3 イエスの誕生が予告される(1章26〜38節)
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。(一・二六)
「六か月目」というのは天使ガブリエルによってザカリアに子の誕生が予告されるという出来事があってから「六か月目」ということですから、前節で見たように、エリサベトの懐妊が知られるようになっていた時期になります。そのような時期に、天使ガブリエルが「ナザレというガリラヤの町」に神から遣わされます。ここで「ナザレ」という地名が誕生物語において初めて登場します。これはイエスの両親の住まいであり、イエスがお育ちなった町として、イエスの出身地を示す名となります。イエスは人々から「ナザレのイエス」と呼ばれるようになり、後には世界中の人から「ナザレのイエス」と呼ばれ、ガリラヤの小さい町が世界史で重要な名となります。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。(一・二七)
ガブリエルが遣わされたのは「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ」のところでした。この段落、そして誕生物語全体の主役はこの「マリアという名のおとめ」なのですが、その女性の家系ではなく、婚約者のヨセフの家系が上げられているのは、生まれてくる男の子をダビデの家系に連ならせるためです。マリアの家系はダビデの家系ではなく、エリサベトの親戚(一・三六)としてアロンの家の祭司系であると推察されます。イスラエルは、男の子は「誰それの子」と父親の名で呼ばれ、父親の家を継ぐ父系社会でした。生まれてくる子がダビデの家系に連なる者であるためには、父親が「ダビデの家」の者でなければなりません。それで父親になるヨセフの家系があげられることになります。ルカはすでに、この誕生物語よりも先に書かれた三章以下の本体部の冒頭で、ヨセフの系図を掲げてヨセフがダビデの家系に属する男性であることを示しています。三章(二三〜三八節)にある「イエスの系図」の意義については、拙著『ルカ福音書講解T』90頁の「イエスの系図」の項(とくにその位置については末尾の注記)を参照してください。
イエスをメシアとしてイスラエルの民に告知するためには、イエスがダビデの子孫であることを示さなければなりませんでした。当時のユダヤ教では、来たるべきメシアはダビデの子孫から出ると広く信じられていたからです。福音の基本的な告知内容を要約した定式(ケリュグマ)も、「肉によればダビデの子孫から生まれ」という項を含んでいます(ローマ一・三)。おもにユダヤ人のために書かれたマタイ福音書では、イエスについて「ダビデの子」という称号が多数(一一回)出てきますが、異邦人のために書かれたルカ福音書の本体部では(イエスが「ダビデの子」であることを否定する議論の他には)一箇所だけです。ところが誕生物語では、ダビデの名が五回言及されています。この事実も、誕生物語が本体部とは違う起源のものであることを示唆しています。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。(一・二八)
天使の挨拶の最初の言葉は(直訳すると)「喜びなさい」です。この語は通り一遍の挨拶の言葉ではありません。「喜ぶ」という語は、新約聖書では霊的・終末的な歓喜を指す言葉です。天使は「大きな喜びを告げる」ために現れています(二・一〇)。ルカの誕生物語全体に喜びが溢れています。イエスの誕生を取り巻く人々はすべて喜びに溢れて神を賛美しています。その「喜べ」が最初に物語の主役であるマリアに告げられます。マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。(一・二九)
天使の挨拶の言葉が何を意味するのか、マリアには分かりません。天使の出現という異常な体験の不安と恐れの中で、マリアは天使の挨拶の言葉の不可解さに戸惑い、考え込んでしまいます。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。(一・三〇)
天使の出現に怖じ恐れるマリアに、天使はいつものように、まず「恐れることはない」と言って励まし、「あなたは神から恵みをいただいたのだから」と、その理由を述べます。この文は理由を示す《ガル》で始まっています。神から恵みをいただいた者は、どのような不可解な状況でも恐れる必要はありません。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。(一・三一)
天使はまず男の子の出産を予告します。すでにこのことがマリアにとって全く思いがけないことです。たしかにマリアはヨセフと婚約しています。ユダヤ教社会では婚約した二人は法的には夫婦と同じ権利と義務を有します。しかし、実際に女性が男性の家に行って一緒に住むまでは、結婚生活はなく、女性は処女のままです。マリアはまだヨセフの家に入っていません。従って「子を産む」という告知は、マリアにとって全くの驚きです。マリアが天使に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(三四節)というのも無理もありません。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。(一・三二〜三三)
マリアに天使がどのような言葉で語ったのか、今では確かめようがありません。一方、この天使の言葉を読みますと、ユダヤ教内キリスト信仰の共同体で行われていた信仰告白を聞いている感じがします。事実ここの天使の言葉は、「ダビデの王座」とか「ヤコブの家」というような、異邦諸国民には無縁のユダヤ教独自の表現で語られており、イスラエルの民の中での出来事として語られています。わたしたちの前にあるテキストは、復活されたイエスをメシア・キリストと信じるユダヤ教内キリスト信仰の共同体が語り伝えたキリスト信仰伝承の要約と見ざるをえません。ユダヤ教内キリスト信仰共同体では、復活されたイエスは最初「僕」と呼ばれていましたが、後に「神の子」という称号になっていきます。その経緯については、拙著『福音の史的展開T』398頁の「『神の僕』イエス」の項を参照してください。
