41 「種を蒔く人」のたとえ(8章4〜8節)
たとえで語られるイエス
先の段落(八・一〜三)でガリラヤにおけるイエスの働きを総括的に記述した後、ルカはその時期の個々のイエスの働きを伝えます。そのさい、ルカはほとんどマルコの記述に基づいて物語を進めます。ルカは「十二人の選び」の記事の後、しばらくマルコから離れて独自の記述を進めてきましたが(六・一七〜七・五〇)、八章に入って、総括的な要約記事の後、再びマルコに従って記述を進めていきます。もっとも、そのさい独自の視点から多少の変更は加えています。たとえば、マルコでは「イエスの母、兄弟」の段落はたとえ集の前に置かれていましたが、ルカでは後に置かれています。また、マルコではイエスがたとえを語られたのはガリラヤ湖畔で小舟の上からでしたが、ルカでは湖畔の状況は触れられていません。大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。(八・四)
イエスがあるところにおられたとき、イエスが巡回された町々でなされた病人をいやすなどの働きを見た人たちが大勢、イエスのもとに集まってきます。マルコではそれがガリラヤ湖畔であったとされていますが、ルカは場所を特定していません。「方々の町から」という句で、巡回伝道での一場面であることを示唆するだけです。こうして集まってきた大勢の群衆に、イエスはたとえを用いてお話になります。たとえを用いて話す理由は後で取り上げられます(八・九〜一〇)。「種を蒔く人」のたとえ本来の使信
では、そのたとえを聴いてみましょう。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので、枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。(八・五〜八a)
マルコ(四・三〜八)にあるたとえと較べますと、細かい点では表現に違いがありますが、基本的には同じ内容です。イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われたとされている点も、マルコと同じです。「比喩」(パラブル)と「寓喩」(アレゴリー)の違いについては、拙著『マルコ福音書講解T』194頁の「比喩の寓喩化」の項を参照してください。
イエスは「比喩《パラボレー》」を用いて神の国のことを語られました。すなわち、神の国の一つの側面に焦点を当てて、その内容に対応する日常生活の体験を横に並べて(《パラボレー》は「並べて置く」という意味の動詞から出た名詞)、それによって見えない霊的現実である「神の国」を指し示されるのです。そのような「比喩」としてこの「種を蒔く人」のたとえを聴くと、これは当時の農法の体験で、イエスにおいて到来している「神の国」の現実を指しているたとえであることが聴き取れます。すなわち、耕す前に種を散布するという当時の農法では、悪い地に落ちて失われる種も多いのですが、畑全体としては必ず蒔いた種の何十倍かの収穫はあったのです。種を蒔く農夫は、失われる種が多い事実は知っていますが、必ずもたらされる豊かな収穫を信じて、土地の良し悪しを問題にせず広く種を散布するのです。