21 巡回して宣教する(4章42〜44節)
神の支配を福音する使命
朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。(四・四二)
ペトロの家で夕暮れから夜にかけて多くの病人をいやされたイエスは、翌朝、おそらく人々がまだ寝静まっている早朝に起きて、人里離れた所に出て行かれます。ルカは書いていませんが、もちろんそれは祈るためであったはずです。イエスは祈りの人でした。人の前で祈るのではなく、隠れたところで、隠れたところにおられる父に祈るように教えられたイエスは(マタイ六・六)、ご自身がまず「人里離れた所」で、ただ一人になって、父との交わりの中で祈ることを習慣とした人でした。しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。(四・四三)
しかしイエスは、とどまるように願う彼らに、このように言われます。イエスの言葉を直訳すると、「わたしは他の町にも神の《バシレイア》を福音しなければならない。わたしはそのために遣わされたのだから」となります。ここで二つの重要な用語が出てきます。一つは「神の《バシレイア》」で、他の一つは「福音する」という動詞です。「福音する」という動詞の用例については、三章一八節の講解につけた注記を参照してください。
それで、「神の《バシレイア》を福音する」という表現は、病気をいやし悪霊を追い出すという目立ったカリスマ的な(=霊能者的な)働きと並んで、イエスの働きの重要な側面を指し示す表現になります。マルコやマタイは、イエスの働きを要約するところでいつもこの二つをあげています(マルコ一・三九、マタイ四・二三など)。ルカもこの二つの面を伝えながら、この段落の文脈からすると、病人をいやす働きよりも、「神の《バシレイア》を福音する」ことこそ、イエスが地上に遣わされた本来の使命であるとしていることになります。この点で、ルカはマルコ(一・三五〜三九)に従っていますが、マルコがイエスの本来の使命を「宣教する、宣べ伝える」《ケーリュッセイン》という一語で指しているのに対して、ルカは「神の《バシレイア》を福音する」という特色ある表現で指しています。しかし、この「宣教する、宣べ伝える」《ケーリュッセイン》という動詞を次の節で、イエスの働きを要約するさいに用いています。そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された(四・四四)。
ルカはここで、イエスの働きを要約する文章で「宣教する、宣べ伝える」《ケーリュッセイン》という動詞を用いています。この動詞は本来、王の伝令《ケーリュクス》が王の布告などを大声で町や村に告げて回ることを指す動詞です。イエスの復活後、使徒たちはイエス・キリストの十字架と復活の出来事を神の救済の出来事として、世界の諸都市に告げ知らせていきました。このキリストの出来事を告げ知らせる行動を《ケーリュッセイン》という動詞で指したのです。キリストの出来事を世界に告知する働きをこの動詞で指すことは、パウロ以前に始まっていますが、パウロの書簡に「キリストを告げ知らせる」とか「福音を告げ知らせる」という形で繰り返し用いられるようになります。《ケーリュッセイン》の名詞形が《ケーリュグマ》です。この名詞は、《ケーリュッセイン》する行為を指す場合と、《ケーリュッセイン》される内容を指す場合があります。この告知された内容を指す《ケーリュグマ》という名詞は、最初期の福音告知の内容(たとえばコリントT一五・三〜五)を指す専門用語として、神学上重要な概念として用いられるようになります。しかし、その意味での《ケーリュグマ》はここでは関係がありませんので触れません。
なお、ここでルカは「ユダヤの諸会堂へ行って」と書いています。ガリラヤでの活動開始を語るこの箇所で突然「ユダヤ」という地名が出てくるのは、唐突で不自然な感じを免れません。この「ユダヤ」を北方のガリラヤ対して南方のユダヤの地域を指すとすると、これは明らかに変です。それで、「パレスチナの地誌に不案内なルカのミスか」という説明がなされることになります(岩波版佐藤訳)。しかし、著者がパウロの同伴者のルカであるとすると、彼がガリラヤとユダヤを混同するとは考えられません。これは、ルカがかなり年月が経ってから異邦人世界でこの福音書を書いたとき、遠いエーゲ海地域の異邦人世界から見れば、ガリラヤもユダヤも含めて、「ユダヤ教徒が住んでいる地域」という意味で、漠然とした地名として使ったと見ざるをえません。イエスの告知の終末性
イエスが「神の《バシレイア》を福音された」とか「《ケーリュッセイン》された」というとき、それがどのような内容であり、どのような性格の告知であったのか、ここではまだ何も語られていません。それは福音書全体を通して探求すべき問題ですから、ここで結論を出すことはできません。ところで、ルカ福音書はルカの福音理解に立って書かれていますから、イエスの活動を描くにも、ルカの福音理解という枠の中で描かれています。それで、イエスの告知が実際にはどのようなものであったのかを知るためには、その枠の存在を考慮に入れて考察する必要があります。その枠を超えて、実際のイエスの告知内容を確認することは至難の課題ですが、少なくともイエスの活動が洗礼者ヨハネの運動から出ているという事実から出発しなければならないと考えられます。マタイは「神の《バシレイア》」を「天の《バシレイア》」と表現しています。これは当時のユダヤ教で神という語を用いることを避けて「天」という語で言い換える習慣に従ったものです。これは「王なる天がなさる統治」(織田『新約聖書ギリシア語小辞典』)とでも訳すべき表現です。
イエスの「神の《バシレイア》」の告知には、洗礼者ヨハネとは違うイエス独自の面が出てきますが、基本的には「神の《バシレイア》」の切迫という使信は継承されています。そのことをもっとも典型的に示しているのは、マタイがイエスの告知を洗礼者ヨハネの告知とまったく同じ言葉でまとめている事実です(マタイ三・二と四・一七)。マルコもイエスの告知を、「時は満ち、神の支配《バシレイア》は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という第一声でまとめています(マルコ一・一五)。