市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第37講

補論 イエスの血の責任は誰にあるのか

問題点

 ここまででイエスの逮捕と裁判の過程についての四福音書の記事をすべて見たことになります。この機会に、四福音書におけるイエスの逮捕と裁判の記事について提起されている問題点についてまとめておきたいと思います。
 イエスの逮捕と裁判についての四福音書の記事は一様でなく、かなり違いがあり、矛盾しているように見える箇所もあって、研究者の間で議論が絶えません。四福音書間の異同については、イエスの逮捕と裁判を扱う最後の機会となったこの「ルカ福音書講解」で一応扱いましたので、改めて取り上げることはせず、イエスの裁判が提起するもっとも重要な問題を一つだけ取り上げておきます。それは、結局イエスの処刑に責任があるのは誰か、という問題です。さらに具体的に言えば、イエスの処刑に関わったのはユダヤ人とローマ人ですから、そのどちらに最終責任があるのか、という問題です。
 イエスの処刑について最も確かな事実は、イエスは十字架刑で処刑されたということです。十字架刑はローマ帝国が属州民とか奴隷階級の反逆罪に科した刑罰であって、ローマ市民権を有する者には行われませんでした。また、当時のユダヤ教においては死刑は石打とか斬首刑で行われ(ミシュナには絞首刑と火刑も言及されています)、十字架刑はありませんでした。従って、イエスはローマの権力によって処刑されたことは明らかで、これについては異論はありません。さらに、十字架につけられた罪状札には「ユダヤ人の王」とあったことについても決定的な異論はなく、事実であったと見てよいと考えられます。このような諸事実から、イエスはローマ帝国支配に対する反逆者として属州民に科せられる十字架刑によって処刑されたことは動かせず、ローマに責任があることは確かです。
 しかし一方、イエスが逮捕されてまず連行されたのは総督官邸ではなく、ユダヤ教権力者の屋敷であったことも確かです。そこで何らかの審問が行われ、最後にはユダヤ人がイエスを総督官邸に連れて行きピラトの法廷に訴えたというのも事実です。福音書の逮捕と裁判の記事を全面的に否定するのでない限り、この事実も動かせません。それで、イエスの処刑についてユダヤ人側がどのような形で、またどのような程度とか意味で関わったのかが問題になります。この点については、以前から問題になっていましたが、近年とくにそれがホットな問題となって議論されています。
 近年それがホットな問題となったのは、「アウシュビッツ以後」、イスラエル国家の建設という歴史の大きなうねりの中で、それまでのキリスト教世界におけるユダヤ人迫害の大きな理由となっていた「キリスト殺しの民」というレッテルに対する反省と反動から、イエスの処刑についてはユダヤ人には責任がないとする議論が高まったからです。当然のことながらユダヤ教側から、「イエス処刑の責任はユダヤ人にある、というキリスト教徒のテーゼがアウシュビッツのガス室に一直線に通じる」という議論が出てくるのは理解できます。
 しかし、キリスト教成立以来、とくに中世や近代のヨーロッパキリスト教世界で行われてきたユダヤ人迫害への反省と反対から、キリスト教側にもユダヤ人無罪論がずっとありました。すでに一九三一年(ヒットラー台頭以前)H・リーツマンは『イエスの裁判』で「ローマ責任論」を唱え、それ以後も指導的な神学者が様々な歴史的また神学的根拠から「ローマ責任論」を唱えています。その中にはボルンカムやクルマンのようなわれわれにも親しい神学者の名が見えます。そして、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世(在位一九七八〜二〇〇五年)は、キリスト教会がユダヤ人をこのような口実で迫害したことを謝罪するに至ります。

ローマ責任論は直ちにユダヤ人無罪論ではありませんが、何らかの意味と程度でローマ側の責任を重く見て、その分ユダヤ人側の責任を軽く見る見方を「ローマ責任論」と呼ぶことにします。

