市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第2講

A エルサレム入るイエス (一九・二八〜四六)



111 エルサレムに迎えられる(19章28〜44節)

子ろばに乗るイエス

 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。(一九・二八)

 「このように話してから」というのは直前の「ムナのたとえ」を指しています。そのたとえは、「人々は(イエスがエルサレムに入られると)神の国(神の支配)はすぐにも現れるものと思っていたからである」(一九・一一)という文で、たとえが語られた意図が指し示されています。弟子たちがそう思っていたことは「旅行記」の中で示唆されていましたが、イエスの一行は過越祭に上るガリラヤからの巡礼者たちを含んで膨れあがり、ガリラヤでイエスが大いなる力を現しておられたことを知っているガリラヤの巡礼者たちはこのような期待に熱く燃えてイエスを取り囲んでいたのではないかと推察されます。
 そのような状況は、「イエスは先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」という文(原文)の勢いにも感じられます。イエスは、そのような神の支配の出現を熱く期待して従う一群のガリラヤ人の先頭に立って、エルサレムに向かって進んで行かれるのです。このような状況が、イエスのエルサレム入りの光景(後述)の前提になると考えられます。

 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」。(一九・二九〜三一)

 エリコからエルサレムに至る道は六時間ほどの山道になります。東からエルサレムに入るには、エルサレムの東にあるオリーブ山を越えることになります。この山をルカは「『オリーブ畑』と呼ばれる山」と説明的に記述しています。この山は普通は「オリーブ樹(複数形)の山」と呼ばれており、邦訳では「オリーブ山」と訳されています(三七節参照)。自然の森ではなく、エルサレムの重要な経済資源として栽培されていたオリーブ樹林なので、新共同訳は「オリーブ畑」と訳したのでしょう。
 イエスの一行はオリーブ山の麓にある「ベトファゲとベタニアに」近づきます。この書き方はマルコ(一一・一)をそのまま踏襲していますが、これはイエス一行が近づいた村「ベトファゲ」が、パレスチナの住民以外には知られていない地名であるので、近くに位置する村で受難物語でよく知られているベタニアと組み合わせて用いられたものと考えられます。マタイ(二一・一)はただ「ベトファゲ」の地名だけをあげています。
 ベタニアはオリーブ山の東斜面にあり、エルサレムから三キロほどのところにあります。その近くのベトファゲはベタニアの西、オリーブ山の山頂から東一キロほどのところにある村だとされています。ベトファゲは城壁の外にある村ですが、エルサレム市域に属するものと見なされ、(ラビ文献によると)過越の小羊を食べることが許される地域とされていました。イエスの一行はいよいよエルサレム市域に入ることになります。

このオリーブ山頂から東一キロの地にあるフランシスコ派の聖堂に、二人の弟子がろばを解くフレスコ画のある石碑が保存されているということです。

 ここでイエスは二人の弟子を使いに出して、その村の子ろばを連れてくるようにお命じになります。イエスが子ろばを連れてくるように命じられたのは、それに乗ってエルサレムに入るためですが、イエスがそうしようとされたのは、マタイ(二一・四〜五)がいうとおりゼカリヤの預言を実現するためであったはずです。ゼカリヤは次のように預言しています。

 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」。(ゼカリヤ九・九)

 イエスはエルサレムで起こることを知っておられます。しかし、イエスを取り囲む弟子とガリラヤの人々は、イエスがエルサレムに入られると直ちに神の支配が実現するとの期待に燃えています。イエスはすでにエリコで「ムナのたとえ」を語って、そのような期待をたしなめておられましたが、ここで自分が預言を成就する者であることを示すと同時に、その預言の成就者であるメシアが、他の預言ではなくこの「ろばの子に乗って来る」王を預言するゼカリヤ預言を実現することで、軍馬に乗る王ではなく、すなわち力をもって敵を殲滅する王ではなく、ただ重荷を背負って運ぶだけのろば、しかもろばの中でも小さい子ろばに乗って来る柔和な、己を低くする王であることを指し示そうとされます。
 ヨハネ福音書(一二・一四)では、ただ「イエスは子ろばを見つけて、お乗りになった」とされていますが、マルコ(とマルコに従う共観福音書)ではそれが主の定めに従って起こったことであり、イエスがそれを見通しておられたことを指し示す形で物語られています。イエスは、使いに出された二人の弟子は、村に入ると子ろばがつながれているのを見ると予告されます。その子ろばが「まだだれも乗ったことのない子ろば」であるかどうかは外からは分かりません。人を乗せるまでに成長していない子ろばという意味であるのか、初めて乗るイエスこそ柔和な王であるという象徴的意味を確かにするためであるのか、よく分かりません。マタイはこの記述を省略しています。
 つながれている子ろばの引き綱をほどく弟子たちに、当然子ろばの所有者は「なぜほどくのか」と不審の思いをもって尋ねます。それに対して「主がお入り用なのです」と答えなさいと、イエスは指示されます。ここの「主」《ホ・キュリオス》は、原語で「その(=その子ろばの)《キュリオス》」とあるので、《キュリオス》の本来の意味である「主人、所有者」の意味で、「その子ろばの所有者」を指しているとしなければなりません。マタイ(二一・二)は「雌ろばと子ろば」と二頭にしているので「それらの《キュリオス》」としています。その子ろばの本来の所有者である神が、いま預言を成就する器として必要としておられるという意味を、敬虔なユダヤ教徒である村人は理解します。
 なお、マルコでは「主がお入り用なのです」の後、「すぐにお返しになります」と言うように指示されていますが、この部分は必要なしとしたのか、ルカは省略しています。

