61 七十二人を派遣する(10章1〜12節)
「七十二人の派遣」記事の性格
この「七十二人の派遣」はルカだけにある記事で、その歴史性と意義が論争されています。ルカはすでにイエスのガリラヤでの活動期間の最後に「十二人」派遣の記事を置いて、ガリラヤでの活動時期を締めくくっています(九・一〜六)。そして、イエスがエルサレムに顔を向けて旅を始められたことを明記した後に(九・五一)、この「七十二人の派遣」の記事を置いています。では、「御自分が行くつもりのすべての町や村」とはどこを指すのでしょうか。このルカだけにある「七十二人の派遣」の記事は、その位置からだけでも、解釈者にこの記事の性格について考えさせます。マタイの弟子派遣の記事の構成については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』の「第五章・弟子の派遣」を参照してください。
マタイはこの二つの状況(イエスの時の状況とマタイの時の状況)を重ねて、一つの「十二人の派遣」の記事に構成しましたが、ルカはその二つの状況を別々の派遣記事に構成したのではないかと推察されます。すなわち、イエスの時の弟子の派遣は「十二人の派遣」の記事(九・一〜六)にして、イエス復活後の弟子たちの状況は「七十二人の派遣」の記事(一〇・一〜二四)に構成したのではないかと考えられます。この推察が正当で根拠があるかどうかは、このセクションのテキストを検討した後で判断されることですから、この視点からこのセクションを検討してみたいと思います。収穫を前にして
その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた(一〇・一)。
ここを「七十人」と読む有力な写本が多くあります。底本は「七十」の後に「二」を括弧に入れて加えています。NRSVは本文で「七十人」とし、欄外の注で「七十二人と読む写本もある」としています。「七十」(聖数七の十倍)も「七十二」(十二の倍数)もユダヤ教では象徴的な意味を担う数で、互換的に用いられています。たとえば、ギリシア語訳旧約聖書は、その成立を語る「アリステアスの手紙」では、七十二人の翻訳者によって七十二日で行われたとされていますが、一般には「七十人訳ギリシア語聖書」と呼ばれています。また、創世記一〇章の「民族表」にある世界の民族の数は、ヘブライ語聖書では七十ですが、七十人訳ギリシア語聖書では七十二となっています。「七十」も「七十二」も共に世界の民族の数を指し、全世界を象徴する数です。この数の象徴性は、この記事の性格を理解する上で一つの示唆となります。
「十二人の派遣」の場合には「イエスは・・・された」でしたが、「七十二人の派遣」の場合は「主は・・・・遣わされた」となっています。ルカは「主」《ホ・キュリオス》をごく日常的な場面でも用いていますから、この称号が使われているからといって直ちにここが復活されたイエスの働きを描いているとは言えませんが、ナインの寡婦の息子を生き返らされときにもこの称号が使われていたように、ここでもこの派遣が復活されたイエスによる派遣であることを語る伝承が自然に、この記事の主語をイエスではなく、復活者イエスを指す「主」《ホ・キュリオス》という称号を選ばせたと見ることもできます。従ってここでの「主」称号の使用は、「七十二人の派遣」記事が復活者イエスによる派遣の記事であると見る論拠の一つになります。ナインの寡婦の息子を生き返らせた方が「イエス」ではなく「主」《ホ・キュリオス》と呼ばれていることの意義については、拙著『ルカ福音書講解T』316頁の「主《ホ・キュリオス》の働き」の項を参照してください。
派遣される弟子の数が七十二人(あるいは七十人)という象徴的な数で語られているのは、この記事が具体的な出来事の記録ではなく、イエス復活後の広範な福音告知の活動を描いていることを示唆しています。記事のこのような性格から、派遣される地域も特定されず、「御自分が行くつもりのすべての町や村」という一般的な表現になっています。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。(一〇・二)
このイエスのお言葉はマタイにもあり、「語録資料Q」から取られていると見られます。ただこのお言葉は、マタイでは弟子の派遣の前に置かれていますが(マタイ九・三七)、ルカでは派遣説教の中に置かれています。どちらにしても、イエスが「収穫」という比喩を用いて、神の支配到来の切迫と、その時に備えるための福音告知の働きの緊急性を語り出し、神の支配到来のために準備をする働き手がさらに多く送り出されるように祈るように求めておられる点は同じです。派遣された者の働き
イエスは派遣される働き手に、その働き方について具体的な指示をお与えになります。「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな」。(一〇・四〜七)
この指示を「十二人の派遣」の場合(九・三〜五)と較べますと、旅には何も待たず、ただ神が備えてくださるものだけに頼って進めという指示は同じですが、「十二人の派遣」の時の「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」という具体的な指示に較べると、ここでは「財布も袋も履物も持って行くな」と、やや簡略にまとめられています。しかし、「途中でだれにも挨拶をするな」という指示が加えられています。これは、当時のベドウィン的な環境での挨拶の慣行で、身の安全と便宜のためにキャラバンに挨拶して一行に加えてもらうようなことをして、旅程を遅らせてはならないという意味とも考えられますが、それに限らず一般的に知人の家を訪問して安逸に時を過ごすなという意味も考えられます。いずれにせよ、使者の働きが急を要するものであることが強調されています。使者を迎え入れる町と拒む町
「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」。(一〇・八〜一一)
続いて、このような「神の支配が近づいた」というイエスの使者の終末使信を受け入れる町と拒む町の対比が取り上げられます。ここで、イエスを受け入れるとか拒むという行動の単位が、個人ではなく町であることが注目されます。イエスがガリラヤで神の国を宣べ伝えられたときには、個人がイエスを信じていやされたり罪の赦しを受けたりして救いを体験していました。町単位で信じたり拒否したりして、救いと祝福を受けたり断罪されることはありませんでした。ところがここでは、町が祝福されたり断罪されています(このことの意味は後述)。とくに断罪の言葉が詳しくて印象的です。この事実も、イエスの状況と「七十二人の派遣」の記事の状況が違うことを示唆しています。