロの告白に対してイエスは、それをだれにも言わないように戒めた上で、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」という奥義を語り出されます。そしてこの告白とメシア受難の奥義の予告のすぐ後に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子が高い山の上でイエスの姿が変わるのを見るという出来事を経て、イエスと弟子たちのエルサレムへ向かう最後の旅が始まります。

 これまでイエスも弟子たちも年に三度、大祭の時に神殿で神を礼拝するためにエルサレムに上る巡礼の旅を経験していました。しかしこの時、過越祭に上るエルサレムへの旅は特別な旅となります。イエスにとってはこの旅は死地におもむく旅、弟子たちにとってはいよいよメシアであるイエスによって栄光の神の国が実現する地におもむく旅です。おなじ道を歩きながら、イエスと弟子たちはまったく別の旅路を歩んでいるのです。その旅の途上で、イエスは繰り返しご自身の受難を予告しておられます。旅の最初のフィリポ・カイサリアでの予告を含めますと、イエスはこの旅の途上で三回エルサレムでのご自身の受難を語っておられます。

 それに対して弟子たちは、今度こそエルサレムでイエスはそのメシアとしての栄光と力を現して、到来する神の国で支配者として王座につかれる。その時、今イエスに従う自分たちの中でだれが一番偉いのかを議論していたのです。イエスが三度目にご自身の受難と死を予告された直後に、ヤコブとヨハネがイエスに、「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とお願いしています。

 このように、イエスにとっていよいよ受難の地エルサレムに入るときに、いつも重い荷物を運ぶロバに乗って入城されますが、それを取り囲む弟子たちと民衆は、王の入城を祝う「万歳」を連呼して迎えることになります。

十字架の日の弟子たち

 エルサレムに入られたイエスは、まず神殿を訪れ、そこで売り買いをしている商人を追い出し、その台をひっくり返すという激しい行動をなさいます。そのことを聞いた祭司長や律法学者、ユダヤ教だの指導者たちは、自分たちの権威に挑戦するイエスをどのようにして殺そうかと謀ります。そしてイエスと弟子たちの一行がエルサレム滞在中はゲツセマネの園を祈りの場としていることを、弟子の一人ユダの密告で知った神殿の指導層は、民衆に気づかれることなく、夜にイエスを逮捕することに成功します。

 イエスが最高法院の裁判とローマ総督ピラトの法廷を経て十字架につけられたのは、過越の祭りの日の前日、祭りの「準備の日」のことでした。その日の午前に十字架につけられ午後に絶命されるまでの数時間、想像を絶する苦しみを味わい、夕方前に絶命しておられます、日が暮れると翌日の安息日が始まるので(ユダヤ暦では日没から一日が始まります)、人々は急いでイエスの遺体を十字架から取り下ろし、埋葬を急ぎます。安息日には遺体の埋葬のような作業はできなくなります。

 ガリラヤ人であるイエスには、エルサレム近くに墓地はありません。有力な議員であり、秘かにイエスを信じ慕っていたアリマタヤのヨセフが、ピラトに申し出て許可を受け、自分がエルサレム近郊に準備していた墓地に葬ります。これは異例のことです。普通処刑された犯罪者の遺体は犯罪者墓地(墓地というよりは捨て場)に投げ込まれます。これはアリマタヤのヨセフという有力議員の申し出に、ピラトがヨセフに与えた特例です。

 当時の身分の高い者や富裕な者の墓は、山腹などに掘られた墓室に遺体を安置し、告別の儀式を行ったあと、その入り口を大きな石で塞ぐものでした(後日遺体は墓室の奥に掘られた横穴に埋葬されました)。イエスに付き従ってガリラヤから来ていた女性が、ヨセフと一緒に来て、その墓地を確認しています。

当時ユダヤ人の社会で行われていた埋葬の習慣については、拙著『ヨハネ福音書講解U』二一六頁の「ユダヤ人の埋葬の習慣」を参照してください。


 その日、弟子たちは師イエスを死に追いやったユダヤ人勢力を恐れて、自分たちの部屋に息をひそめて隠れていました。その部屋とは、おそらく前日イエスと最後の晩餐をした部屋であろうと思われます。刑場のゴルゴタの丘にも、十字架の横木を背負って刑場へ向かう道行きを見守る群衆の中にも、弟子たちの姿はありませんでした。刑場への道行きに従って歩いた女性や見物の群衆の中には、イエスを慕ってガリラヤから来た女性たちがいたかもしれませんが、男性の弟子たちはみな、ことの意外な成り行きをどう理解し、仲間としての自分たちにも危険が及ぶのを恐れ、、どう行動したらよいのかわからず、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたようです。

