83 悔い改めなければ滅びる(13章1〜5節)
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。(一三・一)
ローマ総督ピラトがガリラヤ人(複数)を殺戮したこのイエスの時代の流血事件については、この時代の歴史を詳しく記述したヨセフスは何も伝えていません。しかし、イエスの十字架の五年後の三五年に、ピラトは彼の部隊にゲリジム山で犠牲を捧げているサマリア教徒を襲わせ、多くのサマリア人を殺します。それでサマリア人はこの事件をローマ側に訴え、ピラトは責任を問われて召喚されることになります。この事件についてはヨセフスが『古代誌』一八巻四章で詳しく伝えています。それで、ルカはこの事件と混同しているのではないかという議論もなされてきました。しかし、総督ピラトは、被支配民のユダヤ人やサマリア人の宗教感情を逆撫でするようなことをしばしば繰り返した粗暴な支配者であったので、イエスが活動された時期にこのような事件を起こしたことは十分ありえます。ガリラヤが反ローマ運動の拠点であったことについては、拙著『ルカ福音書講解 T』123頁「ガリラヤ人の抵抗運動」の項を参照してください。
「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という表現も、正確に何を指しているのか解釈が分かれます。文章の前後関係からすると「彼らの」はガリラヤ人を指すことになり、(他の)ガリラヤからの巡礼者が神殿で献げようとしていた犠牲の動物の血に混ぜたことになります。しかし、このようなことができるかどうか問題です。「彼らの」を(強引に)ピラト配下のローマ軍と理解すると、ローマ軍が行う異教の犠牲祭儀の血に、この事件の犠牲者の血を混ぜたことになり、ピラトがやりそうなユダヤ人に対する強烈な挑発になります。この文を神殿区域でのガリラヤ人の殺戮を象徴的に表現したものと理解する見方も可能です。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。(一三・二〜三)
イエスはこの事件を、この差し迫った時に民に悔い改めをうながすきっかけにされます。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思う」のは、当時のユダヤ教の基本的な考え方です。律法を順守して罪のない生活をしておれば、神の護りと祝福にあずかり平和で栄えるが、律法に反する罪深い生活をすれば神の裁きにより不幸と災禍に陥るという考えです。ヨブ記の著者は、必ずしもそうではない現実、義人が苦しむ不条理な現実に直面して、このような宗教の応報思想と格闘しましたが、一般民衆にはこのような応報思想が広く染みこんでいました。「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。(一三・四〜五)
イエスは同じことを、最近エルサレムで起こった事件を引き合いに出して語り出されます。シロアムの塔が倒れて一八人が死んだという事件は、他の資料から確認することはできませんが、当時の人々に広く知れ渡っていた有名な事件だったのでしょう。シロアムはエルサレムの南東部にある貯水池です(ヨハネ九・七)。そこにどのような塔があったのかは不明です。水道工事のための塔があったのかもしれません。現代でもよく工事中の事故で死亡者が出ることがあります。そのときに有名であった事件を用いて、イエスは差し迫った終わりの日に備え、悔い改めるように、すなわちイエスが告知される神の恩恵の場に来るように招かれます。