第一五章 ぶどうの木とその枝
―― ヨハネ福音書 一五章 ――
第一節 ぶどうの木の比喩と愛の戒め
1 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。 2 わたしについている枝で、実を結ばないものはみな、父がこれを取り除く。実を結ぶ枝はみな、さらに多くの実を結ばせるために、父がこれを手入れされる。 3 わたしがあなたたちに語った言葉によって、あなたたちはすでに清いのだ。 4 わたしの内にとどまっていなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内にとどまる。枝はぶどうの木の内にとどまっていなければ、自分から実を結ぶことはできないように、あなたたちもわたしの内にとどまっていなければ、実を結ぶことはできない。 5 わたしがぶどうの木であり、あなたたちは枝である。わたしの内にとどまる者は、わたしもその人の内にとどまっていて、多くの実を結ぶのである。 6 もしわたしの内にとどまっていない人があれば、その人は枝のように外に投げ出されて枯れ、集められ、火に投げ入れられて燃やされてしまう。 7 あなたたちがわたしの内にとどまり、わたしの言葉があなたたちの内にとどまっているならば、望むものは何でも求めなさい。そうすれば、あなたたちになされることになる。 8 このことによってわたしの父は栄光をお受けになり、あなたたちは多くの実を結び、わたしの弟子となるのである」。
一五章〜一七章について
最後の夜、食事の席での訓話はいったん一四章で終わり、「さあ、立て。ここから出ていこう」(一四・三一)という言葉で締め括られています。この言葉は一八章一節に自然に続きます。福音書の原著は、一四章から一八章に続いていたと考えられます。その間にある一五〜一七章は、いったん成立した原著に後で挿入された部分と見られます。その挿入が編集者によってなされたのか、また原著者自身によってなされたのか、その過程は議論されていて確定は困難です。しかし、それがヨハネ共同体の中で形成されて現在の形になったことは確実ですから、この全体を「ヨハネ福音書」の「訣別遺訓」として聴かなければなりません。表現に微妙な違いが見られますが、この部分は一四章の約束を詳しく展開した内容になっています。まことのぶどうの木
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である」。(一節)
ここで、ヨハネ特愛の「とどまる」という動詞を用いて、復活者イエスと弟子たちのつながりがぶどうの木とその枝の比喩で語られます。このたとえは、「彼は言った」というような句を伴わず、また、先行する部分とのつながりもなく、唐突に始まります。この唐突さは、この部分がもともと独立した別のまとまりであり、後から原著に挿入されたものであることを示唆しています。《エゴー・エイミ》を用いたこの福音書独自の福音提示の形については、本書T319頁の特注「ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」を参照してください。
この「わたしはぶどうの木である」という宣言は、本来「あなたたちは枝である」と対句を構成して、復活者イエスと弟子たちとの命のつながりを指し示すたとえです(五節前半参照)。枝は木につながっていなければ実を結ぶことはできません。木から切り離された枝は枯れます。この命の事実を根底にして、ぶどうの木のたとえは語られています。木につながっている枝
「わたしについている枝で、実を結ばないものはみな、父がこれを取り除く。実を結ぶ枝はみな、さらに多くの実を結ばせるために、父がこれを手入れされる」。(二節)
果樹の栽培者は、実を結ばない枝は木全体の成長に妨げになるだけですからこれを取り除き、実を結ぶ枝はさらに多くのよい実を結ばせるために、わき芽をつんだりして手入れします。この剪定作業は園芸の基本作業です。この園芸の基本原則を比喩として用いて、著者は共同体の成員に、復活者イエスに正しくつながっているように説き勧めます。「わたしがあなたたちに語った言葉によって、あなたたちはすでに清いのだ。わたしの内にとどまっていなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内にとどまる」。(三節〜四節前半)
イエスはご自分に従う弟子たちに、「わたしがあなたたちに語った言葉によって、あなたたちはすでに清いのだ」と言われます。これは、弟子たちは(地上の)イエスの諸々の教えの言葉に従うことによって、神に受け入れられる清い生き方をするようになっているという意味ではありません。もしそうだとしたら、イエスはわたしたちの罪のために死ぬ必要はなかったはずです。「わたしがあなたたちに語った言葉」というのは、十字架の死と復活を含むイエスの出来事全体が意味されています。ここの「言葉」は単数形です。これは、現在ヨハネ共同体が復活者イエスから聴いている「御言葉《ホ・ロゴス》」です。その御言葉に自分を投げ入れ委ねることによって、わたしたちは「清い」者、すなわち神に所属する者とされているのです。「十字架の言葉」によってわたしたちは贖われ、神のもの(清い者)とされたのです。三節の意味については、20頁以下の一三章一〇節についての講解も参照してください。