 この問題についての議論の詳細をたどることはできませんが、ここでまず個々の問題点の要点を整理して、この問題に対する視点を定める助けとしたいと思います。

イエスは誰に、何のために逮捕されたか

 イエス逮捕の状況については共観福音書とヨハネ福音書は違っています。共観福音書ではイエスを逮捕するために来たのは「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆」(ルカだけが神殿守衛長を入れています)、すなわちユダヤ教勢力だけですが、ヨハネ福音書(一八・一二)では「千人隊長に率いられた一隊の兵士(ローマ軍)」と「(神殿警備の)下役たち」です。ローマ責任論では、ローマ側はユダヤ教側のイエス逮捕に協力したとか介入したという程度ではなく、はじめからイエスを反乱活動の首領として危険視し、その逮捕に主体的に行動し、ピラトが正規軍を派遣したということになります。ピラトの迅速な対応もこの見方の根拠とされます。しかし、この見方は無理です。ユダがイエスを密かに逮捕できる場所を通報したのはローマ総督ではなくユダヤ教の祭司長たちであったという事実と、逮捕されたイエスが連れて行かれたのは総督官邸ではなくユダヤ教の大祭司の屋敷であったという事実からすれば、どうしてもイエス逮捕の主導勢力はユダヤ教権力者にあったとしなければなりません。ローマ軍の関与があったとすれば、それはユダヤ教側からの要請を受けて行われた補助的な行動であったとしなければなりません。

なお、ヨハネ福音書(一八・一二)で「千人隊長」と訳されている《キリアルコス》という名詞は、ローマ軍制では「千人隊長」を指しますが、通例のギリシア語の用法ではあらゆる種類の指揮官を指す場合もあるので、ここでは神殿守衛長とその《スペイラ》(一隊の兵士)を指すと解釈する可能性もあります。この表現だけでローマ正規軍の関与を断定するのは慎重でなければなりません。また、《スペイラ》(一隊の兵士)は、ローマの軍制では六〇〇人ほどの部隊を指しますが、これだけの部隊がイエスの逮捕に出動したというのも考えにくい状況ですが、後述するようにユダヤ教指導層が騒乱を心配していたのであれば、ローマ正規軍の出動を要請したこともありえないことではありません。さらに、早朝のピラトの迅速な対応も、ローマの高官(皇帝も含む)は早朝に公務をこなしたという習慣と、ユダヤ教側が処刑が祭りの当日にならないように配慮したという事情を考慮に入れると、必ずしもローマ主体説の根拠にはなりません。

 もしヨハネ福音書(一八・一二)が実際にローマ正規軍がイエス逮捕に出動したことの目撃証言であるならば、共観福音書は護教的動機(ローマ社会でのキリスト信仰の正統性を擁護するためにローマの関与と責任をできるだけ小さくしようとする動機)から伝承に含まれるその事実を伝えず、ユダヤ教側の勢力に限ったというということが考えられます。ローマ正規軍が出動したことが事実であるとしても、ユダの密告先と逮捕後の連行先を考慮すると、イエスを逮捕した主導勢力はユダヤ教権力者たちであったという事実は残ります。
 では、ユダヤ教上層部の権力者たちがなぜイエスを逮捕し、ローマ総督に処刑を求めて訴えたのか、その理由についても議論がありますが、それについてはヨハネ福音書(一一・四五〜五三、とくに四七〜五〇)がユダヤ教指導部の危機意識とイエス逮捕の動機をよく描いています。それによると大祭司カイアファが、イエスの活動がローマの支配からの独立を求めるメシア運動となってローマ側からの武力行使を招き、自分たちが維持する神殿中心のユダヤ教団国家体制の崩壊に至ることを懸念し、イエス一人を反逆者としてローマ総督に突き出してローマへの忠誠心を示し、自分たちの支配体制の温存を図ろうとしたということになります。当時の歴史的状況からすると、大祭司がこのような政治判断からイエスの逮捕を決意したことは疑う理由はありません。ヨハネ福音書は七〇年以後に書かれています。すなわち、ヨハネ共同体と福音書の著者は、熱心党の運動がローマへの武力闘争となり、それがローマ軍の弾圧を招き、神殿とユダヤ教国家の崩壊に至った事実を知っています。そのような事態になることを、イエスの時代の大祭司が懸念したとすることは当然です。このような理解は、大祭司に近い家柄の出身で上層部の内情に通じているヨハネの証言として信頼できます。
 このような政治的判断からユダヤ教指導部はイエス逮捕に踏み切りますが、そうであればユダヤ教指導部がローマ総督に計画を通報して、ローマ軍の出動を要請したことも考えられます。彼らは民衆の騒乱を恐れて秘かに逮捕する機会をうかがい、ユダの裏切りにより成功します。しかし、律法によって支配する教団国家としては、イエスに死刑を判決するには宗教的理由が要ります。それでイエスをユダヤ教最高法院で裁判して死刑判決を得ようとします。そのために逮捕されたイエスをまず大祭司の屋敷に連行し、裁判の手続きに入ります。

