95 「無くした銀貨」のたとえ(15章8〜10節)
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」。(一五・八)
「ドラクメ銀貨」一枚は当時でほぼ一デナリウスに相当したようです。一デナリウスは労働者一日の賃金ですから、「ドラクメ銀貨十枚」は、現在のわたしたちの感覚からすると月収の三分の一程度の金額でしょう。彼女の「ドラクメ銀貨十枚」は、不時の出費に備えた貯金だったのでしょうか。あるいはエルサレム巡礼などのための貯えであったかもしれません。「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」。(一五・九)
見失った銀貨を見つけた喜びは、この女性だけのものです。しかし、彼女は喜びのあまり、友達や近所の女たちを呼び集めて、失った銀貨一枚を見つけたことを一緒に喜んでくれるように呼びかけます。おそらくお菓子の一つでも振る舞ったことでしょう。現代の都会生活では廃れましたが、地域社会の交際が親密であった時代では、自分の家の慶事にはご近所に配りものをして一緒に祝うことを当然とする習慣がありました。イエスの時代の村人たちも、そういうことが普通であったのでしょう。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」。(一五・一〇)
「このように」、すなわち、失った銀貨を見つけた女性が友達や近所の女たちを呼び集めて一緒に喜ぶように、一人の罪人が悔い改めて神のもとに帰ってくるならば、神は天使たちを呼び集めて、喜びを共にされるのだ、とイエスは言われます。失われた羊が見つかったときには、「天に喜びがある」と言われていましたが(七節)、ここではそれが天使たちの喜びとして描かれます。天上においては、神の御座の前に多くの天使たちが仕えているという当時の天使理解が前提されています。