附論
第二章 長老ヨハネと福音書
第一節 長老ヨハネの生涯 U
ヨハネ文書
前章のはじめに書きましたように、ヨハネ福音書が成立直後の二世紀初頭から「ヨハネによる福音書」という呼び方で流布していたことは、その時代の教父たちの証言もあり、広く認められています。その事実は、この福音書を生み出した共同体を指導して形成した人物がヨハネという名であったことを意味しており、本稿ではこのヨハネが誰(どのヨハネ)であったのかは別として、とにかくこの人物によって指導され形成された信徒の共同体を「ヨハネ共同体」、その共同体が生み出した福音書を「ヨハネ福音書」と呼んで議論を進めてきました。ヨハネ共同体の場所
この五つの文書が二世紀以来「ヨハネ」の名を冠して流布していることを証言しているのは二世紀の教父たちだと言ってきましたが、実はその教父たちの証言は、圧倒的にヨハネ共同体が小アジア、とくにその州都であるエフェソを中心に活動したこと、したがってヨハネ文書が小アジアで成立したことを指し示しています。その証言を網羅することはできませんので、代表的な証言をあげておきます。ポリュクラテス(あるいは彼が用いた伝承)は、十二人の中のフィリポとヘレニスト七人衆のフィリポとを混同しているようです。ヒエラポリスはアジア州の都市で、ラオディキアとコロサイの近くにあります。また、エフェソには「ヨハネの墓」と称する墓が二つ、すなわち使徒ヨハネの墓と長老ヨハネの墓があったと伝えられています(エウセビオス「教会史」七巻25章)。ヨハネに関する文の中で彼が「マルチュロス(証人)」と呼ばれているのは、パトモスへの流刑を指していると見ることも可能です。
二世紀末に活躍したリヨンの監督エイレナイオスは、最初に福音書は四つでなければならないことを主張した教父ですが、彼はマタイ、マルコ、ルカがそれぞれ福音書を書いた事情を述べた後、「最後に、主の御胸に寄りかかっていた主の弟子ヨハネは、アジアのエフェソにいる時に福音書を出した」と述べています(「異端論駁」三巻一章)。エイレナイオスは南フランスのリヨンの監督ですが、もともと小アジアの出身であり、若い時にスミルナの監督ポリュカルポスのもとで学んだ弟子です。したがって、小アジアの事情と伝承には詳しい人物であり、そのエイレナイオスが繰り返し「主の弟子のヨハネ」がヨハネ福音書とヨハネの手紙と黙示録を書いたことを確かな伝承として引用しています。なお、彼もヨハネを一度も「使徒」とは呼んでいないことに注意すべきです。エイレナイオスが「使徒」と言うときは、いつもパウロを指しています(例外的に使徒マタイとか使徒ペトロがごく僅か出てきます)。エイレナイオスがヨハネを「使徒」と呼んでいると解釈できる可能性がある例外的な箇所が一箇所ありますが(『異端論駁』一・九・二)、これは論敵プトレマイウスの用語を用いている結果であるとも解釈できるので、決定的ではありません(ヘンゲル)。
エイレナイオスの証言で、福音書を「書いた」とは言わないで「出した」(私訳、原語は《エクセドーケン》)と言っていることが注目されます。
エイレナイオスの師ポリュカルポスはエフェソでヨハネの教えを受けたと伝えられています。ポリュカルポスは一五六年に80歳代の高齢で殉教したと伝えられていますから、90年代には20歳代の若者であり、「長老ヨハネ」の教えを受けたことは年代的に可能です。ただ、この「ヨハネ」が後にエウセビオスの「教会史」では「使徒ヨハネ」であるとされて、ヨハネ問題に混乱を持ち込んでいます。
歴史的状況についての論争
ヨハネ文書がゼベダイの子ヨハネによる著作であることを否定した近代の文献批評は、その否定によってこれを使徒ヨハネの作とする古代教会の伝承全体を否定し、それと共にその成立の場所としてエフェソを指し示す二世紀の教父たちの証言も無視するに至りました。ではヨハネ共同体がどこにあったのかという問いには、パレスチナ、サマリア、シリア、アレクサンドリアなど様々な候補があげられてきました。ブルトマン学派をはじめドイツの研究者には、パレスチナ・シリアをあげる傾向が強いようです。たとえば、H・ケスター『新しい新約聖書概論』やS・シュルツ『ヨハネによる福音書』(NTD)は、ヨハネ文書成立の母体をシリアにある共同体としています。その主な理由は、(次に述べるヤムニアの決議によるものではなく)ヨハネ福音書に見られる主要な宗教的伝承がシリア系の(グノーシス主義的な傾向を帯びた)伝承であることに求められています。しかし、後に見るように、ヨハネ福音書の著者はパレスチナの初期ユダヤ教の伝承から黙示思想やクムラン、さらにヘレニズム世界の宗教的伝承に至るまでの広い範囲の伝承を統合しています。福音書がシリア系の伝承を含んでいることは、エフェソ移住までの期間に著者が接した可能性を考えれば、教父たちのエフェソ説と矛盾するものではありません。最近、K・ヴェングストがヨハネ共同体の所在地をパレスチナ・シリアの境界にあるヘロデ・アグリッパ二世支配下のガウランティス地方(ガリラヤ湖の東北に広がる現在のゴラン高原方面)とする説を出しています。そして、前出の大貫隆『ヨハネ福音書』もこの地域を有力な候補地としています。しかしヘンゲルは、ギリシア語を使う人口がごく限られたこの地域は、ギリシア語を用いる大都市環境の文書であるヨハネ福音書(この点については後述)の成立地ではありえないことを論証し、またヘロデ・アグリッパの政策からも不適切であるとし、この説を「学者の空想」と厳しく批判しています。