ユダヤ教最高法院は死刑判決を下したか

 ユダヤ教側のイエスに対する審問と裁判がどのように行われたのか、四福音書の記事は大きく食い違っていて、その解釈からユダヤ教最高法院は正式の死刑判決をしたという説から、そのような判決はなかったとする説まで、様々な学説が入り乱れています。ここでもう一度ユダヤ教側での裁判の過程を整理しておきましょう。
 ユダヤ教側の裁判は二段階に分かれています。第一は、夜中に行われた大祭司の屋敷での審問です。第二は、夜が明けてから行われた最高法院での裁判です。記述の仕方には違いが見られますが、四福音書はすべてこの二段階を知っているようです(マルコ一五・一、マタイ二七・一、ルカ二二・六六、ヨハネ一八・二四)。ヨハネでは曖昧ですが、共観福音書は「夜が明けるとすぐ」という句で夜中の審問と朝になってからの審問の二段階を区切っています。ミシュナ(律法学者によるユダヤ教律法実施細則の集成)によると、最高法院の正式の法廷は夜間には開けないので、この「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは長老や律法学者たちと共に、すなわち最高法院全体で決議をした」第二段階の法廷が正式の裁判となります。夜中の大祭司邸での審問は、まだ正式の最高法院法廷ではなく、正式裁判を開くための証拠調べなどの予審ということになります。これも、死刑が問題になる重要案件では予審を行うことを定めたミシュナの規定に一致します。

ユダヤ教における裁判規定については、E・シュタウファー『エルサレムとローマ ― イエス・キリストの時代史』第一〇章「ユダヤの異端律法」によくまとめられています。ミシュナの集成は二世紀末であるから、それをイエスの裁判に適用することは不適切だという批判がありますが、その最終的な確定は二世紀末だとしても、ミシュナは前二〇〇年ころから始まって四〇〇年にわたる律法学者たちの議論の集大成ですから、その規定はイエスの時代にも行われていたと理解すべきでしょう。なお、ヨハネ福音書(一八・一三)は夜中の予審がアンナスによって行われたと証言しています。マルコとルカは逮捕されたイエスが連行されたのは「大祭司のところ」であったとし、マタイは「大祭司カイアファのところ」としています。この食い違いについては本書232〜233頁を参照してください。

 ところがマルコ(一四・五三〜六五)はこの夜中の予審の過程を証拠調べから詳しく記述し、最後に大祭司自らの尋問に対してイエスがお答えになった言葉を聞いて、一同はそれを神を汚す冒?の言葉として「死刑にすべきだと決議した」と伝えています(六四節)。マルコの記述は、この夜中の審問が最高法院の裁判とそこでの死刑判決であるかのように聞こえます。事実、新共同訳はこの段落に「最高法院で裁判を受ける」という標題をつけています。しかし、これは不正確な標題ということになります。この段落はあくまで予審であり、正式の最高法院の裁判は「夜が明けるとすぐ」に行われたのであり、そこでの議決が判決となります。その点ではルカの方が正確ということになります。すなわち、ルカは大祭司の屋敷での夜中の審問の事実(そこにペトロの否認とイエスへの暴行が含まれる)を伝えていますが(ルカ二二・五四〜六五)、審問の内容には触れず、「夜が明けてから」の最高法院の招集とそこでの審問の内容および判決が簡潔にまとめられています(ルカ二二・六六〜七一)。その上でこの段落に「最高法院で裁判を受ける」という(適切な)標題がつけられています。
 それで、このマルコの記事の不正確さが「ローマ責任論」(すなわちユダヤ人無罪論)の格好の材料にされます。イエスの処刑に関しては、ユダヤ教側は裁判で死刑の判決を下していないことの論拠として、マルコの記事はユダヤ教裁判規定に反しており、そのような裁判が行われたはずはない(従って死刑判決もない)と主張されます。マルコの夜の法廷の記事は、ユダヤ人に責任を負わせローマ側の責任を軽くしようとする福音書記者の護教的動機からの付加的挿入として切り捨てられます。そして、マルコ一五・一の「最高法院全員」の裁判に相当するルカの記事(ルカ二二・五四〜六五)には明確に判決が下されたという表現がないので、夜が明けてからの最高法院の裁判もピラトに訴えるための準備に過ぎないとされます。