 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。(一九・三二〜三四)

 事態はイエスが言われたとおりに進行します。ここで子ろばの「持ち主たち」と訳されている原語は《ホ・キュリオス》の複数形で、「主がお入り用なのです」の「主」《ホ・キュリオス》と同じ語です。この用例からも、ここの「主」はそのろばの真の所有者という意味で用いられていることが分かります。

 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。(一九・三五)
 子ろばを引いて来た二人の弟子は、事がイエスの言われたとおりに進んだので、ますますイエスの能力に驚き、メシアとしてのイエスに対する期待を強くしたことでしょう。裸の子ろばに自分たちの上着を掛けて、王としての威厳を示すために精一杯のことをします。王は華やかに装われた馬に乗るものだからです。

王なるメシアへの歓呼

 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。(一九・三六)

 「自分の服を道に敷く」という行為も、王を歓呼して迎える人々の行動です。弟子だけでなく、イエスを取り囲む群衆が自分の服を道に敷いて、王としてのイエスに対する敬意を表します。マルコ(およびマタイ)は、「ほかの人々は野から切って来た枝葉を敷いた」としていますが、ルカはこれも省略して記述を簡略にしています。

 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。(一九・三七)

 こうしてイエスの一行がオリーブ山の峠を越え、山の西側に出て道が下り坂になると、ケデロンの谷を隔ててエルサレムの都が見えてきます。ガリラヤでイエスがなされた多くの奇跡を見てきた弟子たちと巡礼者の群れは、いよいよ神の支配が実現する時が来たのだと、一段と声を張り上げて、神を賛美する歓呼の声を上げます。その歓呼の声は次のように伝えられています。

 「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」。(一九・三八)

 イエスに対する歓呼の言葉は、四福音書のすべてに少しずつ違った形で伝えられています。共通するのは「主の名によって来られる方」に対する歓呼であることと、その方に「王」という称号が用いられていることです。ここで四福音書の異同を見ることで、ルカの特色を探りましょう。
 ルカ以外の三福音書ではみな「ホサナ!」という歓呼で始まっています。「ホサナ」というのは、イスラエルの民がエルサレムへ巡礼するときに用いたハレル歌集(詩編一一三〜一一八編)の最後の詩編一一八編の二五節に出てくる《ホーシーアンナー》(主よ、わたしたちをお救いください)が転化して、「ホーサンナ」、「ホサナ」になったもので、もともと神の最終的な救いの業を求める終末的な響きのある叫びでした。しかし、イエスの時代では、日本語の「ばんざい!」のように、神の前で喜びを表す、ほとんど意味のない喚声になっていたようです。人々は「ばんざい!」を叫び続けたのです。しかしルカは、異邦人には馴染みのないこの喚声を省略しています。
 「主の御名によって来られる方に祝福あれ」という歓呼は四福音書すべてにあります。これは先の《ホーシーアンナ》の次の節(詩編一一八・二六)の言葉です。「主の御名によって来られる方」という表現が、そのままの形で来るべきメシアを指す句として用いられている例は預言書の中にはありません。しかし、イスラエルでは約束されたメシアを《ホ・エルコメノス》(来るべき方)という名で指していたことを背景として考慮すると(マタイ一一・三参照)、詩編一一八・二六(七十人訳)の《ホ・エルコメノス》(来るべき方)を用いて叫んでいる民衆は、ここでイエスをイスラエルに約束されていたメシアの到来として歓呼して迎えていると言えます。
 マルコでは「今きたる、われらの父ダビデの国に祝福あれ」(一一・一〇協会訳)という言葉が続いています。「ダビデの国」の復興はイスラエルの長年の悲願でした(ソロモンの詩編一七〜一八編、とくに一七・二一、使徒行伝一・六参照)。神の民イスラエルは、ダビデに約束されていたように、彼の子孫(ダビデの子)によって異教徒の支配から解放され、その本来の栄光に達する時を待ち望んでいました。今その時が来たとして歓呼しているのです。
 マルコでは到来するダビデの王国が歓呼されましたが、マタイ(二一・九)ではその王国をもたらす「ダビデの子」に歓呼が向けられています。ヨハネ(一二・一三)でははっきりと「イスラエルの王」に歓呼が向けられています。ルカは「来られる方」の直後に「王」を入れて「来られる王」とし、その後に「主の名によって」という修飾句を置いています。
 このように四福音書を併置すると、このときの群衆の歓呼が王としてのメシアを迎える歓呼であることがはっきりします。しかしルカは、この王としての歓呼から「イスラエルの王」とか「ダビデの王国」とか「ダビデの子」というようなユダヤ教的な色彩をすべて削除して、「天には平和、いと高きところには栄光」という普遍的な賛歌にしています。この賛歌は有名な誕生物語の天使の賛歌(二・一四)を思い起こさせますが、おそらくルカの特殊資料にあった賛歌を、誕生物語ではイエスの誕生によって地にもたらされる平和を、そしてここではイエスがエルサレムでの受難を通って天に昇られ、天に平和と栄光がもたらされることを賛美する賛歌として用いたのでしょう(コロサイ一・二〇参照)。

