市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第37講

95 「無くした銀貨」のたとえ(15章8〜10節)

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」。(一五・八)

 「ドラクメ銀貨」一枚は当時でほぼ一デナリウスに相当したようです。一デナリウスは労働者一日の賃金ですから、「ドラクメ銀貨十枚」は、現在のわたしたちの感覚からすると月収の三分の一程度の金額でしょう。彼女の「ドラクメ銀貨十枚」は、不時の出費に備えた貯金だったのでしょうか。あるいはエルサレム巡礼などのための貯えであったかもしれません。
 当時の女性は、自分の財産を金貨や宝石にして、それを紐で通し首飾りとして下げ、いつも肌身離さずに持っていたと伝えられています。もしこの女性の「ドラクメ銀貨一〇枚」がこのような形の財産であるとすれば、これはごくつつましい金額であり、この女性は貧しい寡婦であったという推察もできます。紐が切れて銀貨が散らばり、九枚はすぐに見つかって回収できたが、残りの一枚がどうしても見つからなかったという状況を、このたとえを聴いた人たちは想像したかもしれません。
 彼女はその一〇枚の中の一枚を見失います。一〇枚の中の一枚であろうと、彼女にとって貴重な一枚です。懸命に探します。当時のユダヤ人庶民の家は窓は小さいかない場合が多く、昼でも薄暗い室内でした。見失った一枚を探すために、普段は高価なため滅多に使わない油を惜しげもなく使ってともし火をつけ、家を隅々まで掃き、見つけるまで念を入れて捜します。ここでも「〜しないであろうか」という問いかけで、この女性の行動が当然であることが印象づけられています。

 「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」。(一五・九)

 見失った銀貨を見つけた喜びは、この女性だけのものです。しかし、彼女は喜びのあまり、友達や近所の女たちを呼び集めて、失った銀貨一枚を見つけたことを一緒に喜んでくれるように呼びかけます。おそらくお菓子の一つでも振る舞ったことでしょう。現代の都会生活では廃れましたが、地域社会の交際が親密であった時代では、自分の家の慶事にはご近所に配りものをして一緒に祝うことを当然とする習慣がありました。イエスの時代の村人たちも、そういうことが普通であったのでしょう。

 「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」。(一五・一〇)

 「このように」、すなわち、失った銀貨を見つけた女性が友達や近所の女たちを呼び集めて一緒に喜ぶように、一人の罪人が悔い改めて神のもとに帰ってくるならば、神は天使たちを呼び集めて、喜びを共にされるのだ、とイエスは言われます。失われた羊が見つかったときには、「天に喜びがある」と言われていましたが(七節)、ここではそれが天使たちの喜びとして描かれます。天上においては、神の御座の前に多くの天使たちが仕えているという当時の天使理解が前提されています。
 ところで、一五章に集められている三つのたとえは、失われていたものが見出される喜びを共通の主題としていますが、その中で羊飼いのたとえと銀貨を見つけた女性のたとえは、熱心に探す者(羊飼いと女性)の行為にも焦点が当てられ、「当然そうするのではないか」という形で強調されています。これは、次の「放蕩息子」のたとえでは放蕩息子(失われた側)の悔い改めに焦点が当てられているのと対照的です。イエスは、失われたものを熱心に探す羊飼いと女性の姿に重ねて、ご自分が「罪人」たちのところに行き、彼らと交わりをもち、食事まで共にされる行為について、律法学者たちの批判に答えておられます。