130 ペトロの離反を予告する(22章31〜34節)
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。(二二・三一)
イエスがペトロの離反を予知して、それをペトロに予告されたことはマルコにも伝えられていますが、マルコ(一四・二六〜三一)はそれを食事を終えた後、一行がオリーブ山に向かう途上での出来事としています。このように置かれている位置が違い、その内容と表現もかなり違っているので(ホセアの預言の引用はなく、代わりにイエスの祈りが置かれていることなど)、ルカはマルコを編集改訂したのではなく、ルカ独自の別の伝承を用いたものと考えられます。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。(二二・三二)
しかし、サタンの願いを聞き入れられた神は、それ以上にイエスの願いを聞き入れる方です。イエスは「あなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われます。ここでは「あなた」と単数形で、シモンが祈りの対象であることが明示されています。神はイエスの祈りを聞き入れて、サタンの働きかけによってイエスから離反することになるシモンが、その信仰を無くしてしまうことにはならず「立ち直る」ことを、イエスは知っておられます。その後の事態の成り行きは、このイエス予告通り、イエスの刑死に落胆してガリラヤに戻っていた弟子たちが、復活されたイエスに最初に出会ったペトロの主導の下に再びエルサレムに結集して、イエスを復活者キリストとして告知する共同体を形成します。この事実が、最初期のエルサレム共同体におけるペトロの筆頭者としての地位を確立することになります。それでここのイエスの予告の言葉は、この最初期共同体の事実から形成されたのではないかという推察を可能にします。さらにその推察は、この予告に「兄弟たち」という最初期共同体特有の用語が用いられていることからも促されます。この予告の言葉(二二・三一〜三二)は他の福音書にはなく、ルカだけにあるルカの特殊記事ですが、それはどの福音書にもあるペトロの否認の事実とルカが伝える最初期エルサレム共同体におけるペトロの指導的地位とを橋渡しする役割を果たしています。この記事は、最初期共同体におけるペトロの首位性を根拠づける記事として、マタイ(一六・一七〜一九)の記事のルカ版かもしれません。なお、イエスの死後ガリラヤに戻っていた弟子たちが再びエルサレムに結集する経過については、拙著『福音の史的展開T』の序章「復活者イエスの顕現」を参照してください。
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。(二二・三三)
弟子たちがサタンの策略に負けて離反するようなことを予告されるイエスの言葉に対して、シモンが抗議を申し立てます。彼はこのような言葉で、自分はどんなことがあってもイエスから離反することはないという堅い決意を披瀝します。シモンは実際そういう覚悟をしていたのでしょう。しかし、人間の決意とか覚悟というものは、それが死を覚悟するほどのものであっても、いかに脆いものであるかはすぐに露呈します。イエスは、神のご計画の前では、人間の決意とか覚悟がいかに無意味なものであるかをよくご存じです。イエスはシモンの覚悟に対して次のように言われます。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。(二二・三四)
ここまではシモンという仲間内の名で呼びかけられていましたが、ここではペトロというイエスがお与えになった名で呼びかけられています。岩として来るべき民の土台となることを期待して与えられた名(マタイ一六・一八)をもつあなたが、「今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言う」ことになると予告されます。イエスは、これから起ころうとしていることがいかに人間の理解を超えることであるか、また人間の計画や決意を吹き飛ばす圧倒的な出来事であるかを見据えておられます。