このように十字架された復活者イエスを神の言葉として聴いて、その言葉によって神に所属する者となった共同体の成員に向かって、ヨハネはその方の「内にとどまる」ように説き勧めます。三節と四節の間に「だから」という意味の語は用いられていませんが、意味の流れから言うと、あなたたちは清い者とされているのだから、あなたを清い者としてくださっている方の「内にとどまる」ように、とつながります。清い者でなければ、その方の「内にとどまる」ことはできません。三節は四節の勧告が成り立つ前提です。実を結ぶ枝
「枝はぶどうの木の内にとどまっていなければ、自分から実を結ぶことはできないように、あなたたちもわたしの内にとどまっていなければ、実を結ぶことはできない。わたしがぶどうの木であり、あなたたちは枝である。わたしの内にとどまる者は、わたしもその人の内にとどまっていて、多くの実を結ぶのである」。(四節後半〜五節)
「内にとどまる」という動詞は本来人格間の交わりについて用いられる動詞ですが、ヨハネはそれをあえて木と枝の「つながり」を示すのに用いて、「枝はぶどうの木の内にとどまっていなければ」と語り、比喩に現実感を与えています。「もしわたしの内にとどまっていない人があれば、その人は枝のように外に投げ出されて枯れ、集められ、火に投げ入れられて燃やされてしまう」。(六節)
形だけで共同体に連なっていても、ここでヨハネが言う意味で「まことのぶどうの木」である復活者イエスの内にとどまっていない者は、御霊の実を結ぶことはなく、その人生は生まれながらの人間本性から出てくるものだけとなり、神に喜ばれることはできません。それは神の裁きに耐えず、結局は「外に投げ出されて枯れ、集められ、火に投げ入れられて燃やされてしまう」、すなわち永遠の視点からは無価値なものとして滅びてしまうのです。「木はその実によって知られる(判断される)」のです。望むものは何でも
「あなたたちがわたしの内にとどまり、わたしの言葉があなたたちの内にとどまっているならば、望むものは何でも求めなさい。そうすれば、あなたたちになされることになる」。(七節)
先にイエスは地上に残していく弟子たちにこう約束されました。「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。わたしを信じる者は、わたしがしているのと同じわざをする。いや、これよりも大きなわざをするようになる。わたしが父のもとに行くからである。また、あなたたちがわたしの名によって求めることは何でも、わたしがそれをする。父が子によって栄光をお受けになるためである。あなたたちがわたしの名によって求めることは、わたしがそれをする」(一四・一二〜一四)。それと同じことが、ここではぶどうの木と枝の比喩の中で、「信じる」の代わりに「内にとどまる」という表現を用いて語られています。そして、わたしたちが復活者イエスの「内にとどまる」ことが、「わたしの言葉があなたたちの内にとどまっている」ことと一つにされて、前節の「内にとどまらず、実を結ばない」者と対比されています。「このことによってわたしの父は栄光をお受けになり、あなたたちは多くの実を結び、わたしの弟子となるのである」。(八節)
「このことによって」、すなわち、直前の節(七節)にあるように、わたしたちがイエスの内にとどまり、イエスの言葉が内にとどまっているので、求めることが与えられるというつながりが現実となっていることによって、父はイエスの父として崇められることになります。このように求めるものが与えられるのは、イエスに結びつく者が多くの実を結ぶようになるためであり、それによってイエスのまことの弟子となる、すなわち、イエスの業を現実に継承する者となるためです。八節冒頭の「このことによって」という句の「このこと」は、すべての邦訳(協会訳、新共同訳、新改訳、岩波版、塚本訳)で、後に来る節(あなたたちが多くの実を結び、わたしの弟子となること)を指すと理解して訳しています。この理解も内容としては正しい理解であり、この翻訳は正当です。しかし、文頭にあるこの句は、素直に読めば先行する出来事(七節)を指していることになります。すなわち、イエスの内にとどまり、イエスの言葉が内にとどまっているので、求めることが与えられるという事実を指していると理解できます。このことが起こることによって「わたしの父が栄光をお受けになる」ことになります。この場合、その後に続く《ヒナ》で始まる節は、目的または結果を示す副詞節として、この現実的なつながりによって弟子たちは「多くの実を結び、(真実にイエスの)弟子となる」という結果にいたると理解します。この《ヒナ》節の二つの動詞は接続法であるので、この節は目的とか結果を示す副詞節と理解する方が自然であると考えます。なお、「弟子となる」の「なる」を直説法未来形とする有力な写本があり、こう読む場合は、「わたしの父は栄光をお受けになる」と対等に並ぶ主文として、「あなたたちが多くの実を結ぶことによってわたしの父は栄光をお受けになり、こうして、あなたたちはわたしの弟子となるであろう」と訳す可能性が出てきます。KJVはこの読み方をしているようです。どの読み方をとっても、この節の大意に変わりはないと考えます。
