第五章 神の訪れの時
― ルカ福音書 七章 ―
はじめに
山に入って弟子たちの中から使徒となるべき十二人を選ばれたイエスは、山から下りて平らかな所に立ち、集まってきた人々に神の国での生き方について説かれます。この「平地の説教」を終えて、イエスはカファルナウムに戻られます(七・一)。このカファルナウムを拠点にして、再び弟子たちと一緒にガリラヤを巡り歩いて、「神の国」を告げ知らせる活動を続けられます。そして、このガリラヤでの活動は、「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固め」(九・五一)、ガリラヤから旅立たれる時まで続きます。36 百人隊長の僕をいやす(7章1〜10節)
百人隊長のへりくだり
「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」。(七・一)
「平地の説教」が限られた弟子だけに語られたものではなく、「民衆」一般に語られたものであることが、この締めくくりの文で確認されます。イエスは、広く民衆を「神の国」に招き、その「神の国」において生きる生き方を語られました。このような形にまとめたのはルカでしょうが、その内容はイエスご自身のものであり、「これらの言葉」こそイエスの「神の国」告知の精髄です。カファルナウムに駐屯している軍隊はローマ軍ではなく、領主ヘロデ・アンティパスの軍隊ではないかと考えられます。ヘロデ・アンティパスの軍隊は異邦人が大部分で、ローマ式に編成されており、その百人隊長に異邦人が任命されるのも普通であったと見られます。並行記事と見られるヨハネ(四・四六〜五四)では「王(ヘロデ・アンティパス)の役人」となっています。この物語の百人隊長は、以下の物語から「神を敬う」異邦人であったと考えられます。カファルナウム駐屯軍がローマ軍であったかどうかは問題でなく、この百人隊長が異邦人であったことに意味があります。
「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」。(七・二〜三)
同じ出来事を伝えているマタイの記事(八・五〜一三)と較べると、細かい点で違いが見られます。「部下」と訳されている語は、ルカでは《ドゥーロス》(奴隷)ですが、マタイでは《パイス》(子、僕、奴隷)です。ルカの《ドゥーロス》は、部下の兵卒よりも家内奴隷を指す可能性が高いと考えられます(RSVなど英訳は slave)。やはり同じ出来事を伝えていると見られるヨハネ福音書の記事(四・四六〜五四)では、「王の役人の息子《フィオス》」となっています。どの場合も、病人がこの地位ある人物にとってきわめて大切な者であったことが共通しています。その大切な者が死にかかっているという状況で、彼はイエスの評判を聞いて、イエスにすがります。「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです』」。(七・四〜五)
この百人隊長がユダヤ教の会堂を建てたというのは、よほどの資産家であったことになります。ユダヤ人の長老たちは、彼が会堂を建てるという並外れた貢献をユダヤ教にしてくれた人物であるから、彼の願いを聞いてくれと頼んでいます。イエスは、彼が自分たちの宗教にそのような貢献をしたからではなく、彼の切実な懇願を聞いて助けに行こうとされます。そのことは、すぐ次に息子を失った貧しいやもめの悲しみを見て、息子を生き返らせる働きをされた事実からも分かります。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。(七・六〜七)
ルカの記事はやや奇異な感じを受けます。ここの発言と続く八節の権威についての発言は、マタイがそうしているように、百人隊長が直接イエスに語りかけた言葉としては自然に聞くことができますが、使いに出した友人たち(複数)に言わせた発言としてはかなり不自然です。主語はすべて「わたし」であり、友人たちの立場が介入している痕跡はありません。おそらく百人隊長が直接イエスに会って懇談し語っているとしたマタイ(そしてヨハネ)の方が原型ではないかと考えられます。ルカの形は、イエスを少しでも異邦人との接触から遠ざけておこうとした保守的なユダヤ教徒のグループ(エルサレム共同体?)でこの伝承が伝えられる過程で変形され、そのグループの資料をルカが用いた結果ではないかと推察されます。イエスの言葉の権威
彼は「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」と言っています。マタイの並行箇所(八・八)では、「ただひと言おっしゃてください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」となっています。マタイの方が「ただ」という語を用いていることと、ルカの「いやしてください」という命令法ではなく、「いやされます」と直ちに起こる事実を述べる未来形を用いている点で、イエスの言葉への全面的信頼が明確に表現されています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。(七・八)
ローマ式の軍隊では上官の命令の言葉は絶対です。部下は、命の危険があっても命令の言葉に従って行動します。彼はそのような軍隊の権威の序列の中にある者として、自分も上官の命令には従う立場ですが、その自分の下にも部下の兵卒がいて、自分の命令の言葉には無条件に従って行動することをよく知っています。イエスはこの百人隊長の言葉を聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われます。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。(七・九)
イエスはこう言って、イエスの言葉の権威に自分の大切な者の命を委ねるこの異邦人百人隊長の信仰をお誉めになります。実は、これと並行するマタイ福音書では、このお言葉の後に次の言葉が続いています。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。(マタイ八・一一〜一二)
父祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束された神の国の饗宴の席に連なるのは、直系の子孫であることを誇るイスラエルの民ではなく、東や西からやって来る世界の諸民族であるという語録は、異邦人に向かって書いているルカにこそふさわしい内容ですが、ルカにはありません。ルカは、これと同じ内容ですが少し違った形の伝承を知っており、それをまったく別の文脈で用いています(一三・二八〜二九)。おそらく、ルカが資料として用いた百人隊長の物語伝承は、保守的なユダヤ教徒のグループで伝えられていたので、このような言葉を含むことは出来なかったのでしょう。ルカは別の系統の伝承からこの言葉を得て、別の文脈で用いることになります。使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。(七・一〇)
この物語の結末は、「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」となっています。百人隊長が使いの者を通してお願いしたいやしのための言葉をイエスは発しておられません。マタイでは、イエスは「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言っておられます。ルカでは、百人隊長の信仰が嘉納されたことで、その信仰に応じて神のいやしの働きがなされたことになります。この物語のマタイ版について詳しくは、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』119頁以下の「百人隊長の信仰」の項を参照してください。