 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」。(一九・三九〜四〇)

 イエスと一緒にエルサレムに入ろうとする群衆の中にファリサイ派の人たちがいて、イエスを信奉する弟子たちの歓呼を制止するように求めます。この人たちは、誰かを王であるメシアとして歓呼することがいかに危険であるかを知っていた人たちでしょう。イエスの時代の前後には、多くのメシア運動が発生し、ローマの厳しい弾圧によって悲惨な結果を招いていました。もしこの歓呼がさらに大きなうねりとなって民衆を巻き込み、ローマの介入を招くことになれば大変な事態になります。事実イエスは後に「ユダヤ人の王」という罪状、すなわちメシア僭称者としてローマに反逆した叛徒として処刑されることになります。この時のファリサイ派の人たちが(一三・三一のように)イエスの安全のためにそう忠告したのか、あるいはエルサレムの平穏のためにそう要求したのかは決められませんが、時代の状況はこのような歓呼をきわめて危険な行動としたことは事実です。
 この制止の要求に対してイエスは、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言って、制止することを拒否し、群衆が叫ぶにまかせられます。これまでイエスは、弟子にご自身の身分を明かされるときは、それを誰にも言わないように厳しく命じておられました。ご自身の最後の時を前にして、イエスはイスラエルの民の歓呼の中で聖なる都に入られます。
 この時にイエスが言われた「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」という言葉は、解釈が分かれます。一つは、「この人たちの歓呼を制止して黙らせたら、石がわたしを王なるメシアとして叫び出すであろう」、すなわちわたしがそれであることを誰も押さえつけることはできないとする解釈と、もう一つは、「もしわたしがそのような者であることを力ずくで否定して彼らを黙らせるならば、わたしを拒むことへの裁きとしてエルサレムと神殿は崩壊して、その廃墟の石がわたしがそれであることを証言するであろう」という解釈です。NTDのレングストルフのように後者の解釈を採る見方も有力ですが、やはり一般に理解されている前者の解釈が適切ではないかと考えられます。「石が叫びだす」という表現は、洗礼者ヨハネにも「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」という言葉があり(三・八)、人の意表をつく表現を用いられるイエスにふさわしい表現であり、この言葉が発せられた文脈(状況)からしても、この解釈が順当だと考えられます。

エルサレムのために泣くイエス

 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」。(一九・四一〜四二)

 イエスが泣かれたことを伝える福音書の記事はここだけです。オリーブ山の西側の斜面を下ってくると、ケデロンの谷を隔ててすぐ向こう側にエルサレムの都が見えてきます。都が見えたとき、イエスはその都の滅びの姿を見て泣かれます。現在、その場所を記念する「主泣きたもう」という名の教会堂が建てられ、その窓から現代のエルサレムの象徴となっている黄金のドームが見えます。
 イエスは泣いて言われます、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……」。イエスが事実に反することを願われる詠嘆の言葉はきわめて稀です。ここ以外で思い起こすことができる言葉は、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(一二・四九)という言葉ぐらいです。イエスは聖霊の火を地に投ずるために来られました。しかし、その火はイエスが十字架の上に贖罪の業を成し遂げるまでは降ることはできませんでした。すぐに「しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と続けて、その火が降るようになるために受難の道を歩まれました。
 イエスが来て「平和の道」を説かれたのに、イスラエルはそれを悟ることができませんでした。四二節のイエスの言葉は直訳すると、「もしこの日に、お前(エルサレムを指す単数形)が平和に向かう(または、平和に関わる)事どもを悟ってさえいたなら・・・・。しかし今は、それはお前の目から隠されている」となります。「この日に」、すなわち神が終わりに臨んで、最後の預言者としてイエスをイスラエルに遣わされたこの時に、律法の義の牙城であるエルサレムのユダヤ教指導者がイエスの恩恵の支配の告知を受け入れ、神との平和を達成するすべを悟っていたならば、事態は違ったものになったであろうに、という嘆きです。しかし事実は逆の方に進むことをイエスは見通しておられます。彼らはイエスを拒否して殺し、その結果エルサレムは神に見捨てられ滅びることになることを見ておられます。その滅びを、次のようにリアルに語りだされます。