ヨハネ共同体の場所に関する論争には、ヨハネ文書、とくにヨハネ福音書がどのような歴史的状況の中で成立したのかという問いが深くからまっています。最近、ヨハネ福音書だけに出てくる「会堂から追放された者《アポシュナゴーゴス》」という用語を鍵として、70年のエルサレム神殿崩壊後ヤムニアの学院を拠点としてユダヤ教の再建を進めたファリサイ派律法学者たちによる異端者の探索・裁判・処刑の決議が背景となっているという説が有力になってきています。その説では、ヤムニアの決議が有効に行使できる地域としてパレスチナ・シリアが候補になってきます。この説の代表的な著作として、J・L・マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』(原義男・川島貞雄訳 日本基督教団出版局)をあげておきます。わたしも前著『キリスト信仰の諸相』(62頁)では、ヤムニアの異端排斥の決議と、それによるヨハネ共同体の危機を背景として、パレスチナ・シリア説を示唆しましたが、これは訂正の必要があるようです。
しかし、ヘンゲルが反論しているように、ユダヤ教会堂側が、イエスをメシア・キリストと告白するユダヤ教徒を異端として会堂から追放し、裁判にかけ、処刑することさえあったのは、ヤムニアの決議に始まるのではなく、ステファノの殉教以来ずっと続いてきたことです。ギリシア語系のユダヤ人キリスト教徒がエルサレムから追放された(使徒六〜八章)のも、《アポシュナゴーゴス》としての追放でしょう。43年にはゼベダイの子ヤコブがヘロデ・アグリッパによって処刑されています(使徒一二・一)。62年には主の兄弟のヤコブが他の有力なユダヤ人信徒と共に律法違反の咎で裁かれ、大祭司アンナス二世によって処刑されています。古い伝承によると、ゼベダイの子ヨハネもこの頃までに殺されたようです。マルコ一〇・三九は、すでにゼベダイの子のヤコブとヨハネの殉教を知っていると考えられます。パウロの伝道によって信仰に入ったユダヤ人も会堂から放逐されて、別の場所に集会を形成しなければなりませんでした(使徒一八・七)。ヨハネ共同体とサマリア
イエスの身近にいてイエスの最後を見届けた「愛弟子」が、その後エルサレムで、あるいはパレスチナの地でどのような歩みをしたのか、資料がないのでその足取りを解明することはできません。ただ、その「愛弟子」が晩年には「長老」としてヨハネ共同体を指導する立場でエフェソで活動しているのですから、その長い生涯のどこかでパレスチナから小アジアのエフェソに移住したとしなければなりません。それまでヨハネとそのグループがパレスチナでたどった足取りは、資料がないので描くことはできないとしてヘンゲルは沈黙していますが、ヨハネ福音書四章にあるサマリアの記事は、その詳細な扱い方と、サマリアの地理などの正確な知識などから、ヨハネのグループがサマリアと何らかの深い関わりをもっていたことを示唆しています。Raymond E.Brown, The Community of the Beloved Disciple, 1979, PAULIST PRESS
著者はアンカーバイブル註解シリーズの「ヨハネ福音書」註解の担当者であり、この著作はヨハネ共同体の歴史をまとめています。ヨハネ共同体の歩みについては、先に紹介したヘンゲルの著作と共に、この著作も参考資料として用いていくことになります。
エフェソへの移住
エフェソへの移住も、いつどのようにして行われたのかは、確実な根拠をもって解明することはできませんが、おそらく60年代であったと考えられます。先にも見たように、62年にはエルサレム教団の指導者であった主の兄弟ヤコブが処刑されます。当初からイエスをメシアと信じるユダヤ人は、イエスが律法違反を教唆扇動する異端の教師として処刑されたのですから、その弟子として律法に違反する者としての嫌疑をかけられ、孤立していました。それで、43年の迫害でゼベダイの子ヤコブが処刑され、ペトロがかろうじて脱獄してエルサレムから去った後は、律法の厳格な実践者として有名な主の兄弟「義人ヤコブ」がエルサレム教団の代表者になります。それによって、異教ローマからの独立を求めて律法順守の熱意がますます強くなっていた時代に、教団の存続を図ったのです。