 翌日は安息日でした。すべてのユダヤ教徒は、日常生活の細かい行動まで規制した安息日律法に従わなければなりません。一定の距離以上を歩くことや、煮炊きなどの日常生活の動作まで規定した律法に従わなければなりません。翌日のエルサレム市街は静まりかえっていたことでしょう。もちろん弟子たちが秘かに墓地に行くことも、女性たちが墓に花を手向けることもできません。この一日、イエスの遺体は墓の中に静かに横たわっていたことでしょう。

週の初めの日の出来事

 ところがその翌日、土曜日の安息日が明けた日曜日の早朝、遺体に香料を添えるために墓を訪れた女性たちが、墓が空でイエスの遺体がないことを見て、驚愕してそのことを弟子たちに知らせます。共観福音書と呼ばれる三福音書(マタイ、マルコ、ルカの三福音書)の中で最初に書かれたとされるマルコ福音書はここで終わっています(マルコ一六・八)。

 ただその時、白い衣の若者の姿で墓室に現れた御使いが、「あの方は復活なさった」と告げた後、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」と言っています(マルコ一六・六〜七)。この言葉によって、ガリラヤこそが復活されたイエスとお会いする場所になることが予告されたのです。

 その後、マルコ福音書の枠組みを用いて書かれたとされるマタイ福音書とルカ福音書では、それぞれの状況で必要な記事を加えて、イエスの復活の物語を書くことになります(マタイ二八章、ルカ二四章)。マルコ福音書も、一六章八節で唐突に終わることを不自然とした後の編集者が、マタイやルカの記事、またそのほかの伝承を用いて、一六章九節以下に「結び」を付け加えることになります。

 ヨハネ福音書では、イエス復活の物語はすこし違った形で語られています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」、イエスは弟子たちが閉じこもっている部屋に現れて、「あなたがたに平和を」(ユダヤ人通例の「シャローム」の挨拶)と挨拶されます(ヨハネ二〇・一九)。そして、その日部屋に居合わせなかったトマスがいる八日後にも現れておられます(ヨハネ二〇・一九〜二九)。著者ヨハネはエルサレム在住の家族の一員ですので、エルサレムでの顕現に集中するのだと考えられます。

 この部屋は過越祭の期間中、エルサレムに滞在している弟子たちの部屋のことですから、ヨハネ福音書はエルサレムでの復活者イエスの顕現を語って終わることになるのですが(ヨハネ二〇・三〇〜三一)、それでもガリラヤ湖畔での復活者イエスの顕現の伝承も伝える必要を感じたのでしょうか、この福音書の編集者は、本論が二〇章で終わった後に補遺の二一章を加えて、ガリラヤ湖畔での顕現を詳しく語っています。そこで語られているガリラヤ湖畔での復活者イエスの顕現(ヨハネ二一・一〜一四)は、ルカ福音書五章(一〜一一節)の記事とほぼ同じ内容ですが、両者の関係については次章で論じることになります。

ガリラヤに帰る

 このように福音書の記事はやや錯綜していますが、女性たちの空の墓の報告があり、(ヨハネ福音書が語るように)弟子たち自身が復活されたイエスの現れを体験したにせよ、弟子たちはエルサレムに生活の基盤(住居や収入など)がないのですから、祭りの期間がすめば自分の家に帰らなければなりません。八日間の過越祭の期間がすんだとき、弟子たちは他の巡礼者と一緒に帰郷の旅を続け、ガリラヤに戻ります。

 女性たちの空の墓の報告を聞いたとき、それがあまりにも意外のこと、人間の理解を超えたことなので、弟子たちは混乱して信じられなかったようで、マルコ(一六・一四)の「結び」には、「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである」という表現が現れることになります、

 ガリラヤに戻る旅では、弟子たちの心は混乱して重苦しかったことでしょう。エルサレムに上る旅では、イエスが都で大いなる業を成し遂げて神の支配が実現され、自分たちはそのイエスの右と左に座ることになるのだというようなことを論じていたのですが(マルコ一〇・三五〜三七)、そのイエスは十字架刑に処せられて亡くなられます。墓に遺体がなかったという知らせも来ますが、事態のあまりにも意外な進展に、それをどう受け取ってよいのか判断できず、また自分たちの安全も心配しなければならず、途方に暮れて部屋に閉じこもるばかりでした。やっと祭りの期間を終わり、重い心を抱えて巡礼団の一行と一緒に故郷のガリラヤに帰ることになったのです。

 そのガリラヤで、弟子たちが思いもしなかったことが起こるのです。そのことは次章で語ることになります。