空の墓
「空の墓」の記事の構成
多くの注解や講解で、二三章五〇〜五六節の埋葬の記事は「受難物語」の最後の位置を占めています。そして、二四章一節から別の「復活物語」が始まります。墓への埋葬が人の生涯の終わりとなるのですから、埋葬の記事で区切るのは自然なことです。しかし福音書の場合は事情が違います。福音書はイエスが復活されたことを証言しようとして書かれた文書です。その証言において、葬られた墓が空になっていたという事実は、復活証言の重要な一角を占めています。墓での出来事は全体として一つの物語を構成しているのであって、「受難物語」と「復活物語」というように別々の二つの物語に分けることはできません。物語の内容からしても、二三章五五節から二四章一節までは、婦人たちがイエスの遺体に香料と香油を添えるために行動したことを報告するひとまとまりの記事であって、途中で切って別の段落に入れることは不自然です。とくに新共同訳が五六節の最後の「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」という文を章をまたいで別の段落に入れていることは、そうする理由がなく理解に苦しみます。142 墓に葬られる(23章50〜56節a)
さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。(二三・五〇〜五一)
ここで突然ヨセフという人物が登場します。「突然」というのは、この人物はこれまでどの福音書にも言及されていなかった人物であり、この埋葬の場面で突然舞台に出てくることになるからです。このヨセフという人物については、四福音書がすべて名前をあげて紹介していますが、その紹介の仕方には微妙な差異があります。ヨセフがアリマタヤという町の出身であることは四福音書共通です。しかし、その身分については、マルコが「身分の高い議員」としているのに対して、ヨハネは出身地をあげるだけで身分については何も言っていません。マタイは「金持ち」というだけで議員であることには触れていません。ルカは「議員」であることを明言するだけでなく、議員として最高法院での行動まで、「同僚の決議や行動には同意しなかった」と描いています。ルカはそのような行動の理由を、ヨセフが「善良な正しい人」であったからだとしています。というのは、ルカは神から遣わされた聖にして善い方であるイエスを、自分たちの権力の維持のために死刑の判決を下した多数派の議員たちは邪悪で不義であったとして(これはルカだけでなく共同体の当然の見方です)、その対比でヨセフを「善良で義なる人」だとしているからです。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。(二三・五二〜五三)
そのヨセフがピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ます。この行動は、マルコ(一五・四三)が描いているように、「勇気を出して」決行しなければならない行動です。イエスはユダヤ教の最高法院からは神を汚す背教の教師として死刑判決を受け、ローマ総督からは反逆者として処刑された人物です。そのような人物の埋葬を引き受けることは、自分もその仲間として扱われる覚悟を必要としました。それまでユダヤ人たちを恐れて、イエスの弟子であることを隠していたヨセフは、最後の場面で「勇気を出して」、大胆にもそのような行動に出たのです。ここで「遺体」と訳されているギリシア語原語は、通常は生きている人の身体を指す《ソーマ》(体)です。福音書のイエスの埋葬記事では、すべて《ソーマ》が用いられています。ただマルコ一五・四五の一箇所だけで死体を指す《プトーマ》が用いられています。この箇所はピラトがイエスの死を確認するところで、ここでの《プトーマ》の使用は、イエスの死が仮死ではなく、ローマ側も公式に認めた完全な死であることを強調するためであると考えられます。
「イエスのからだを渡してくれるように」というヨセフの願い出に対してピラトがとった態度は、マルコ(一五・四五)が報告しています。それによると、ピラトはイエスがもう死んでしまったのかと不審に思い、(十字架刑執行の責任者である)百人隊長を呼んで、死んでかなりたつのかと尋ね、百人隊長から報告を受けてから、ヨセフに遺体を下げ渡した、となっています。ヨセフは安息日が始まる日没前に葬りを済ませたいので、ピラトに遺体の引き渡しを願い出たのは三時とか四時というような時刻であったと推察されます(イエスが絶命されたのは午後三時過ぎと報告されています)。マルコによると、イエスは朝の九時に十字架につけられたのですから、比較的短時間で息を引きとられたことになり、ピラトは不審に思い、百人隊長に確認します。もしヨハネ(一九・一四)が伝えるように、イエスが十字架につけられたのが正午ごろであれば、ピラトの不審はますます当然のこととなります。ピラトは百人隊長の報告を受けて、イエスの死を確認して遺体をヨセフに下げ渡します。この記事は、イエスの死が仮死ではなく、ローマ側も公式に認めた完全な死であることを強調するためにマルコが入れた記事だと推察されますが、ルカはもうこのような確認は必要がないとしたのか、この間の経緯をいっさい省略して、直ちにイエスの「からだ」を十字架から降ろすところに続けます。マタイ(二七・五八)もほぼ同じです。ヨハネ(一九・三八)も同じです。当時のユダヤ人の埋葬の習慣、とくに「岩に掘った墓」への埋葬については、拙著『対話編・永遠の命― ヨハネ福音書講解U』216頁「ユダヤ人の埋葬の習慣」の項を参照してください。
