第二節 世に対する勝利
16 「あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる」。 17 そこで、弟子たちの中のある者たちは互いに言った。「『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』とか、『わたしは父のもとに行くのだ』と言われるが、これは何のことだろう」。 18 彼らは、「『しばらくすると』というのは、何のことだろう。わたしたちには、お話になっていることが分からない」と言った。 19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って、言われた。「わたしが『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』と言ったので、このことであなたたちは互いに論じ合っているのか。 20 アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちは泣き、嘆くことになるが、世は喜ぶであろう。あなたたちは悲しむことになる。しかし、あなたたちの悲しみは喜びに変わる。 21 女は子を産むとき、その時が来たというので苦しむものである。しかし、子が産まれてしまうと、人が世に生まれたという喜びのために、もはやその苦痛を思い出すことはない。 22 そこで、あなたたちもまた、今は悲しみがあるが、わたしは再びあなたたちに会うことになり、あなたたちの心は喜びに溢れるであろう。そして、その喜びをあなたたちから奪い去るものはない」。
しばらくすると
「あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる」。(一六節)
ここでは「見なくなる」と「見ることになる」と同じ「見る」で訳していますが、原語では違う動詞が用いられています。先の「見なくなる」は、目で見ることを指す普通の動詞ですが、後の「見ることになる」は、復活されたイエスが「現れた」ことを表現するのに、「(誰それに)見られた」と受動態で用いられる動詞(たとえばコリントT一五・五〜八)が能動態で用いられています。この節は、イエスが世を去って、もはや普通の意味では見ることができないようになりますが、その後すぐに復活者として弟子たちには見られるようになることを予告しています。そこで、弟子たちの中のある者たちは互いに言った。「『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』とか、『わたしは父のもとに行くのだ』と言われるが、これは何のことだろう」。彼らは、「『しばらくすると』というのは、何のことだろう。わたしたちには、お話になっていることが分からない」と言った。(一七〜一八節)
著者とその共同体は、イエスが十字架上に死なれたあと復活して、イエスがそこから来られた元の場所、すなわち父のもとに帰られたことを知っています。そのことを生前のイエスはしばしば「わたしは父のもとに行くのだ」と語られたと描きました。そして、この最後の食事の席でも、すぐに起ころうとしているその出来事を、「しばらくすると」という句を繰り返して、「あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる」と語られたとします。イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って、言われた。「わたしが『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』と言ったので、このことであなたたちは互いに論じ合っているのか」。(一九節)
このように、「またしばらくするとわたしを見ることになる」というお言葉について、弟子たちの間に論争があることを知っている著者は、その論争にイエスご自身が語りかけるという形(二〇〜二二節)で、一般に終末時のこととして将来に待ち望まれている勝利の事態が、聖霊によって復活者イエスと出会う体験においてすでに来ていることを、以下の数節(二〇〜二二節)で証言します。産みの苦しみと命の喜び
「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちは泣き、嘆くことになるが、世は喜ぶであろう。あなたたちは悲しむことになる。しかし、あなたたちの悲しみは喜びに変わる」。(二〇節)
この証言は、この福音書特有のアーメンを繰り返す荘重な形式で、復活者イエスが共同体に語りかける言葉として書き記されます。「女は子を産むとき、その時が来たというので苦しむものである。しかし、子が産まれてしまうと、人が世に生まれたという喜びのために、もはやその苦痛を思い出すことはない」。(二一節)
