第三節 ローマ総督による裁判
28 さて、彼らはイエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。早朝であった。彼らは汚れを受けることなく過越の食事をするために、自分たちは官邸に入らなかった。 29 そこで、ピラトは外にいる彼らのところに出て来た。そして言う、「この男について何の訴えを持ってきたのか」。 30 彼らはピラトに答えて言った、「この男が悪事を働く者でなかったら、貴下に引き渡すことはないのです」。 31 そこでピラトが彼らに言った、「自分たちでその者を引き取って、自分たちの律法で裁くがよかろう」。ユダヤ人たちは言った、「われわれは誰ひとり処刑することも許されていません」。 32 それは、御自分がどのような死に方で死ぬことになるのかを示そうとして語られたイエスの言葉が成就するためであった。
33 そこで、ピラトは再び官邸に入り、イエスを呼び出して言った、「お前がユダヤ人たちの王であるのか」。 34 イエスはお答えになった、「あなたが自分からそう言うのか。それとも、他の者たちがあなたにわたしのことをそう言ったのか」。 35 ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人であるものか。お前の国の者と祭司長たちがお前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」。 36 イエスはお答えになった、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであったら、わたしの部下たちはわたしがユダヤ人たちに渡されないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はここから出たものではない」。 37 そこでピラトはイエスに言った、「では、お前は王なのか」。イエスはお答えになった、「わたしが王だと言うのはあなただ。わたしは真理に証を立てようとして、そのために生まれ、そのために世に来た。真理からの者はみな、わたしの声を聴く」。 38 ピラトはイエスに言う、「真理とは何か」。
こう言って、ピラトは再びユダヤ人たちの前に出て来て言う、「わたしはこの者に何の咎も見出せない。 39 ところで、過越祭にはあなたたちのために一人を釈放する慣例がある。それであなたたちは、わたしがあのユダヤ人の王を釈放することを願うか」。 40 すると、彼らは再び叫び出して言った、「この男ではなく、バラバを」。バラバは強盗であった。
ピラトへの引き渡し
さて、彼らはイエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。早朝であった。(二八節前半)
先に「アンナスはイエスを縛ったまま、大祭司カイアファのところに送った」(二四節)とありました。その年の大祭司カイアファの下に開かれた最高法院の議事のことは全然触れられないで、イエスはすぐに総督ピラトがいる総督官邸に連れて行かれます。そして、その時刻は「早朝であった」と報告されます。彼らは汚れを受けることなく過越の食事をするために、自分たちは官邸に入らなかった。(二八節後半)
ユダヤ人にとって異邦人との接触は祭儀上の汚れとされていました。それで、その日の日没に続いて行われる過越の食事を汚れのない状態でするために、「自分たちは官邸に入らなかった」とあります。ということはイエスだけを官邸の中に押し入れて、自分たちは官邸の外に留まり、外から訴えを叫んだことになります。この裁判と処刑の日付が違う問題は、最後の食事の性質とも関連しますので、「告別説教」の講解に入る前に詳しく取り扱いました。本書10頁以下の「最後の食事の日付」の項を参照してください。
そこで、ピラトは外にいる彼らのところに出て来た。そして言う、「この男について何の訴えを持ってきたのか」。(二九節)
イエスを訴えるために来たユダヤ教側の祭司長たちは官邸の中に入ろうとしないので、やむなく総督ピラト自身が外に出て来て、彼らの訴えの内容を尋ねます。彼らはピラトに答えて言った、「この男が悪事を働く者でなかったら、貴下に引き渡すことはないのです」。(三〇節)
ピラトの問に対して祭司長たちは、自分たちがこの男の悪事を十分確認したので、最終的な判決を得て処刑してもらうために、総督に引き渡すのだと答えます。そこでピラトが彼らに言った、「自分たちでその者を引き取って、自分たちの律法で裁くがよかろう」。ユダヤ人たちは言った、「われわれは誰ひとり処刑することも許されていません」。(三一節)
ピラトはその答えを引き取って、「では(=自分たちで十分調べて悪事を確認したのであれば)、自分たちでその者を引き取って、自分たちの律法で裁くがよかろう」と突き放します。「悪事を働く者」に対する裁判権は、最高法院などのユダヤ教体制に認められているのであるから、そこで裁判をするがよい、とピラトは突き放すわけです。ピラトにすれば、訳の分からない「律法(ユダヤ教)」内の紛争に関わることにうんざりしていたのでしょう。それは、御自分がどのような死に方で死ぬことになるのかを示そうとして語られたイエスの言葉が成就するためであった。(三二節)
イエスは先に「わたしが地から上げられるならば、すべての人をわたしのもとに引き寄せるであろう」と言って、「自分がどのような死を遂げようとしているかを、しるしとして示そうとしてこう言われた」とされています(一二・三二〜三三)。ここで祭司長たちがピラトにイエスの処刑を求めたことは、イエスがユダヤ教式の石打の刑ではなく、ローマ式の十字架刑によって死なれることになるための行動とされています。イエスは「自分がどのような死を遂げようとしているか」も予め知っておられて、それに身を委ねられるのだと、この福音書は解説します。なおこの福音書では、「上げられる」という用語が、十字架につけられて地から上げられるという意味と、復活して天に上げられるという意味の二つが重なっていることについては、これまでに度々見てきた通りです。イエスとピラトの問答