マルコ一五・一の「最高法院全体で相談し」は「議決し」と訳すべきであることについては本書236頁の注記を、また、ルカ二三・一の「全員が立ち上がり」は議員全員が起立して死刑に賛成の意思表示をしたとの理解については、本書249頁の当該箇所の講解を参照してください。

 しかし、この議論の論拠は弱く、ユダヤ教指導層がイエスに死刑判決を下したことはないとする説は、裁判に関する記事からだけでなく、イエスの活動全体に対するユダヤ教指導層の批判と危惧を考慮に入れるとき、とうてい受け入れることはできません。最高法院を構成していた当時のユダヤ教指導層は、イエスがガリラヤで活動されていたときから、イエスの言動に律法違反の疑いをもち、イエスを訴えるための口実を捜していました。福音書には「エルサレムから来た律法学者たち」がイエスの言動に目を光らせて批判していたことが伝えられています。とくに安息日律法に違反するイエスの言動を厳しく批判していました。おそらくこれは、(ヨハネ福音書が伝えるように)イエスがその活動のごく初期にエルサレム神殿で商人を追い出すなどの激しい象徴行為をされていたので、自分たちの支配に対するイエスの預言者的批判を危険視したのと、多くの奇蹟などにより民衆の間にメシア的期待が高まり、イエスの運動が反ローマのメシア運動になることを恐れたことから、イエスを律法違反を教唆する「異端教師」とか「脱落説教者」として訴えて取り除こうとしていたことは、その後の経緯からも十分確認できます。福音書の記事を全面的に疑うのでない限り、ユダヤ教指導層がイエスを逮捕して裁判にかけたことを否定し、ただローマ側だけがイエスの運動を危険視し、革命弾圧政策として逮捕処刑したとする全面的な「ローマ責任論」は成り立ちません。