出産の時が近づくと、妊婦は陣痛の苦しみを味わいます。しかし、無事出産して、赤ちゃんの元気な泣き声を聞きますと、新しい生命の誕生を喜ぶ命の喜びに満たされて、陣痛の苦しみは忘れてしまいます。この節(二一節)では比喩だけが語られていますが、出産を比喩として描かれる弟子たちの体験、悲しみが喜びに変わるという体験は次節(二二節)で語られることになります。しかし、ここで「産みの苦しみ」が比喩として用いられていること自体が重要です。二〇節で「悲しむ」とか「悲しみ」と訳し、二一節前半で「苦しむ」と訳した原語は、同じ語を用いた表現であり、その語は悲しみ、苦しみ、苦悩、不安など、内面的な痛みを広く指します。二〇節では、喜びに対立する感情として「悲しみ」と訳し、二一節前半では出産の苦しみ全般を指すと理解して「苦しみ」と訳しています。しかし、二一節後半で「苦痛」と訳した語は、先に「悲しみ」とか「苦しみ」と訳した語とは違う用語で、外的な事情からくる苦難を指す場合が多い語です。迫害による苦難とか終末的な苦難にもよく用いられています。ここでは「産みの苦しみ」を指すので「苦痛」と訳しています。
「そこで、あなたたちもまた、今は悲しみがあるが、わたしは再びあなたたちに会うことになり、あなたたちの心は喜びに溢れるであろう。そして、その喜びをあなたたちから奪い去るものはない」。(二二節)
最初の句「あなたたちもまた」において、「あなたたち」が強調されています。出産に臨んだ女と同じように、あなたたちもまた同じ状況にある、の意です。イエスが去っていくと語られたので、弟子たちは「今は」悲しみで一杯です(六節参照)。しかし、先にも述べたように(六節の講解)、この「今」の悲しみは、実際は師が刑死された直後の弟子たちの状況を指しています。正確には、二〇節が語っているように未来形で語られる状況です。事実としては十字架直後の状況が、今のこととして語られ、今のこの悲しみがすぐに喜びに変わることが約束されます。それは、陣痛の後に出産の喜びを体験する妊婦のように、確かなこととして語られます。>56 世に対する勝利(16章 23〜33節 )
23 「そして、その日には、あなたたちはわたしに頼むことは何もないであろう。アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたたちに与えてくださるであろう。 24 あなたたちは今までわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば受け取って、あなたたちの喜びは満ちあふれるであろう。
25 これらのことを、わたしはこれまで謎の形であなたたちに語ってきた。もはや謎の形で語るのではなく、父について明らかに告げ知らせる時が来る。 26 その日には、あなたたちはわたしの名によって求めることになる。わたしは、あなたたちに代わってわたしが父に頼んであげようとは言わない。 27 あなたたちがわたしと親しくし、わたしが神から来たことを信じたので、父御自身があなたたちを親しく愛しておられるからである。 28 わたしは父のもとから出て世に来たのであるが、世を去って再び父のもとに行くのである」。
29 弟子たちが言う、「今あなたは明らかにお話になり、もはや謎を語られません。 30 あなたはすべてのことを知っておられ、誰かがあなたに頼むのを必要とされないことが、今はわたしたちにも分かります。このゆえにわたしたちは、あなたが神から来られたことを信じます」。 31 イエスは彼らにお答えになった、「今あなたたちは信じているのか。 32 見よ、あなたたちがそれぞれ自分の所に散らされ、わたしを独り置き去りにするようになる時が来ようとしている。いや、すでに来ている。だが、わたしは独りではない。父がわたしと一緒にいてくださるからである。 33 わたしの内にいることであなたたちが平安を得るように、わたしはこれらのことをあなたたちに語った。世にあってあなたたちは苦しみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に打ち勝っている」。
直接父に求めよ
「そして、その日には、あなたたちはわたしに頼むことは何もないであろう。アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたたちに与えてくださるであろう」。(二三節)
「わたしに頼むことは何もない」というのは、「その日」を境にして、それまでは弟子たちは地上のイエスに頼って、何でも師であるイエスにお願いしていたが、その日になると、イエスの名によって(イエスの立場で、イエスがそうしておられたように)直接父に求めるようになるので、それ以前のようにイエスに頼むことはなくなる、という意味です。「頼む」と訳した動詞《エロータオー》は、普通「尋ねる(質問する)」という意味で用いられる動詞であって、二三節後半と二四節に用いられている「求める」《アイテオー》とは違う動詞です。しかし、ヨハネ福音書ではこの《エロータオー》は「願う」とか「頼む」という意味の用例もかなりあります(四・三一、四・四〇、四・四七、一二・二一、一四・一六、一六・二六、一七・九、一七・一五、一七・二〇、一九・三一、一九・三八)。とくに一六・二六では、二つの動詞が並行して用いられており、《エロータオー》の方は明らかに「頼む」の意味であって、「尋ねる」では意味をなしません(英訳はこの二つの動詞をいつも同じ ask で訳しています)。ここ(二三節)でも、前後の意味のつながりから、「願う」とか「頼む」と理解しなければなりません。