そこで、ピラトは再び官邸に入り、イエスを呼び出して言った、「お前がユダヤ人たちの王であるのか」。(三三節)
一度外に出て訴えるユダヤ人たちと問答したピラトは、「再び官邸に入り」、イエスと一対一で対面します。ここから三八節前半までは、イエスとピラトとの一対一の対話になります。対話によって福音を提示しようとするこの福音書の姿勢はここでも貫かれています。イエスはお答えになった、「あなたが自分からそう言うのか。それとも、他の者たちがあなたにわたしのことをそう言ったのか」。(三四節)
共観福音書では、「お前がユダヤ人たちの王であるのか」というピラトの質問に、イエスは「あなたが(それを)言う」とだけ答えておられます。これは「あなた」が強調された文で、「そう言うのはあなたの方だ」(私訳)という意味です(新共同訳は「それはあなたが言っていることです」)。おそらく、これがピラトの尋問に対するイエスの答えとして伝えられた言葉であろうと見られます。ヨハネはそれに「あなた自身から」という句を加え、「他の者があなたに言ったのか」と対照させて、質問の形にしています。三七節では「わたしが王だと言うのはあなただ」となっています。ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人であるものか。お前の国の者と祭司長たちがお前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」。(三五節)
イエスの問いかけに対するピラトの答え、「このわたしがユダヤ人であるのか」(直訳)は、「そんなことはあるものか」と、否定の答えを予想し強調する疑問文です。わたしはユダヤ人ではないのだから、お前が王であると考えたり言ったりするはずはない、という意味です。ピラトはイエスの反問に、わたしがそう言うのではなく、お前の同国人たちがそう言ってお前を訴えたのだと答えます。お前の同国人がそう言って訴えるからには、お前がそれに相当する何かをしたからだろう。いったい何をしたのか、と問いただします。イエスはお答えになった、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであったら、わたしの部下たちはわたしがユダヤ人たちに渡されないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はここから出たものではない」。(三六節)
イエスは、「わたしの《バシレイア》(王の支配、王国)」という表現を用いて答えておられます。イエスの宣教が「神の《バシレイア》」を主題としていたことは、共観福音書が繰り返し詳しく伝えています。それに対してヨハネ福音書では、この《バシレイア》という用語はほとんど出てきません。三章(三節と五節)に二回と、本節の三回だけです。しかし、ヨハネもイエスの宣教の内容が「神の《バシレイア》」であり、イエスがこの《バシレイア》をいう語を繰り返し使われたことをよく知っています。ユダヤ人たちも、イエスがこの語を用いられたことを利用して、イエスが自分を王と主張したと訴えたのでしょう。その語を用いて、ヨハネはイエスとピラトの対話を構成します。そこでピラトはイエスに言った、「では、お前は王なのか」。イエスはお答えになった、「わたしが王だと言うのはあなただ。わたしは真理に証を立てようとして、そのために生まれ、そのために世に来た。真理からの者はみな、わたしの声を聴く」。ピラトはイエスに言う、「真理とは何か」。(三七節〜三八節前半)
ピラトにとって「この世のことではない支配」というようなことは理解できません。支配とは一つしかありません。この世で誰が支配するのか、ローマ皇帝か、誰か他の者か、それだけが問題です。イエスが《バシレイア》(王の支配)という言葉を用いて「わたしの支配」と言われたので、ピラトは「では、お前は《バシレウス》(王)なのか」と詰問します。バラバ釈放の要求
こう言って、ピラトは再びユダヤ人たちの前に出て来て言う、「わたしはこの者に何の咎も見出せない」。 (三八節後半)
ここから四〇節までは、内容的には一九章(一〜一六節)のピラトによる死刑判決を描く段落に属します。その箇所と一緒に講解すべきところですが、伝統的な章分けに従って、一八章の一部としてここで見ておきます。本来ならば、ここで章を分けるべきであり、伝統的な章分けは適切ではないようです。「ところで、過越祭にはあなたたちのために一人を釈放する慣例がある。それであなたたちは、わたしがあのユダヤ人の王を釈放することを願うか」。(三九節)
ところが、あくまでもイエスの処刑を求めるユダヤ人たちの気勢に押されたのか、ピラトは別の釈放理由を提案します。神殿勢力の代表者たちはイエスを訴えているが、民衆はイエスを慕っていて、イエスの釈放を求めるであろうとピラトは予想したのでしょう。すると、彼らは再び叫び出して言った、「この男ではなく、バラバを」。バラバは強盗であった。(四〇節)
ピラトの予想に反して、裁判の場に押し寄せていた群衆は「この男ではなく、バラバを」と叫びます。著者は「バラバは強盗であった」と説明を加えています。「強盗」の原語《レーステース》は、たしかに「強盗」という意味の語ですが、反ローマの武装革命家をローマ側がこう呼んで逮捕処刑しました。イエスと一緒に十字架刑に処せられた二人もこう呼ばれています。「暴徒」と訳してもよいでしょう。たんなる物取り強盗の類ではなく、宗教的な動機から支配者であるローマの権力に武力をもって反抗した運動家たちを、ローマ側がこのような蔑称で呼んだのです。事実、彼らの中には軍資金を得るために、金持ちを襲うという強盗行為をした者もあったようです。