この墓については、「まだだれも葬られたことのない」という説明がついています。この説明はマルコにはありませんが、ルカをはじめマタイやヨハネなど、後に成立した福音書にはみなこの説明がついています。これは、もし誰かが先に葬られていたのであれば、その墓にある骨がイエスのものでないことを証明しなければ、復活証言にならないからです。マルコ以後にこのような説明がつくようになった事実は、マルコ以後には共同体が告知する復活証言としての「空の墓」が、反対者から問題視されるようになっていたことをうかがわせます。マタイは、「空の墓」の証言に対して反対者たちは弟子たちが遺体を盗んだという噂を流して対抗したという記事を書いていますが、これは「今日に至るまで(=マタイの時代まで)ユダヤ人の間に拡がっている」(マタイ二八・一五)この噂に対抗するためにマタイが構成した物語であって、ここでの推測と矛盾するものではありません。
この墓については、マタイ(二七・六〇)だけがそれがヨセフの墓であったことを明言しています。しかし、ルカを含め他の福音書は誰の墓であったのかは触れていません。ヨハネ(一九・四一〜四二)は、安息日が始まろうとしていたので、たまたま近くにあった新しい墓に急いで葬ったというような説明をしています。エルサレムから四〇キロも離れたアリマタヤの住人であるヨセフがエルサレムに墓を持つことは不自然であるとして、マタイの記事を否定する見方も多いのですが、当時の敬虔なユダヤ教徒には、晩年にはエルサレムに住んで、終わりの日を待望する律法生活(=宗教生活)に入り、エルサレムに葬られることを理想とする者が多かったようです。アリマタヤのヨセフもそのような一人として、エルサレム近郊に自分の一族の墓を用意していたとしても不思議ではありません。その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。(二三・五四)
「準備の日」というのは安息日の前日のことで(マルコ一五・四二)、安息日を律法の規定に従って生活することができるように、たとえば食品を予め調理しておくなど、諸々の準備をする日です。「準備の日」は安息日の前日ですから金曜日になります。イエスの十字架の死が「準備の日」すなわち金曜日であったことは、マルコもルカも明言し、とくにヨハネ(一九・一四、三一、四二)が繰り返し強調しています。日没が迫り、「安息日が始まろうとしていた」ので、ヨセフは埋葬を急ぎます。安息日には埋葬などの行動ができませんでした。ところで、過越祭はニサンの月の一五日と決まっていますから、年によって曜日は違ってきます。マルコをはじめ共観福音書は「最後の晩餐」を(ニサンの月の一五日が始まる夜に行われる)過越の食事としているので、イエスの裁判と十字架刑は、夜が明けた同じ日の午前と午後に行われたことになります(ユダヤ暦の一日は日没からはじまります)。 ― 普通裁判とか処刑が大祭の日に行われることはないので、これが「最後の晩餐」を過越の食事ではないとする論拠になります。 ― そうすると、この年のニサンの月の一五日が金曜日ということになります。それに対して、ヨハネ福音書はイエスの十字架刑は、神殿で過越の小羊が屠られている午後に行われたとされています。すなわち、過越祭の前日(ニサンの月の一四日)であり、その日が金曜日になります。このように、共観福音書とヨハネ福音書では、イエスの十字架は金曜日であることは同じですが、その日付は一日食い違っています。この問題は、当時の日付と曜日の関係が確実に知られていないことと、十字架が何年の出来事であるかが確定されていないことから、未解決のままです。
イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。(二三・五五〜五六a)
復活証言では「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」が重要な役割を果たしています。とくにマグダラのマリアが重要です。彼女らはイエスが十字架上で苦しまれて息絶えられた事実を「遠くに立って見ていた」のですが(二三・四九)、おそらくヨセフがピラトのところに行ってイエスの遺体を渡してくれるようにと願い出たときから、「ヨセフの後について行き」、ヨセフと一緒にイエスを十字架から降ろし、イエスのからだを亜麻布で包み、ヨセフがイエスを墓に納める有様を見届けたものと考えられます。