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第四章 恩恵の場に生きる ― 「平地の説教」 


   ― ルカ福音書 六章(一七〜四九節)―

はじめに―「平地の説教」

 ルカは先の区分(五・一〜六・一六)で弟子団の形成を語りました。そこで見たように、その区分は、形式的には弟子団の形成を主題としていますが、実質的には、イエスの弟子たちはもはやユダヤ教律法の枠の中にではなく、別の原理、すなわち恩恵が支配する場に生きているという事実を、イエスとファリサイ派律法学者たちとの論争という形で物語っていました。その区分を書き終えて、ルカはその弟子たちにイエスが直接、恩恵の場に生きるとはどういうことかを語り出された内容をまとめます。
 まず、イエスがその言葉を弟子たちに語り出された状況が描かれて、イエスの言葉の導入部となります(六・一七〜一九)。ここで、イエスが弟子たちに語られた教えの言葉が「平らな所」で語られたとされていますので(六・一七)、ルカによってまとめられたイエスの弟子たちへの教えは「平野の説教」とか「平地の説教」と呼ばれることになります。この「平地の説教」は、内容がマタイ福音書の「山上の説教」(マタイ五〜七章)と並行しているので、それとの比較によって、ルカのまとめ方の特色、ひいてはルカの思想とか神学が浮かび上がってきますので重要です。しかし、何よりもイエスが宣べ伝えられた「神の支配」告知の核心として、福音書の中心を形成する箇所として重要です。

30 おびただしい病人をいやす(6章17〜19節)

平地での説教

 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。(六・一七〜一九)

 先の段落(六・一二〜一六)で、「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされ」、夜が明けたとき、弟子たちの中から十二人を選んで使徒と名付けられたことが語られていました。今や「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちに」なります(一七節前半)。ここの「彼ら」は、イエスと一緒に山に上った、十二人を中核とする弟子たちの一団を指すことになります。
 モーセがシナイ山で啓示を受けて以来、イスラエルでは山は啓示の場所として重視されてきました。マタイがイエスの神の国告知を山の上でなされたものとして描いたのも、この伝統に従ったからでしょう。しかし、ルカにはこのようなイスラエルの伝統を重視する姿勢はなく、山を十二使徒選任の場所とするだけで、イエスの神の支配告知の説教は「平らな所」、すなわち民衆が生活する場所で行われたとします。
 山の麓の「平らな所」には、「大勢の弟子」と「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来たおびただしい民衆」が、イエスと弟子たちの一行が山から下りてくるのを待ち受けています(一七節後半)。イエスの説教が行われた状況を語るこの段落は、マルコ三・七〜一二に相当する箇所ですが、マルコが群衆を「ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りから」来た者たちとしているのと較べますと、ルカは「ユダヤ、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側」を「ユダヤ全土」と大雑把にくくっています。しかし、「エルサレム、ティルスやシドンの海岸地方から」は、マルコを継承して、遠隔の地からも来ていることを強調しています。
 彼らは「イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」のです(一八節前半)。おびただしい群衆が、病気をいやしてもらうために、イエスに触れようとして押し迫ったことや、汚れた霊に悩まされていた人たちがいやされたこと(一八節後半〜一九節)はマルコと同じですが、ルカは彼らが「イエスの教えを聞くために」集まってきていたと書き加えて、「平地の説教」を導入する準備をしています。

聴衆

 イエスの「平地の説教」を聴いたのは誰でしょうか。イエスは誰に向かってこの教えの言葉を語りかけられたのでしょうか。ルカは「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」(二〇節前半)と書いています。この「弟子たち」とは、どの範囲の人たちのことでしょうか。「平地の説教」が行われた状況を説明するこの段落では、「大勢の弟子」だけでなく、「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来たおびただしい民衆」が「イエスの教えを聞くため」に集まっています。イエスは弟子と民衆を区別して、弟子たちだけに語りかけられたとは考えられませんから、イエスは集まってきているすべての人たちに向かって、自分の弟子として語りかけておられることになります。「平地の説教」の状況を説明するこの段落は、イエスの教えの言葉は、イエスに救いを求めてやってきたすべての人に向かって語りかけられていることを指し示しています。

マタイにおいても「山上の説教」を聴いた者は、弟子だけでなく群衆であることについては、拙著『マタイによる御国の福音―山上の説教講解』36頁の「第二節 聴衆」を参照してください。

 この聴衆の一人としてイエスの「平地の説教」を聴くにさいして重要なことは、わたしたちも、いやしを求めて集まってきた民衆の一人として、彼らと同じ立場で聴くことです。イエスのもとに集まってきたのは、自分ではどうしようもなくなって、ただイエスの内に働く神の救いの力に身を委ねるほかはないとする人たちです。自分は自分でやっていける、イエスが示す神の憐れみの力に頼る必要はない、と考えている人は、この「平地の説教」を聴くにふさわしい者ではありません。
 イエスはいやしや救いを求めてくる者に、代価や資格を求められませんでした。どれだけ律法を守って敬虔な生活をしているか、社会生活で道徳的に立派な振舞いをしているかなど、いっさい資格を問題にされませんでした。また、いやされた者に代価を求めたりされませんでした。病気のいやしに示される神の救いの働きは、無資格の者に無条件で与えられるものであり、神の恩恵の具体的な現れでした。これからイエスが語り出される「平地の説教」も、まさにこの絶対無条件の神の恩恵の宣言に他なりません。それは恩恵の場にひれ伏してはじめて聴くことができる言葉です。いやしの働きも教えの言葉も、共に神の恩恵の現れであるという点で一体です。