ユダヤ人に死刑執行権は無かったのか

 ユダヤ人がイエスを逮捕して裁判にかけたという事実と、イエスが十字架刑というローマ人の刑で処刑されたという事実が確実である以上、どこかでユダヤ人がイエスをローマ人に引き渡したという事実がなければなりません。事実四福音書はすべて、「夜が明けるとすぐ」行われた最高法院の裁判の後ただちに、ユダヤ人たちはイエスをローマ総督ピラトのもとに引いて行ったことを報告しています(マルコ一五・一、マタイ二七・二、ルカ二三・一、ヨハネ一八・二八)。
 では、最高法院で死刑の判決を下しておきながら、なぜユダヤ人がユダヤ教の死刑(石打)で処刑せず、イエスをローマ総督に引き渡したのかが問題になります。福音書はそれを当時のユダヤ人には死刑執行権がなかったからだとしています。ユダヤ人たちがイエスをピラトのもとに連れてきて訴えたとき、ピラトは、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言っています。するとユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った、とされています(ヨハネ一八・三一)。
 ローマは征服した民族を支配するとき、その民族の宗教や風習を尊重することを原則としていました。ユダヤ人の統治にあたっては、ユダヤ教律法による裁判を認めていました。それが「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」というピラトの言葉で表現されています。とくにそれが宗教問題であるときは、ローマの官憲は立ち入ろうとはせず、訴えを門前払いにしてユダヤ教側に委ねるのが通例でした(使徒一八・一四〜一五参照)。ピラトもユダヤ人たちの訴えを面倒な宗教紛争のケースとして門前払いにしようとしたのでしょう。しかし、宗教裁判でイエスを神を汚す罪で死に値すると判決したユダヤ教指導部は、自分たちには死刑の執行権がないので、その権限をもつピラトに死刑の執行を迫った、というのがヨハネ福音書の論理です。
 それで、当時ユダヤ教最高法院に死刑執行権がなかったというのは歴史的事実であるかどうかが問題にされます。ローマ帝国の支配と属州の法制度との関わり方は政治情勢によって変動し、常に変転して定まらないので、これを確認することは難しい問題です。帝国の属州には二種類あり、比較的安定した情勢の属州は「元老院属州」として、比較的大きな自治を許されていました。そのような地域では現地の有力者が相当の権力を与えられて「領主」として統治しました。パレスチナではヘロデ大王や彼の後継者が領主として各地を統治しました。それに対して不安定な属州は「皇帝属州」とされ、皇帝が派遣する総督によって直接統治されました。そこでは自治の範囲は限られます。エルサレムを含むユダヤ・サマリア・イドメアはヘロデ大王の死後その子のアルケラオスが領主として統治しますが、失政によって追放され、六年に「皇帝属州」とされ、皇帝が派遣する総督によって統治されるようになります。従って、ガリラヤとペレアの領主ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを処刑した事実は、イエスの時代のエルサレムの大祭司が死刑執行権を持っていたことの論拠にはなりません。また、後にヘロデ大王と同じようにパレスチナの全土を支配する王として権力を委ねられたヘロデ・アグリッパ一世が、四三年に使徒ヤコブを斬首で処刑した事実(使徒一二・一〜二)も論拠になりません。四四年の彼の死によって、パレスチナは再び総督が直接支配する皇帝属州となります。
 よくステファノの殉教のさいの石打(使徒七章)とヨセフスが伝えている六二年の「主の兄弟ヤコブ」の石打が、最高法院が死刑執行権をもっていたことの論拠とされますが、これも問題です。ステファノの場合は、民衆の騒乱の中での処刑であり、それを議決して実行したのを最高法院とするには無理があります(拙著『福音の史的展開T』181頁「ステファノに対する石打」の項を参照)。「主の兄弟ヤコブ」の石打による処刑も、まさにそれが総督着任までの空位の時期を狙って行われた事実が、かえって死刑執行権が総督だけにあったことを裏書きしています(『福音の史的展開U』17頁「主の兄弟ヤコブの殉教」の項を参照)。
 「ローマ政府がもつ権能のすべての中で、最も嫉妬深く守られたもの」と言われる死刑執行権について、強硬な反ユダヤ主義者のセヤーヌスの権勢を後ろ盾として出世し、ユダヤの総督として派遣されたピラトの時代にユダヤ人に認められていたとは考えられません。先に見たように、ユダヤ教指導部がイエスを逮捕して裁判にかけたという事実と、イエスはローマの処刑法である十字架刑で処刑されたという事実の両方が成り立つためには、当時の最高法院には死刑執行権がなかったことを歴史的事実として認めざるをえません。
 ところが、「ローマ責任論」を主張するために、この「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」というヨハネ福音書(一八・三一)の証言が無視されることがあります。最高法院に死刑執行権があるのであれば、死刑判決を下した最高法院は直ちにイエスを石打で処刑すればよいわけです。それがなく、ピラトによってローマ式の十字架刑で処刑されたという事実は、マルコが伝える最高法院による(ミシュナ違反の)夜中の法廷と死刑判決などはなかったのであり、イエスの処刑は騒乱扇動者に対するローマ総督の主導による出来事であることを示している、という議論です。ユダヤ教側の関与はせいぜい朝の審問(ルカ二二・六六〜七一)において、ピラトに訴えるための予審調書を作成したことにとどまることになります。しかしこの議論は、先に見たように、福音書の報告の歴史的価値を全面的に疑うのでなければ成り立ちません。
 ルカは、ユダヤ人たちはイエスを宗教問題ではなく、ローマの支配に対する叛逆の扇動者として訴えたとしています(ルカ二三・二)。出来事から時間的にも地理的にも遠く離れたところで異邦人のために書いているルカにとって、当時のユダヤ教最高法院の死刑執行権の有無は問題ではなく、イエスがユダヤ教側からは?神罪で有罪とされたことと、ローマ総督からは反逆罪で処刑された事実を伝えればよいわけです。ルカは時代の法制史的細部にこだわらず、十字架刑の実質的意義だけを伝えていると言えるでしょう。