先にあげたR・ブラウンは、ヨハネのエフェソ移住を90年ごろと見ています(前出書165頁の要約図)。これはおそらく、ヤムニアの決議による会堂からの追放(80年代半ば)の時代にはまだパレスチナにいたという前提から出た推察でしょう。しかし、ヘンゲルが批判しているように、会堂からの追放はそれ以前からも行われていたと見ることもできます。またエフェソにおいても会堂からの追放という事態はあり得ました。ヨハネ共同体の歴史を詳しく調べた私市元宏氏は、それではあまりにも遅いとして、80年代を想定しています。しかし、60年代でも遅いとする説もあります。イエスから母を委ねられた「愛弟子」がマリアをエフェソに連れてきて、マリアが晩年をエフェソで過ごしたとされていますが(その家がエフェソ遺跡に再建されています)、マリアの年齢からすると、 40年代までと見るべきであるとする説です。エフェソ遺跡解説書の「マリアの家」の解説には、「聖ヨハネは二度エフェソを訪れたようである」として、「ヨハネは37年から48年にかけてエフェソに来たことが知られている」と書いています。エフェソ博物館の公式の解説書も、ゼベダイの子でヨハネの兄弟であるヤコブが殺された時、ヨハネとマリアはこれ以上エルサレムには残れないとして、41年から42年にアナトリアに移住したとし、その時マリアは64歳であったとしています(この解説書にも使徒ヨハネと「愛弟子」ヨハネの混同が見られます)。 ヨハネがマリアを連れてエフェソに移住したのは、エフェソには様々な宗教の人たちが住んでいて、宗教的・民族的に寛容な国際都市で、隠れ住むにはよい場所であったからだとしています。このような現地の伝承は、マリアの家遺跡発見の経緯からしても、ただの伝説として無視することはできません。
この移住がヨハネ個人の移住であったのか、それともある程度の規模になっていたヨハネ共同体の移住であったのか分かりません。当時では集団での移住は考えにくいので、ヘンゲルが想定しているように、ヨハネの個人的な移住であったと見るのが順当かもしれません。一方、ある程度の規模の仲間たちと一緒に移住した可能性も、完全に否定することはできません。確かに、ヨハネほどの人物が五十歳頃まで何も伝道活動をしなかったと想像することは困難です。ある程度の規模の共同体ができていても不思議ではありません。あるいは、ヨハネ共同体に所属する何人かのユダヤ人が個人的にエフェソに移住し、彼らが核となり、移住した「愛弟子」を中心に新たに共同体を形成したことも考えられます。そうすると、ヨハネ共同体は、シリア(パレスチナを含む広い意味のシリア)時代の前期と、移住後のエフェソ時代の後期の二つの時期に分けて考察しなければならないことになります。エフェソでの活動
ヨハネのエフェソ移住が60年代半ばだとすると、彼はその時50歳前後であったことになります。それから80歳代半ばまで活動を続けたとすると、彼のエフェソでの活動は35年以上になります。35年というとパウロの回心から殉教までの期間に相当し、ヨハネがその証言活動によってかなり広範囲の信徒の共同体を形成するのに十分な期間になります。エイレナイオス(『異端論駁』五巻三〇章)は、「ヨハネ黙示録」の成立をドミティアヌス帝統治(81〜96年)の終わり頃の迫害の時としています。現在までこれが多数説となっていますが、ウェスパシアヌス帝(在位69〜79年)の時代の成立と見る説もあります。ヘンゲルはヨハネのパトモス流刑を64年のネロの迫害の余燼が残るユダヤ戦争末期の出来事と見ています。たしかにユダヤ戦争末期には黙示思想の炎が燃え上がった時代です。さらに「聖使徒・福音書記者・神学者ヨハネ」(ここにも混同が見られます)の奇跡物語を集めた外典の『ヨハネ行伝』は、ヨハネの活動の地をエフェソとし、ドミティアヌス帝の時代に死一等を減じられてパトモスに流されたとしています。黙示録の成立については、複雑な問題もあり、その成立の年代とか経緯は保留にして、これがヨハネ文書に含まれること、すなわちヨハネ共同体が生み出した文書の一つである可能性も考慮に入れて、先に進みたいと思います。
35年にわたるヨハネの働きによって、エフェソと周辺の諸都市には、ヨハネの教えに耳を傾ける弟子たちの交わりが形成されます。この交わりは制度的な「教会」という性質のものではなく、各地に成立した小規模の弟子たちの集会が、一人の優れた教師の指導の下に一つのグループを形成していたと見られます。このグループを、ヘンゲルは「ヨハネのスクール」と呼んでいますが、「ヨハネ学派」という呼び方はこの場合あまり適切ではないので、本稿では「ヨハネ共同体」と呼んでいます。「共同体」というのは、個々の集会よりも広範囲な信徒の交わりで、しかも制度的な教会ではない、ある原理(この場合は長老ヨハネの権威)によってゆるやかな結合をしているグループを指しています。