9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたたちを愛した。わたしの愛の内にとどまっていなさい。 10 わたしがわたしの父の命令を守ってきたので、父の愛の内にとどまっているように、あなたたちがわたしの命令を守るならば、あなたたちはわたしの愛の内にとどまることになる。 11 わたしの喜びがあなたたちの内にあり、あなたたちの喜びが満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたたちに語ってきた。12 わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
13 人が友のために自分の命を捨てる、これより大きな愛はない。 14 わたしが命じることをあなたたちが行っているならば、あなたたちはわたしの友である。 15 わたしはもうあなたたちを僕とは言わない。僕は主人が何をしているのかわからないからである。わたしはあなたたちを友と言った。わたしが父のもとで聞いたことすべてをあなたたちに知らせたからである。
16 あなたたちがわたしを選んだのではない。わたしがあなたたちを選んで、あなたたちが行って実を結び、その実が残るように、あなたたちを立てた。それは、あなたたちがわたしの名によって父に求めることは何でも、父が与えてくださるようになるためである。 17 互いに愛し合いなさい。わたしはこのことをあなたたちに命じる」。
イエスの愛の内にとどまる
もとの訣別訓話(一三〜一四章)にあった「あなたたちは互いに愛し合いなさい」という「新しい命令」(一三・三四)が、この拡張部分(一五〜一七章)で繰り返されます。ぶどうの木の比喩を含むこの大きな段落全体(一五・一〜一七)は、この「新しい命令」を詳しく展開するものとなっています。ヨハネの手紙に見られるように、とくに相互の愛を強調しなければならない状況がヨハネ共同体に発生して、このような追加的な勧告が加えられた可能性も考えられます。もしその「状況」がヨハネの手紙(T二・一九)が指し示している共同体の分裂の危機であるならば、ぶどうの木の比喩もイエスにある交わりの内にとどまるように説くことを眼目とする比喩であり、ここのお互いの愛を説く段落も、分裂の危機を克服しようとする説教となります。ヨハネ共同体における分裂の危機とヨハネ福音書の成立過程との関係については、『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』の「共同体の危機と長老の書簡」(本書316頁)を参照してください。なお、共同体の分裂の危機と福音書の編集過程との関係については、 T335頁以下の八章四四節への講解も参照してください。
動機は何であれ、これがイエスの教えの核心であることは間違いありません。共観福音書では、「父が慈愛深いように、あなたたちも慈愛深いものであれ」と表現されていますが、互いの慈愛の根拠とされる父の慈愛を、ヨハネはイエスにおいて現された父の愛に具体化して、互いの愛の根拠としています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたたちを愛した。わたしの愛の内にとどまっていなさい」。(九節)
ヨハネはイエスの生涯を弟子たちへの愛の現れとし、この訣別訓話をイエスが最後まで弟子たちを愛されたからなされた訓話として伝えました(一三・一)。そして、その弟子たちに対するイエスの愛は、イエスが父から受けておられた愛の流出だとします。その上で、このイエスの愛の内にとどまることが、イエスの内にとどまることであり、弟子としてもっとも大切なことであると、以下の訓話でその内容を語ります。「わたしがわたしの父の命令を守ってきたので、父の愛の内にとどまっているように、あなたたちがわたしの命令を守るならば、あなたたちはわたしの愛の内にとどまることになる」。(一〇節)
イエスは「わたしは父の命令を守ってきた」と言われます。動詞は現在完了形です。ヨハネはイエスの従順を完了した事実と見ています。イエスが父の命令を守ることによって、すなわちその全生涯をもって父が求められるところを果たすことによって、父の愛にとどまり、父との交わりにとどまられたのです。そして今も父の愛の内にとどまって生きておられます。そのように、弟子たちがイエスの命令を守るならば、弟子たちはイエスの愛の内にとどまることになり、復活者イエスとの命の交わりに生きることになります。「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。(一二節)
