市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第22講

福音書全体への結び

68 結び―本書の目的(20章 30〜31節)

 30 さて、イエスはまた、この書に書かれていないしるしを他にも多く弟子たちの目の前でなされた。 31 これらのことを書いたのは、イエスが神の子キリストであると、あなたたちが信じるようになるためであり、そう信じて、彼の名によっていのちを持つようになるためである。

イエスを神の子と信じるために

 さて、イエスはまた、この書に書かれていないしるしを他にも多く弟子たちの目の前でなされた。(三〇節)
 著者が「この書に書かれていないしるし」というのは、著者が資料として用いたと考えられる「しるし資料」(奇跡物語の集成)には、もっと多くの「しるし」があったのでしょうが、著者はその中の代表的なものだけを選んだことを示唆しています。共観福音書に伝えられている多くの奇跡と比べると、ヨハネ福音書が伝える奇跡は少なく、僅か七つです。著者は、それぞれの奇跡物語に、その意義をめぐる長い対話編をつけて福音書を構成しました。
 福音書(とくにこのヨハネ福音書)は、イエスがなされた病気の癒しなどの奇跡を、イエスが神から遣わされた方であることを指し示す「しるし」と呼んでいます。そして、このヨハネ福音書は、イエスがなされた「しるし」を示して、イエスを神から遣わされた神の子であると信じるように呼びかけているのです(三・二、一四・一一)。

「しるし」の意義については、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』86頁以下の「最初のしるし」の項を参照してください。

 これらのことを書いたのは、イエスが神の子キリストであると、あなたたちが信じるようになるためであり、そう信じて、彼の名によっていのちを持つようになるためである。(三一節)

 最後に著者は、イエスがなされた奇跡を用いてこの福音書を書いたのは、「イエスが神の子キリストであると、あなたたちが信じるようになるためである」と、その呼びかけを総括します。
 この福音書は繰り返し、イエスは神から遣わされた方であると主張してきました。この福音書では、イエスご自身が繰り返しそう宣言しておられます。しかし、たんに神から遣わされて地上である使命を果たす人間(ユダヤ教のメシアはそういう人物です)ではなく、神と本質を等しくする存在として「神の子」という称号が用いられてきました(一・三四、四九、五・二五、一〇・三六、一一・四、二七など)。イエスはユダヤ人たちから、自分を神の子とする者として、それは自分を神とする冒?であり、死罪に当たると訴えられました(一九・七)。大祭司は巧みな誘導尋問で、イエスが「ほむべき方(神)の子」であることを認めるように仕向けて、イエスを死罪に定めました(マルコ一四・六一)。
 このようにユダヤ教では死罪に当たる主張、すなわち、イエスが神の子キリストであるということを読者が信じるようになるためにこの福音書が書かれたのだと、著者はその意図を明確に宣言します。それは、そう信じることが永遠の命を受ける道だからです。そのことを著者は、「彼の名によっていのちを持つようになるため」と表現します。
 「彼の名」は、イエスが神の子キリストであるという、イエスの本質を現す言葉です。名は本質を指す言葉です。「彼の名によって」は、「神の子キリストであるイエスによって」という意味になります。この方を信じ、この方に自分の全存在を投げ込み、この方に結ばれて生きるときに、わたしたちに「いのち《ゾーエー》」が始まります。この《ゾーエー》は、わたしたちが生まれながらに生きている自然の命とは別種の、上から恩恵として賜る新しい命、「永遠の命」です。この福音書は繰り返しこの新しい命《ゾーエー》のことを、とくに対話の形で語ってきました。その典型が三章のイエスとニコデモとの対話です。この福音書は「永遠の命」を主題とする対話編です。著者は最後に、この著作の主題をかかげて筆を擱きます。

「神の子キリスト」の「キリスト」は、底本では《ホ・クリストス》です。定冠詞つきの《ホ・クリストス》という名詞は、底本ではほとんどみな小文字で始まっています。ただ「イエス・キリスト」が固有名詞として用いられていると見られる場合(一・一七と一七・三の二カ所)だけ、《クリストス》(冠詞なし)を大文字で始めています。新共同訳は、大文字で始まる場合は「キリスト」とし、小文字で始まる場合はすべて「メシア」と訳しています。この箇所も、他の大部分の箇所と同じく、冠詞つきの小文字の《ホ・クリストス》であるので「神の子メシア」と訳しています。この私訳でも、本論の部分でユダヤ人たちの間の会話に出てくる小文字の《ホ・クリストス》は「メシア」と訳していますが、この「結び」の部分は、序詩と同じく、ギリシア語を用いる異邦人に向かって、イエスは神と本質を等しくする神の子であると著者が主張しているところですから、そのような方を指す称号として「キリスト」と訳します(原写本には大文字と小文字の区別はないのですから、大文字を用いるかどうかは解釈の問題になります)。