44 「ともし火」のたとえ(8章16〜18節)
「ともし火」のたとえ
ルカはマルコ福音書四章にまとめられている多くのたとえの中から、代表的なたとえとして「種を蒔く人」のたとえを取り上げ、たとえで語る理由とそのたとえの説明を続けるという形でマルコに従っています。こうして形成したイエスのたとえに関する区分(八・四〜一八)を「ともし火」のたとえで締めくくります。「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。(八・一六)
この「ともし火」のたとえは、マルコ(四・二一)では「ともし火が来るとき、ますの下や寝台の下に置かれることがあろうか。燭台の上に置かれるではないか」(私訳)となっています。「ともし火が来る」という特異な表現は、イエスが御自身の世への到来を光の到来として語っておられることを示唆しており、この比喩はもともとは、イエス御自身が光として世に入ってきた以上、その光を枡をかぶせて消したり、台の下に置いて隠すことはできない。どのように圧迫されようと、光を高く掲げて世を照らさなければならない、というイエス御自身の使命に関する比喩であると考えられます。隠されたものは顕われる
この「ともし火」のたとえの後に、「神の国」についてのイエスの重要な語録が置かれています。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」。(八・一七)
この言葉は当時広く用いられていた格言ではないかと考えられますが、イエスはこれを「神の国」の姿を描く宣言とされます。すなわち、いま「神の国」は地上のイエスの中に隠された姿で到来している。それが神の支配、神の働きである以上、その神の支配の現実は必ず顕わになる。今は秘められた姿でイエスと僅かの弟子たちに中に働いているが、それは必ずすべての人が直面する公の現実になるのだ、という宣言です。この格言が「神の国」到来の原理を宣言するものであることについては、拙著『マルコ福音書講解T』208頁「神の国の顕現」の項を参照してください。
この宣言は、イエスが御自身の光として使命について告白されたものとして理解した場合、マルコの形での「ともし火」の語録によく続きます。イエスは、今自分の中に到来している「神の国」という光は、世では圧迫されて覆い隠されているようであるが、「神の国」の現実は必ず栄光の中に顕現する時が来るのだ、と宣言しておられることになります。持っている人は更に与えられる
この後、マルコ(四・二四〜二五)では、「何を聞いているかに注意しなさい」という警告の後、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と続き、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という宣言が来ます。それに対してルカは、秤の比喩はすでに他の文脈で用いたので(六・三七〜三八)、その部分は飛ばして、次のような言葉で、イエスのたとえを注意深く聞くように呼びかけます。「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」。(八・一八)
イエスは繰り返し、「聞く耳のある者は聞きなさい」と警告しておられます。イエスのたとえをただの物語として素通りさせてはならないのです。そのたとえが今自分に何を意味しているのかを真剣に受け止めなければなりません。もしわたしたちが聞く耳をもたず、イエスが語られることを軽視したり無視するならば、神もわたしたちを軽視し無視されるでしょう。「神の国」の奥義は与えられず、もともと神から与えられているよいものも失っていきます。それに対して、聞く耳をもってイエスの言葉に真剣に耳を傾ける者は、神も真剣に扱ってくださり、時に応じて「神の国」の奥義を示し、それによって霊的理解力を増し加え、ますます多くのよき賜物を与えられることになります。