福音書成立時の状況と護教的動機

 以上に見たように、イエスの十字架刑による処刑はローマ総督ピラトによるものですが、その処刑に至らせた経緯からすると、ユダヤ教指導部がイエスを逮捕して最高法院が死刑判決を下し、死刑執行権のない最高法院がイエスをピラトに引き渡して死刑を執行させたという福音書の記述は事実であると判断せざるをえません。このような事実からすると、十字架刑というローマ式の処刑をしたローマ人に最終責任があることは否定できませんが、そのような結果に至らせたユダヤ教最高法院の死刑判決にも重大な責任があることは明白です。
 ローマ総督ピラトによるイエスの十字架刑は、ローマ側から見れば当時数知れず行われた属州民叛徒に対する処刑の一つとして、ごくありふれた、ほとんど日常的な出来事であり、ローマの歴史記録や裁判の公式文書に痕跡も見当たらないのは当然です。それに対して、大祭司が主宰するユダヤ教最高法院がイエスに死刑判決を下したことは、「宗教」と信仰の関係において決定的に重要な意義をもつ出来事です。パウロの表現では「律法と福音」の関係に決定的な転換をもたらす出来事であったのです。イエスはユダヤ教という「宗教」の判決によって殺されたのです。すなわち、イエスは「律法によって殺された」のです。もし「ローマ責任論」がイエスの処刑を単に政治的出来事として、その宗教的意義を覆い隠すのであれば、それは重大な誤りです。しかし、ユダヤ教がイエスを殺したという出来事を、だからユダヤ人(ユダヤ民族)が神の子キリストであるイエスの処刑に責任がある民であるとして、キリスト教会がユダヤ人を迫害するならば、それは悲劇的な過ちであり、神の前に弁明できない大罪です。
 イエス処刑の責任はユダヤ人(ユダヤ民族)にあるのではなく、ユダヤ教という「宗教」にあるのです。ユダヤ人民衆は、病人をいやし、煩瑣な律法順守の重荷から解放してくれるイエスを歓迎していました。しかし、イエスの「恩恵の支配」の福音に自分たちの宗教的権威への脅威を感じた祭司長らユダヤ教指導層が、イエスを取り除くことを決意するに至ります。先に見たように、ローマ支配に対する自分たちの権力の維持という政治的動機もありますが、根底はユダヤ教律法を絶対とする自分たちの宗教基盤を否定する脅威として、イエスを取り除こうとし、それを実行したと言えます。
 ところが、福音書にはこの出来事を「ユダヤ人」が引き起こした出来事と誤解させるような書き方をしている部分があります。たとえば、ヨハネ福音書はイエスを殺そうとしているユダヤ教指導層を繰り返し「ユダヤ人」と呼んでいます(ヨハネ五・一〇〜一六、五・一八、七・一、七・一三、九・一八〜二四、一〇・二四、一〇・三一〜三三、一〇・三九、一八・一四、一八・三六、一九・七、一九・一二、一九・二一、一九・三八)。このような記述を、出来事から遠く離れた時期に、当時の状況を知らない異邦人が読むと、イエスを殺したのは自分たち異邦人ではなく「ユダヤ人」、それもユダヤ教指導部という特定の者たちではなく「ユダヤ人」一般であるという印象を受けてしまいます。
 どうしてこのような書き方になったのでしょうか。それはヨハネ福音書が、イエスを信じるヨハネ共同体とその共同体を迫害するユダヤ教会堂との厳しい対立の時代に書かれたからです。ヨハネ福音書は一世紀末、おそらく九〇年代に成立したとみられますが、それより少し前にユダヤ教法院(最高法院の継承者)はイエスをメシアと告白するユダヤ教徒を会堂から追放するという決議をしており、イエスを信じるユダヤ人はもはやユダヤ教徒ではありえず、イエスを信じるヨハネ共同体は、ユダヤ教会堂とは別の信仰共同体としてユダヤ教会堂と決定的に対立するようになっていました。そしてユダヤ教会堂勢力からの迫害に対して、その勢力を「ユダヤ人」と呼んで、復活されたイエスに対する不信仰を厳しく糾弾するようになっていました。その対立が、イエスを拒否して殺すに至った不信仰の勢力を「ユダヤ人」と呼んでイエスの受難を語ることになったと考えられます。
 マタイ福音書も同じような時期に書かれました。ただマタイ共同体はユダヤ人信者の共同体であり、マタイ福音書はおもにユダヤ人信者を対象に書かれていますので、信者を迫害する勢力を「ユダヤ人」と呼ぶことはなく、ユダヤ人の中で自分たちに対立する勢力を「律法学者たちとファリサイ派の人たち」と呼んでいます。これは、七〇年のエルサレム神殿の崩壊以後、ユダヤ教を指導する勢力はファリサイ派律法学者だけになっていたからです。マタイ福音書(二三章)は彼らを「偽善者、地獄の子、預言者たちを殺した者たちの子孫」と呼び、神が遣わした者たちを殺す者と決めつけ、今イエスを殺すに至ったことを含め、「これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかる」としています。
 七〇年以後のキリスト信仰共同体には、七〇年のエルサレム陥落と神殿の崩壊は、神が遣わされたメシアであるイエスを殺したことに対する審判だとする思想がありましたが、マタイはそれをイエスによって語られた預言として、このように書いています。しかしマタイ福音書には、イエスを殺した責任が「今の時代の者たちにふりかかる」という限界を超えて、ユダヤ人の子々孫々にまで及ぶという文言があります。イエスの裁判でピラトはイエスの無罪を主張して釈放しようとしますが、ユダヤ人群衆は「その男を十字架につけよ」と叫び続けます。

