はじめに―「平地の説教」
ルカは先の区分(五・一〜六・一六)で弟子団の形成を語りました。そこで見たように、その区分は、形式的には弟子団の形成を主題としていますが、実質的には、イエスの弟子たちはもはやユダヤ教律法の枠の中にではなく、別の原理、すなわち恩恵が支配する場に生きているという事実を、イエスとファリサイ派律法学者たちとの論争という形で物語っていました。その区分を書き終えて、ルカはその弟子たちにイエスが直接、恩恵の場に生きるとはどういうことかを語り出された内容をまとめます。30 おびただしい病人をいやす(6章17〜19節)
平地での説教
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。(六・一七〜一九)
先の段落(六・一二〜一六)で、「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされ」、夜が明けたとき、弟子たちの中から十二人を選んで使徒と名付けられたことが語られていました。今や「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちに」なります(一七節前半)。ここの「彼ら」は、イエスと一緒に山に上った、十二人を中核とする弟子たちの一団を指すことになります。聴衆
イエスの「平地の説教」を聴いたのは誰でしょうか。イエスは誰に向かってこの教えの言葉を語りかけられたのでしょうか。ルカは「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」(二〇節前半)と書いています。この「弟子たち」とは、どの範囲の人たちのことでしょうか。「平地の説教」が行われた状況を説明するこの段落では、「大勢の弟子」だけでなく、「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来たおびただしい民衆」が「イエスの教えを聞くため」に集まっています。イエスは弟子と民衆を区別して、弟子たちだけに語りかけられたとは考えられませんから、イエスは集まってきているすべての人たちに向かって、自分の弟子として語りかけておられることになります。「平地の説教」の状況を説明するこの段落は、イエスの教えの言葉は、イエスに救いを求めてやってきたすべての人に向かって語りかけられていることを指し示しています。マタイにおいても「山上の説教」を聴いた者は、弟子だけでなく群衆であることについては、拙著『マタイによる御国の福音―山上の説教講解』36頁の「第二節 聴衆」を参照してください。
この聴衆の一人としてイエスの「平地の説教」を聴くにさいして重要なことは、わたしたちも、いやしを求めて集まってきた民衆の一人として、彼らと同じ立場で聴くことです。イエスのもとに集まってきたのは、自分ではどうしようもなくなって、ただイエスの内に働く神の救いの力に身を委ねるほかはないとする人たちです。自分は自分でやっていける、イエスが示す神の憐れみの力に頼る必要はない、と考えている人は、この「平地の説教」を聴くにふさわしい者ではありません。