市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第52講

52 鳩のように素直に

「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。

(マタイ福音書 一〇章一六節)


 自衛隊をイラクに派遣することが決まり、平和国家として歩んできた戦後日本の進路が転機を迎えているように感じられます。それを機に、最近日本の安全保障の問題が大きく取り上げられるようになり、NHKテレビでも最近三回にわたって「安全保障」に関する特集番組が放送されました。安全保障の問題には憲法改正の問題が絡まっています。
 この番組での討論を聴いているとき、標題に掲げた聖書の言葉が思い浮かびました。これはイエスが弟子たちを宣教に送り出された時のお言葉ですが、現代の状況に語りかけて、わたしたちにこの国の進むべき方向を指し示しています。核兵器やミサイルまたテロの脅威が実際に存在する冷厳な現実に対処するために、日本は(具体的には政治家が)「蛇のように賢く」現状を分析し、それにもっとも適した対策を立てなければなりません。国の安全のためには、自衛のための軍事力、同盟国の抑止力、国連を含む外交交渉など、あらゆる手段を総動員して最善の対策を講じる必要があります。
 しかし一方、あの戦争の悲痛な体験によって国民の悲願となり国是となった平和主義は決して放棄されてはなりません。二度と武力の行使はせず、平和的な手段であらゆる事態に対処するという決意と理想は、「鳩のように素直に」保持されなければなりません。ところが政治家の中には、現在の状況に対処するための安全保障上の方策をそのまま将来へと投影して、それをこの国の理念とすべきであると主張する人たちがいます。それは筋違いの議論です。国の理念を決めるのは国民です。政治家は国民の委託を受けて、国民が悲願とし理想とするところを実現するために、現在の状況に対処する方策を「蛇のように賢く」探るのが使命です。
 世界の状況は変わります。ソ連の崩壊はこの事実を雄弁に語っています。現在のような状況も、いつまでも続くわけではありません。従って状況に対処する方策も変わります。わたしたち国民は、目の前の状況に惑わされて、貴重な平和主義の理念を忘れはなりません。世界は今なお覇権をめぐって力と力がぶつかり暴力が絶えません。その中で平和主義の理念を貫くことは、「狼の群れに送り込まれた羊」のように苦難の道かもしれません。それだけに、「蛇のように賢く」判断し行動する必要がありますが、それ以上に「鳩のように素直に」理想を堅持する必要があります。そうすることによって、平和国家の先駆者としての栄誉ある地位を保ちたいものです。

                              (天旅 二〇〇四年1号)