 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」。民はこぞって答えた。「その血の責任は我々と子孫にある」。(マタイ二七・二四〜二五)

 ここでは明確にローマ人の責任が否定され、ユダヤ人自身がイエスの血を流した責任は「我々と子孫」にあると明言した、と書かれています。この言葉が、後の時代のキリスト教会がユダヤ人を「キリスト殺し」の責任のある民として迫害する重要な根拠にされることになります。しかし、この言葉を全面的な「ユダヤ人責任論」の証拠として、キリスト教会がユダヤ人の子孫、すなわちユダヤ民族を迫害することは、きわめて重大な聖書の読み違えです。
 イエスの血についての責任問題は、ピラトが「それはお前たちの問題だ」言っているように、その時代のユダヤ人たちの間の問題です。一部のユダヤ人はイエスを神から遣わされたメシアと信じて言い表しましたが、多くのユダヤ人、とくに祭司長たち指導層のユダヤ人は信じないで、ユダヤ教に背く異端の教師として断罪し処刑しました。したがって、イエスの血に責任があるのは、祭司長たちが代表するユダヤ教にあるのであって、ユダヤ民族にあるのではありません。だいたい、ユダヤ人たちの内部での対立で、一方の側だけにある責任を、ユダヤ人以外の者が外からユダヤ人全部の責任として問うのは論理的な筋違いです。責任を問うことができるのは、ユダヤ人の間で責任のない側が、責任のある側のユダヤ人の責任を問うことができるだけです。マタイ福音書が「律法学者たちとファリサイ派の人たち」の責任を問い、ヨハネ福音書が「ユダヤ人」の責任を問うのは、このようなユダヤ人内部での責任問題の糾弾です。外のキリスト教会がこの問題に関する福音書の言辞を根拠にしてユダヤ人を迫害するのは重大で悲劇的な過ちです。
 もう一つ、イエスの血についてユダヤ人の責任を問うようにさせる重要な動機があります。それは福音書記者の護教的動機です。護教的動機というのは、これからローマ世界に福音を告知しようとする福音書記者が、告知するイエスも、イエスを信じる信仰も、ローマ世界の秩序にとって有害なものではなく、その中に場所をもつことができる信仰であると、信仰の正統性を擁護しようとする動機です。福音書の記述にこのような護教的動機が働いていることは、福音書の講解において、それが出てくる度ごとに触れておきましたが、このローマ総督によるイエスの十字架処刑というもっとも決定的な出来事におけるこの動機の表現とその意義を見ておきましょう。
 先に引用したマタイ福音書(二七・二四〜二五)の記事はその典型的な一例です。福音書はみな、ピラトはイエスの無罪を主張して釈放しようとしたことを強調しています。その中でもっとも明確に表現しているのはルカ福音書です。先の段落139「死刑の判決を受ける」の講解で見たように、ピラトは三度まではっきりとイエスの無罪を宣言しています。マタイではそれほど明確な無罪宣言はありませんが、ピラトはユダヤ人群衆の前で手を洗って、「この人の血について、わたしには責任がない」と宣言しています。両方ともイエスの血の責任はローマ側にはなくユダヤ人にあることを主張しています。そうすることでローマの責任を軽くしようとしてます。ただ、マタイは対立するユダヤ教会堂に向かってその責任を問うという傾向が強いのに対して、ルカはこれから福音を告知しようとするローマ帝国社会においてイエスを信じる信仰の正統性を弁証しようとしているので、ローマの官憲の無罪宣言を強調しています。マタイ福音書とルカ福音書の基になるマルコ福音書は、まだそれほど護教的動機は明白ではありませんが、それでもイエスの逮捕に来た者たちに関する伝承からローマ正規軍が含まれていたことを省略したり、夜中に行われたユダヤ教側の裁判を詳しく伝えて、そこで死刑の判決がなされ、ピラトの法廷ではむしろイエスを釈放しようとする努力がなされたことを描くなど、すでに十分護教的動機がうかがわれます。ヨハネ福音書になると、ピラトはほとんどイエスの神的権威を認めているかのような書き方になっています。ピラトはイエスを釈放しようとしますが、ユダヤ人の圧力に押し切られて「お前たちが彼を引き取って十字架につけるがよい」と言ってイエスの処置をユダヤ人に委ねてしまいます。そのときに「わたしは彼に何の咎も見出さないのだから」という言葉で、ローマ側はイエスの無罪を知っていたことを強調しています(ヨハネ一九・六)。
 このように福音書には護教的動機が強く働いている以上、ユダヤ人に責任を求める議論は、この事実をしっかり認識して福音書を解釈しなければなりません。しかし、現在の「ローマ責任論」がしているように、ユダヤ人に責任を負わせる記事はすべて護教的動機から付加挿入されたものだと切り捨てることはできません。イエスがユダヤ教指導層によって逮捕されて裁判にかけられたという事実と、最終的にはローマの処刑方式である十字架刑で処刑されたという事実は歴史的事実として受け入れなければなりません。その上でその出来事の意義を理解することを目指すべきです。