このような劇的な変化が起こる「その日」とは、この訣別遺訓で繰り返し語られていた「真理の御霊」が来られる日、その御霊において復活者イエスが戻ってきて、同伴者としていつも信じる者と共に、またその内にいてくださるようになる日です(一四・一六〜二〇)。黙示思想が「かの日」とか「その日」と呼んで将来に待ち望んできた終わりの日に起こる決定的事態が、イエスの十字架・復活、そして聖霊到来の事態においてすでに起こっているとし、ヨハネ福音書はその出来事が起こる時を「その日」と呼びます。「あなたたちは今までわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば受け取って、あなたたちの喜びは満ちあふれるであろう」。(二四節)
「わたしの名によって」という句は、本来「わたしの名代として」の意です。その名の人物の代わりに行動する立場を指しています。「その日」以後は、弟子たちはイエスの立場で父に求めることを許されます。父はイエスにされたように、イエスの立場で求める者にしてくださると約束されます。もはや謎ではなく
「これらのことを、わたしはこれまで謎の形であなたたちに語ってきた。もはや謎の形で語るのではなく、父について明らかに告げ知らせる時が来る」。(二五節)
地上のイエスは神の国について、また父についていつも「謎《パラボレー》の形で」、すなわち隠された形で語られましたが、「その日」には復活者イエスは聖霊によって父の栄光を魂に直接、もはや何も隠すことなく明白に告げ知らせることになります。
共観福音書では、イエスはすべて《パラボレー》(たとえ)の形で神の国のことを語られたとされていますが(マルコ四・三三など多数)、ヨハネ福音書ではこの語は用いられないで、ほぼ同じ意味の《パロイミア》が用いられています(ここと二九節、および一〇・六の三箇所)。両方ともヘブライ語の《マーシャール》(格言、謎、比喩、象徴)に相当するギリシア語ですが、ここでは「(何も隠さないで)明白に」と対照されているので、「謎の形で」と訳しています。一〇・六では「たとえ」「比喩」としてもよいでしょう。
「時が来る」というのは、この訣別遺訓で繰り返し「その日には」と語られている時を指します。その時は、イエスが世を去り「別の同伴者」(聖霊)が来られる時です。その日は復活されたイエスに会う日であり、栄光の主が世に臨まれる日です。ヨハネ福音書ではイースター(復活顕現)、ペンテコステ(聖霊降臨)、パルーシア(キリスト来臨)が重なっています。「その日には、あなたたちはわたしの名によって求めることになる。わたしは、あなたたちに代わってわたしが父に頼んであげようとは言わない」。(二六節)
この箇所(二三〜二八節)では、「その日には」父と弟子たちの関わり方が変わることに重点が置かれています。それまでは弟子たちはイエスを介して初めて父と関わりを持つことができたのですが、「別の同伴者」である聖霊が来られる「その日には」、弟子たちは「イエスの名によって」(イエスの立場で)直接父と関わるようになるのです。もはや、イエスが弟子たちに代わって父に頼んでくださるという仲介を必要としなくなります。そして、そうなる理由が次節で語られます。「あなたたちがわたしと親しくし、わたしが神から来たことを信じたので、父御自身があなたたちを親しく愛しておられるからである」。(二七節)
そのように弟子たち(わたしたち)が、もはや地上の人であるイエスの仲介なしで直接父に求めることができるようになるのは、父御自身がイエスに属する者を直接「親しく愛しておられるから」です。ここでは肉親や友人など身近な親しい者を愛するという意味の《フィレオー》が用いられているので、こう訳しています。「わたしは父のもとから出て世に来たのであるが、世を去って再び父のもとに行くのである」。(二八節)
イエスは父からこの世に遣わされた方であり、その死とそれに続く出来事(復活)は、イエスが世を去って再び父のもとに行かれることであるという使信こそ、この福音書が世に向かって、とくにユダヤ教会堂に向かって語る使信の核心です。それがここで繰り返されます。弟子たちが言う、「今あなたは明らかにお話になり、もはや謎を語られません。 あなたはすべてのことを知っておられ、誰かがあなたに頼むのを必要とされないことが、今はわたしたちにも分かります。このゆえにわたしたちは、あなたが神から来られたことを信じます」。(二九〜三〇節)
