附 論 1
福 音 と は 何 か
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この問いに対する答えは聖書にあります。使徒パウロがこの問いに明確に答えています。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力である」。 (ローマ書一章一六節)
福音は言葉です。神の御子であり主であるイエス・キリストの出来事を告げ知らせる報知の言葉です。しかし、この言葉は単に情報を伝える言葉ではありません。人格から人格に語りかける愛の言葉です。それは、聴く者を根底から変えてしまう力ある言葉です。道元は「愛語よく回天の力あるを学すべきなり」と言いましたが、福音は人を造り変える神の愛語です。1 「福音は神の力である」。
パウロは、福音の本質を端的にこう宣言し、その「神の力」に説明をつけていきます。まず、福音は力です。その力は、人の力がなしえないことを成し遂げる大きさ、強さがあります。その力は神の力であるからです。その力は、人を救い造り変える働きにおいて、なしえないことはありません。「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われる力です。2 「救いに至らせる」
力には、大きさだけでなく、方向と向きがあります。福音という神の力は、「救いに至らせる」という方向に働く力です。救いとは天の彼方や来世にあるのではありません。現に体験する変化です。人を悲惨な状態に閉じこめている罪や病気や死の支配から解放し、人間存在の根底を変容させ、ついには神の栄光にあずかる姿に完成する、解放・変容・完成の全過程です。3 「すべて信じる者には」
このような「救いに至らせる神の力」が働くのは、この福音が信じて受け容れられている場においてです。この力は物理的な力ではなく、言葉によって働く霊的・人格的な力ですから、その言葉を信じて受け入れる者だけに働きます。強力な磁力が働いている磁場でも、磁力を受けて動くのは鉄片だけです。アルミや木片は動きません。そのように福音が告げ知らされている場にあっても、その言葉を信じない者には何の変化も起きません。しかし、それを信じる者には、この神の力が働き、人の思いを超えた変化が起こります。4 「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」
この差別の中で、もっとも深刻な差別が宗教的な差別です。ここでユダヤ人というのはモーセ律法を順守するユダヤ教徒のことであり、ギリシア人というのはユダヤ教徒以外のギリシア文化世界の人々、ユダヤ教徒から見た異教徒を指しています。この福音は初めユダヤ教徒の中で生まれました。それで、最初に福音を担ったユダヤ教徒の中には、モーセ律法を守るユダヤ教徒でなければ、イエス・キリストの神の民にはなれないという主張がありました。それに対してパウロは、ユダヤ教徒でなくても、モーセ律法の外にいるギリシア人であっても、福音を信じるならば、すなわち福音が告知するイエス・キリストを信じるならば、ユダヤ教律法とは関係なく、その信仰によって義とされ、救われるとしたのです。U
では、このように信じる者を救いに至らせる神の力としての福音とは、どのような内容の言葉でしょうか。これも聖書の中に答えがあります。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。(コリントT 一五・三〜五)
これはパウロの手紙の一節ですが、パウロ自身の言葉ではなく、パウロが「わたしも受けたものです」と言っているように、パウロ以前に福音を宣べ伝えたイエスの弟子たちの告知を伝えています。イエスの伝道につき従ってイエスの働きを見たケファ(ペトロ)を初めとする弟子たちは、イエスがエルサレムで逮捕され、裁判にかけられ、十字架につけられて死に、実際に墓に葬られたことを見ました。そして、その直後イエスが復活して現れてくださったことを体験し、神の霊の注ぎを受けて、神が十字架につけられたイエスを復活させてキリストとしてお立てになったことを世界に告知しました。その告知の言葉がこれです。それは復活されたイエスの顕現を体験した者たちの世界への証言です。