ここの「わたしの命令」は、一三章三四節の「新しい命令」と同じく単数形です。内容も同じです。ヨハネはこの命令をイエスの唯一究極の命令と受けとめています。一三章の場合と違う点は、ここではその命令を守ることがイエスの愛の内にとどまるようになることの前提とされていることです。しかし、ここで誤解してはならないのは、その命令を守ることはイエスの愛を受けるための条件ではないということです。父の愛は無条件絶対です。相手の価値とか資格を条件としないで注がれる慈愛です。イエスはこの父の無条件絶対の愛を受けて、それを周囲の「貧しい人たち」に注いでいかれました。イエスの愛は相手の価値とか資格に絶した無条件の愛、敵をも愛する愛です。「わたしの喜びがあなたたちの内にあり、あなたたちの喜びが満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたたちに語ってきた」。(一一節)
このようにイエスの命令を守ることによってイエスの愛の内にとどまるようにと説く勧告の中に、割り込むようにその勧告を語る目的が入れられています。そのように説き勧めるのは、「あなたたちの喜びが満ちあふれるようになるため」であるというのです。しかも、その喜びはわたしたちがこの世で味わう喜びではなく、「わたしの喜び」、すなわちイエスが天から受けて内に溢れさせておられる喜びです。それは聖霊による喜びです(ルカ一〇・二一)。友と僕
「人が友のために自分の命を捨てる、これより大きな愛はない」。(一三節)
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたたちを愛した」というイエスの言葉を伝えるとき、ヨハネはイエスが自分たちのために死んでくださったという事実と、その事実の中にこそイエスの愛が現れていることを語らないではおれません。「わたしが命じることをあなたたちが行っているならば、あなたたちはわたしの友である。わたしはもうあなたたちを僕とは言わない。僕は主人が何をしているのかわからないからである。わたしはあなたたちを友と言った。わたしが父のもとで聞いたことすべてをあなたたちに知らせたからである」。(一四〜一五節)
ここで「友である」ことは僕と対照されています。旧約聖書ではアブラハムが「神の友」と呼ばれ(イザヤ四一・八)、ユダヤ教でもモーセや預言者たちが神の友と呼ばれていますが(知恵の書七・二七など)、原始キリスト教はこの呼び方を受け継いでいません。ヨハネが弟子を「イエスの友」と呼ぶのは、新約聖書では例外的な呼び方です。グノーシス的な世界では、知識を得た者が啓示者の友人と呼ばれることが多いようで、ヨハネの呼び方はグノーシスの伝統から来ていると言われています。この箇所の「僕」の原語は、ふつう奴隷を指す《ドゥーロス》という語です。ここでは自由な身分に対立する「奴隷」の身分を指すのではなく、友人と対照されて、主人の計画や気持ちを理解しないで命じられたことだけを行う立場の人を指しているので、奴隷よりも広い「召使い」とか「従僕」という意味で用いられていると理解し、「僕」と訳しています。NRSVは本文で servant(僕)、 欄外に slave(奴隷)という訳をあげています。
「わたしが命じることをあなたたちが行っているならば」、すなわち、イエスが愛された愛をもって互いに愛し合っているならば、わたしたちはイエスの愛の内にとどまることになり、復活者イエスとの交わりの中に生きることになります。そのように、イエスとの交わりに生きる姿が「友」という語で表現されます。イエスとの命の交わりに生きる者はもはや、主人の意図や気持ちを理解することなくただ命令に従って行動する奴隷とか従僕ではなく、お互いに思いを理解して、その理解によって共に生きる「友」となっているのです。イエスはそのような弟子を「わたしの友」と呼ばれます。「あなたたちがわたしを選んだのではない。わたしがあなたたちを選んで、あなたたちが行って実を結び、その実が残るように、あなたたちを立てた。それは、あなたたちがわたしの名によって父に求めることは何でも、父が与えてくださるようになるためである」。(一六節)
この場面では、イエスは「十二人」(実際にはユダを除く十一人)と「イエスが愛された弟子」に向かって語っておられます。ヨハネ福音書は、共観福音書のようにイエスが十二人を選ばれた時の記事はありませんが、「十二人」弟子団の存在は前提にしています(六・六七、六・七〇〜七一、二〇・二四)。しかしここでは、イエスと十二人の関係ではなく、イエスと弟子の関係の原理が問題になっています。したがって、特定の役目に「任命した」(新共同訳)というのは適切ではありません。 「互いに愛し合いなさい。わたしはこのことをあなたたちに命じる」。(一七節)
もともとの「訣別遺訓」(一三〜一四章)の中心主題であった「互いに愛し合いなさい」というイエスの命令が、それを拡張部分でぶどうの木の比喩を用いて繰り返すこの段落(一五・一〜一七)の最後に置かれて、段落が締め括られます。