結び

 このように、「アウシュビッツ以後」イエスの血についてユダヤ人を責任なしとするために「ローマ責任論」が唱えられるようになりますが、ここで見たように、この主張は無理であることが分かりました。もともとこの議論、すなわちイエスの血について責任があるのはユダヤ人かローマ人かという問いの立て方自体が間違っているのです。正確な問いは、イエスの血に責任があるのは、ユダヤ教という宗教か、それともローマ帝国の統治原理かという問いです。たしかに、イエスが反乱属州民に対するローマ帝国の処刑方式である十字架刑によって処刑された事実は、ローマ帝国の統治原理が働いていることを示しています。しかし、イエスの処刑はローマ側がイエスを反乱の扇動者として探索し、逮捕して裁判にかけ、有罪として処刑したのではなく、ユダヤ教指導層がイエスをユダヤ教の原理に違反する者として逮捕し、裁判で死刑を判決し、その死刑を死刑執行権があるローマ総督に執行させたものである以上、イエスの血の責任はユダヤ教という宗教にあるとしなければなりません。ユダヤ人とかユダヤ民族にあるのではありません。
 このことは次のイエスとピラトとの間の対話に示されています。ピラトはイエスに向かって、「わたしにはお前を釈放する権限も、十字架につける権限もあることを知らないのか」と言います。それに対してイエスは、「上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権限もない。それゆえに、わたしをあなたに引き渡した者には、いっそう大きな罪がある」と答えておられます(ヨハネ一九・一〇〜一一)。ローマ帝国に反乱を企てる者を判定して十字架刑で処刑することは上から総督に与えられた権限です。ローマ帝国がその権限を行使することは罪ではありません。それゆえに、その権限のある者に罪のない者を引き渡して、その権限の実行を強要する者にこそ、その神から遣わされた聖なる方の血に責任があることになります。「いっそう大きな罪がある」という比較級を用いた表現は、ヘブライ語の語法からして、罪(責任)の程度の大小を言っているのではなく、責任の有無を言っていると理解しなければなりません。

比較級を用いて程度の大小ではなく事実の有無を指すヘブライ語の語法については、J・エレミアス『イエスの宣教』(角田信三郎訳、新教出版社)221頁の、マタイ二一・三一やルカ一八・一四の「〜より先に」の解釈を参照してください。 

 イエスをピラトに引き渡したのはユダヤ人民衆とかユダヤ民族ではなく、その時代のユダヤ教を代表する最高法院指導部です。ユダヤ教という宗教が、その律法支配の原理からそうせざるをえなかったのです。この事実は「イエスは律法によって殺された」、あるいは「イエスはユダヤ教によって殺された」ということを意味します。典型的な「宗教」であるユダヤ教によって殺されたことは、「宗教」によって殺されたことになります。イエスの十字架の出来事は、「律法と福音」あるいは「律法と信仰」、ひいては「宗教と福音」の関係について重大な問題を提起し、決定的な転換をもたらす契機となります。この「宗教と福音」の問題については、拙著『福音の史的展開U』の終章が取り扱うことになります。