 「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。(一九・四三〜四四)

 この預言は、七〇年にティトスの率いるローマの軍勢がエルサレムを包囲して攻撃したときの状況をあまりにも正確に記述しているので、この出来事をよく知っている世代の者が加えた事後預言であるという見方がなされます。たしかに、この記述はそのような理解を可能にします。しかし、イエスがエルサレムの滅びを前もって語られたことは事実であって、それはすでにエルサレムに向かう旅の途上でなされていました。イエスは、最後にエルサレムに上られるとき、ヨルダン川東岸のペレアを通られますが、その時ガリラヤとペレアの領主のヘロデ・アンティパスが、洗礼者ヨハネにしたように、イエスを逮捕して殺そうとします。その危険を知らせたファリサイ派の人にイエスはこう答えておられます。

 「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」。(一三・三三〜三五)

 この箇所はすでに詳しく講解していますので繰り返しません。イエスが旅の途上ですでにエルサレムの滅亡を「見よ、お前たちの家は見捨てられる」という言葉で預言されていることを確認するに止めます。おそらくこのような言葉が、イエスが実際にエルサレムの滅亡を語られたときの言葉でしょう。ローマ軍の攻城の詳細を描く一九章の預言は、その歴史的事実を知っている世代による編集であるとしても、イエスが預言者としてその時代のイスラエルに語りかけたエルサレム滅亡の預言の言葉は重いものです。
 そして、一三章の旅の途上での預言は、ご自身がエルサレムで殺されることの必然を語る言葉と一体であることに改めて注目しましょう。イエスは「主の僕」として召された使命に忠実に、今日も明日も、その次の日も「自分の道」、受難の道を進まれます。しかし、イエスの力ある働きを見た周囲の人たちはイエスを異教徒からの解放者メシアとし、王としていただいてイスラエルの栄光を求めます。イエスが弟子たちには秘かに「苦しみを受ける人の子」の秘義を語りだされた後も、弟子たちや周囲のユダヤ人巡礼者たちは王としてのメシア待望でイエスを歓呼します。その二つの道の裂け目が、最後にエルサレムに入るときに劇的な姿で露呈します。
 ユダヤ人群衆はイエスを王として歓呼しています。ヨハネ福音書(一二・一二〜 一三)によると、過越祭のためにエルサレムに来ていた多くのユダヤ人がイエスを迎えに出てきています。ユダヤ人の民族的な祝祭であるこの祭りの時期に、メシア待望の熱気が高揚します。その中でただ一人イエスは、ご自分の死を見つめ、その結果起こるエルサレムの滅びを悲しみ、涙を流されます。その涙はご自分の死に対するものではなく、「地にたたきつけられる」エルサレムの子らのためにながされる涙です(二三・二八参照)。その熱気を恐れたユダヤ教指導層は、領主ヘロデはイエスを殺そうとし、大祭司もイエスに対する殺意を固めます(ヨハネ一一・四七〜五三)。
 イエスは、エルサレムの滅びの原因を「それは、お前への訪れの時をわきまえなかったからである」(直訳)と語っておられます。先の旅の途上での言葉では、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」という比喩で、神はイスラエルの歴史において繰り返しその民をご自身のもとに引き戻すために預言者を遣わされたことが語られています。しかし、イスラエルはその呼びかけを拒否し、遣わされた預言者を石打にして殺すことを繰り返しています。今イエスが最後に遣わされますが、エルサレムのユダヤ教指導者たちはイエスを殺そうとしています。彼らはイエスにおいて神が訪れておられるという時《カイロス》を悟らず、そのために神の裁きにより滅びを招きます。そのことはすぐ後で、「ぶどう園と農夫」のたとえで明確に語りだされることになります(二〇・九〜一九)。

ここは「お前への訪れの時」、すなわちエルサレムへの「神の訪れの時」ですが、イエスの出現とその働きは人間社会への「神の訪れの時」であることについては、拙著『ルカ福音書講解T』の「第五章 神の訪れの時」、とくに317頁の「神の訪れの時」の項を参照してください。