この部分の解釈は混乱しています。混乱の理由の一つは、「必要としない」という動詞の主語がほとんどの邦訳であいまいだからです。邦訳はほとんどみな「誰もお尋ねする必要がない」と訳していますが、これは「必要とする」の主語を「誰か」(三人称単数)として読んでいることになり、文法的に成り立ちません。「必要としない」という動詞は二人称単数形であって、主語は「あなた」です。英訳はみな「あなたは(誰かがaskすることを)必要とされない」と正しく理解しています。日本語訳では、文語訳の「人の汝に問うを待ち給はぬこと」だけがこの意味に理解しています。「誰かがあなたに頼む」という句の動詞《エロータオー》は、「尋ねる」と理解するか「頼む」と理解するかは問題が残ります。この箇所に関しては、ほとんどの現代語訳は「尋ねる」としていますが、私訳では一貫して「頼む」と理解します(二三節の「頼む」の注を参照)。
「あなたは人が頼むのを必要とされない」というのは、人から頼まれてはじめて何かを行う方ではなく、人が頼む前にすべてを知って事をなされる方である、という意味に理解することができます。この文は、直前の「あなたはすべてのことを知っておられる」と並行しており、「すべてのことを知っておられる」ことを別の表現で語ったものです。イエスは世に勝っている
イエスは彼らにお答えになった、「今あなたたちは信じているのか。見よ、あなたたちがそれぞれ自分の所に散らされ、わたしを独り置き去りにするようになる時が来ようとしている。いや、すでに来ている。だが、わたしは独りではない。父がわたしと一緒にいてくださるからである」。(三一〜三二節)
イエスの死にさいして弟子たちがイエスを見捨てて逃亡することは、共観福音書(マルコ一四・二七と並行箇所)では最後の晩餐の後ゲッセマネへ行く途上で、イエスがゼカリヤ書の預言を引用する形で予告されたとされていますが、ヨハネ福音書では最後の食事の席での訣別遺訓の中で予告されています。用語と状況は違いますが、弟子たちの逃亡をイエスが予告されたことについて共通の伝承があったと見られます。「わたしの内にいることであなたたちが平安を得るように、わたしはこれらのことをあなたたちに語った。世にあってあなたたちは苦しみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に打ち勝っている」。(三三節)
最後に、この訣別遺訓でイエスが語られたことは、「わたしの内にいることであなたたちが平安を得るように」なるためであると、この遺訓全体の意図が説明されます。この世界の中でイエスに従う弟子であることは、多くの苦しみを引き受けることになるが、すでに世に打ち勝たれたイエスの内にとどまることによって、平安と勝利を得ることが約束されます。だから「勇気を出しなさい」という励ましで、この遺訓が締め括られます。二つの用語
では「世に打ち勝つ」とはどういうことでしょうか。それを理解するために、まずヨハネ福音書において「世」という語がどういう意味で使われているかを確認しておきましょう。ヨハネが《アイオーン》を用いるのは、「永遠に」とか「いつまでも」という意味の熟語として用いるだけで、救済史的な時代を指す用例はありません。それに対して《コスモス》の方は、全新約聖書の一八六回の用例の中、ヨハネ文書(福音書と手紙)で一〇八回を占めています。ヨハネが《コスモス》をいかに強く意識していたかがうかがわれます。
対立する二つの領域
ヨハネも、先に見たヘレニズム期ユダヤ教における《コスモス》の用法を受け継いでいますが、ヨハネはこの語にヨハネ独自の意味合いをこめて用いている面があります。ヨハネは、自分たちが復活者キリストにおいて体験し生きている新しい命《ゾーエー》の領域と、その自分たちに対立し別の原理で存立している外の世界とを峻別して、両者をまったく相容れない領域として描きます。ヨハネ福音書においては、復活者キリストにあって生きる共同体は命と光の領域にあり、それに敵対する外の領域は死と暗闇の領域を形成することになります。この外の死と闇の領域を、ヨハネは「世」《コスモス》と呼ぶのです(たとえば三・一九、八・二三、一五・一八〜一九、一七・九、一八・三六)。「世に勝つ」という同じ主題について、パウロは少し違ったアプローチで語っています。パウロの場合については、『天旅』二〇〇五年6号の福音講話「世に勝つ信仰」を参照してください。なお、この講話は『市川喜一著作集』第一版には入っていませんが、第二版の『教会の外のキリスト』増補版に掲載する予定です。
なお、ヨハネ福音書の《コスモス》に対する厳しい態度ないし反感は、後のグノーシス主義者たちにこの福音書に親近感を覚えさせる一因になったのではないかと考えられます。グノーシス主義は、《コスモス》を価値の源泉として仰ぐ正統のギリシア思想に反抗して、《コスモス》を悪と見る思想であり、《コスモス》の外に、あるいは《コスモス》を超えたところに神的世界があるとし、そこへの帰還を救済とする宗教思想です。しかし、ヨハネ福音書とグノーシス主義との関係は、問題があまりにも大きくて、この講解の範囲を超えますので、ここでは《コスモス》に対する態度にある種の共通点が見られる事実を指摘するにとどめます。