「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」という予告は、明らかに預言者ナタンの預言(サムエルU七・一二〜一六)の成就を指しています。ナタンの「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(サムエルU七・一二)という預言は、その後のユダヤ教徒のメシア待望の中心に位置する土台石となりました。この預言によって後のユダヤ教徒の中に(おもに主流のファリサイ派において)、ダビデの子孫からダビデ王国の栄光を回復するメシアが出るという、「ダビデの子」待望が出てきます。ユダヤ人の中で福音書を書いているマタイは、イエスの誕生と生涯を「ダビデの子」の出現として描くことになります。異邦人のために福音書を書いているルカは、本体部では「ダビデの子」を用いていませんが、誕生物語ではパレスチナ・ユダヤ人のユダヤ教内キリスト信仰の伝承をそのまま用いて、「ダビデの子」信仰を伝えることになります。「ダビデの子」としてのメシア待望については、拙著『マルコ福音書講解U』90頁の「ユダヤ教のメシア待望」の項を参照してください。
マリアから生まれてくる子に「ダビデの王座」を与えるのは「神である主」です。ナタンの預言では「ヤハウェはこう言われる」という形で語られており、ダビデの王座を与えるのはヤハウェです。そのヤハウェを七十人訳ギリシア語聖書は《キュリオス》(主)と訳しているので、ヤハウェを唯一の神とするユダヤ教に独特の「神である主」という表現が出てくることになります。「その支配は終わることがない」という表現は、ダニエル書(七・一三〜一四)の「人の子」の幻で語られている、「彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」という預言を思い起こさせます。たしかにパレスチナ・ユダヤ人のユダヤ教内キリスト信仰共同体ではダニエル書を初めとする黙示思想文書による「人の子」信仰が告白されていたので、この表現が重なっていた可能性はあります。しかし、ナタン預言に基づく「ダビデの子」待望と、黙示文書による「人の子」信仰は別の性格の終末待望の流れを形成していたと見られるので、無理に重ねる必要はないと考えられます。
このように、この箇所のテキストは、ユダヤ教内キリスト信仰共同体のナタン預言に基づく「ダビデの子」信仰告白が、マリアに男の子の誕生を告知する天使の口に置かれたものとせざるをえません。そのことは、次節のマリアの対応からも示唆されます。マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。(一・三四)
天使の告知に対するマリアの驚きと不審の思いは、「あなたは身ごもって男の子を産む」という告知だけに対しており、その子がどのように偉大な人物になるかを告げる部分(三二〜三三節)は全く視野に入っていません。マリアはまだヨセフの家に入っていません。すなわり夫婦としての実際の交接はしていません。マリアの「どうして、そのようなことがありえましょうか」は、すぐに続く「わたしは男の人を知りませんのに」という理由を語る言葉が明示するように、ただ子の誕生の告知だけに向けられています。物語の流れは、三一節から三四節、三五節へと続きます。天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。(一・三五)
マリアの不審に対して天使は、マリアの懐胎が聖霊の働きによるものであると答えます。「聖霊が降る」は最初期共同体が聖霊の働きを語るときの常套表現で、ここはむしろ「いと高き方の力があなたを包む」の方が事態に即した表現でしょう。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」。(一・三六〜三七)
天使ガブリエルの言葉を信じなかったザカリアには口が利けなくなるというしるしが与えられましたが、マリアにはエリサベトの懐妊の事実がしるしとして与えられます。天使の対応の違いは、ザカリアが熟練の祭司であるの対して、マリアはまだ少女のような村娘であったからでしょうか。天使ガブリエルは、エリサベト懐妊の事実を指し示して、「神にできないことは何一つない」ことのしるしとします。マリアの出自については、二世紀後半に成立したとみられる「ヤコブ原福音書」が、マリアの誕生、成長、神殿での養育、ヨセフとの縁組み、イエスの出産を詳しく物語っています。そこではマリアはダビデの家系の娘とされています。しかし、この外典福音書は、始まりつつあったマリア崇拝を表現する文学作品であり、歴史的事実の論拠とすることはできません。「ヤコブ原福音書」については、『聖書外典偽典』(教文館)6巻83頁以下の「ヤコブ原福音書概説」と、それに続く翻訳を参照してください。
「神にできないことは何一つない」という言葉は、後にイエス御自身が宣言されることになりますが(マルコ一〇・二七)、この信仰はイスラエルの民がその二千年の歴史を通して形成した信仰であって、それが今天使の口を通じてマリアに告げられることになります。男を知らない処女が懐胎するというようなことはありえない、それは不可能であると常識はこれを拒否しますが、聖書は「神にできないことは何一つない」という信仰でその不可能を乗り越えます。マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。そこで、天使は去って行った。(一・三八)
マリアは「神にできないことは何一つない」という天使の宣言にうながされて、「あなたは男の子を産む」という告知を謙虚に受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、ひれ伏します。この「主人と奴隷のたとえ」は「謙遜のすすめ」というようなものではなく、信仰の本質を語るものであることについては、拙著『ルカ福音書講解U』312頁の「信仰を増し加えてください」の項を参照してください。マリアへの告知においても、このたとえにおいても、新共同訳は「はしため」とか「しもべ」と訳していますが、原文は当時の奴隷制社会で男女の奴隷を指す語が用いられています。
ガブリエルが神の使いとして伝えた神の言葉をマリアが受け入れたことで、ガブリエルの使命ははたされました。そこで、天使ガブリエルはマリアのところから去って行きます。